リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

阪神淡路大震災と自衛隊part3

 このシリーズでは、阪神淡路大震災での自衛隊の活動をとりあげています。

 阪神淡路大震災が起こったのは朝の5時46分のことでした。自衛隊は6時30分には緊急勤務態勢にうつり、災害派遣を予想して出動準備にかかりました(part1)。しかし災害派遣要請はなかなか出ませんでした。首相官邸は何もせず、兵庫県は規則に縛られて動きがとれなくなっていたからです(part2)。ようやく要請がでたのは午前10時のこと。伊丹、姫路、福知山の三個連隊をはじめとした自衛隊の部隊が、神戸に向かって出発しました。

 しかし、震災初日の日中に神戸市内へ入れたのは伊丹と姫路から出動した約1000人のみでした。夜半にさらに2000人が到着、合流しましたが、被災直後の情況を考えれば不十分な人数でした。1万人を超える人数が展開したのは被災三日目以降のことです。

 到着が遅くなった理由は2つあります。1つは派遣要請がなかなかでなかったことです。そしてもう1つが渋滞と、それを回避不能にした平時の準備不足です。それらに加え、救助活動で自衛隊の装備と判断に不足があったことも、後に教訓を残しました。

○即応対処計画の発動

(引用元「姫路駐屯地」)
 第三特科連隊は姫路市に駐屯する部隊です。震災のとき、神戸市の災害・警備の対応はこの連隊の担当でした。

 震災の日、この連隊は事前に作成してあった即応対処計画にしたがって動き出しました。震度4以上の地震がおこった場合には、新たな命令を待つことなく情報収集、出動準備のための勤務態勢へ移るよう定められていたのです。そのため6時半には林連隊長をはじめ、主な人員は参集を終えました。

 林連隊長は災害派遣があることを予想し、出動準備を進めるとともに、神戸に向けて3チームの連絡班を先行させました。連絡班からは「おびただしい数の車が神戸に向かっており、大渋滞になっている」と報告がありました。報告を受けた連隊長は、渋滞の中を進むことを考え、姫路の警察署にパトカー派遣を要請しました。

 連隊が出動準備を終えたのが9時、県知事の災害派遣要請がでたのは10時、到着したパトカーに先導を任せて出動したのは10時14分のことでした。(p16-17 松島)神戸市まで、いつもなら約1時間あまりの道のりです。

 しかし神戸周辺の道路は被災地に向かう車で埋め尽くされていました。兵庫県警は十分な交通規制を行えず、車線が被災地へむかうマイカーで閉ざされてしまいました。このため、姫路の連隊が神戸市に入るまでに3時間がかかり、午後1時にやっと到着しました。

 神戸市長田区へ入った第三特科連隊は、警察・消防と連携して救助活動を開始しました。

○自衛隊には交通規制ができなかった

 京都府福知山の第七普通科連隊も、神戸にむかう途中、同様に渋滞につかまっていました。こちらはパトカーが来てくれなかったこともあって、さらに到着が遅れます。

 兵庫県警からパトカーの誘導が到着していなかったため、先導なしで渋滞の中を進むほかありませんでした。しかし災害派遣を命ぜられた自衛官には、一般車輌を規制することができません。警察官のように一般の車を止めたり、信号を止めたりする権限がないのです。

 進むごとにあふれかえる車を何とかどかしながら進むも、あまりの渋滞によってそのうち歩くような速度でしか前進できなくなり、神戸に到着するときには夜八時でした。*1

 もしも事前に県の防災訓練等を通し、災害時に自衛隊がどの経路のどの車線を使うかがあらかじめ決められており、警察がそれを把握して交通規制にあたっていれば、渋滞による時間ロスはかなり軽減できたでしょう。自衛隊にも災害派遣時には警察並みの交通規制ができる権限が与えられていたならば、パトカーが来なかったために渋滞にもろに捕まることもなかったかもしれません。

 なお交通規制権限については、震災後ただちに改善され、現在では自衛隊にも交通規制ができるようになっています。

○神戸市長田区での救助活動

(長田区菅原通りの商店街 中部方面隊サイトより引用

 日中に神戸に入れた第三特科連隊は、長田署と打ち合わせをして救助活動に入りました。生き埋め者がいるのに人手不足で手をつけられていない場所が30ヶ所ほどあり、そこを自衛隊が担当することになりました。

 救出活動は警察、消防、自衛隊の協力でおこなわれました。お互いの得意を生かしたのです。住民からの情報聞き出しや、立ち入り規制は手馴れた警察がおこないます。救助作業は消防士と自衛官がやり、特殊な救助機材がいるときは消防レスキュー隊の応援をうけました。

警察・消防・自衛隊それぞれに役割の分担がある。普段は一緒にこんな訓練をしたことはないが、それぞれが一つの目的のために力を結集する。……一つの現場が終ると、もう住民が呼びに来て待っている。……時には何人もの人が待っていて、直ぐに行きたいが手が足りない。「人手のないのをこれほど残念に思ったことはない」というのが人命救助に携わった全隊員の思いであった。(p29−30松島)

○自衛隊の問題点

 要請の遅れと渋滞、権限の不足といった問題に足をとられながらも、自衛隊は救助活動にあたりベストを尽くしました。とはいえ、完全無欠であったわけではありません。少なくとも2つ、見過ごせない問題点がありました。第1には方面隊を全力投入する判断が初日の夜になったこと、第2には救助用の装備が足りなかったことです。

 当初、救助の中心になったのは近畿の第3師団、約7000名です。しかしながら大震災の被害は、1個師団で対処できる規模をはるかに超えたものでした。

 北陸・東海・近畿と中四国を統括している中部方面総監が「第3師団を少々増強した程度ではムリだ。方面隊の全力を投入する」と決心したのは被災初日の夜です。この決心をうけて、名古屋の第10師団、広島の第13師団(後に旅団に縮小)からも部隊が前進します。もしこの総監の判断があと半日早ければ、2日目から1万人近い人数で救助作業ができ、生存救出の数は少なからず増加したでしょう。

 この判断の遅れは、県や警察との連携がとれずに情報共有ができなかったこと、先行して神戸に入った部隊が情報収集よりも救助を優先したことなどに起因すると考えられます。また、震度7クラスの地震の経験が無かったことも、必要兵力の見積もりを甘くしたかもしれません。なお、なお、将来に首都圏で大地震がおこったときの指揮は東部方面総監がとり、陸自のみならず、海・空自衛隊の部隊もふくめた大部隊が投入される予定です(参考:東部方面隊WEBサイト)。


 第2の問題は、装備の不足です。救助にあたった自衛官の装備は野戦用のスコップ、ツルハシ、ハンマーそしてとっさに調達されたチェーンソーなどです。川の増水やちょっとした土砂崩れならばこれらでも対処できたでしょうが、震度7の大地震は手に余りました。コンクリートの建物が崩れている場合、機材をもったレスキュー隊に応援を頼む必要がありました。

震災後、この装備不足はただちに改善されました。

 大震災の翌年、陸自は救助資機材をコンテナに収納した「人命救助システム」を考案した。手おのやバールから、エンジン式削岩機、破壊構造物探索機まで約五十種類。トイレ、医療セットもある。救助にあたる隊員の装備は二百人分が詰められており、生き埋めになるなどした人を最大三十人程度、同時に捜索・救助ができるとされる。……


 「もっと救えたのでは、という悔悟の気持ちが今なお残っている」


 当時の黒川雄三・第三六普通科連隊長(59)は、四国に転属後、八十八カ所の霊場を巡った。必ず助けが来ると信じながら亡くなった人のことを脳裏に浮かべて。*2

○もしも、もっと早く着いていれば?

 もしも、派遣要請が9時までに出され、渋滞の規制ができていればどうだったでしょう。松島総監によれば、「一月十七日もし部隊移動がスムーズにできていれば、午後に二千〜三千人、夜までに五千〜六千人くらいの部隊が神戸を中心に集中できたはずである。( p150松島)」とのことです。それだけの人数が着いていれば現地情報も速やかに届き、広島と名古屋の部隊が投入されるのも早まったかもしれません。

 自衛隊の派遣がいろいろな要因で遅れたことは後に強く批判され、「自衛隊の派遣要請さえ早ければもう2000人は生存救助できた」とまで言われます。しかし、それはいささか過大であるようです。首都大学の中林教授によれば「直接死5500人のうち……65%が震災発生から15分以内に絶命した即死であった*3」ため、生存救助は事実上不可能だったようです。即死を免れた人は35%、約1900人と計算できます。しかし被害が多かった神戸市については被災15分以内の死者が90%に達した*4という報告もあることから、もっと早く救助できれば命を助けられた方はより少なかったのではないかと推測できます。

 とはいえ、もしも何もかもが理想どおり運び、初日日中に3000人、翌朝から9000人の自衛官が、十分な装備をもって救助に当たれていれば、生存救助できた命が増えたことはまず間違いないでしょう。 生存者2000人増とまでは到底望みえないとしても、数十、数百人を新たに生存救助できた可能性は十分にあるでしょう。

○救助活動の模様

(長田区。中部方面隊サイトより)


 救助活動はほとんど不眠不休で救助活動が行われました。1月中旬から下旬までは、平均して1日あたり20時間の救援作業でした。

 初日から救助にあたった姫路の連隊は、家を失った被災者が野宿しているのを見て「自分たちも楽はできないとの判断から、全員で相談の上、持参していたテントの設営を止めて、交替で幌付トラックの中で仮眠をとることにした」そうです。福知山の連隊は、飲料用の水をドラム缶にいれて持参したのですが、これを被災者に配るうちに在庫が欠しくなりました。そのため隊員は「長時間労働で喉が渇く中、水筒に汲み取った水を一口ずつ回し飲みしてその後の作業に耐えた」というような状況でした。(「セキュリタリアン」95年3月p13)

 このとき災害派遣に赴かれた隊員の方々が後に書かれた回想には、被災地の悲惨さがあらわれています。松島氏の著作の中からいくつかご紹介します(p61〜64)。
 

第七普通科連隊(福知山) 谷垣二曹の回想

十七日、渋滞のなかを八時間かかって夜十一時に長田についた。その後、二日間不眠不休の捜索活動が続いた。ときどきグラッとくる余震のなか緊張の 連続だった。……一番つらかったのは、家族の方が遺体にすがって対面するのを見るときだった。涙がこらえられなかった。

 

第三十六普連(伊丹)中隊長 佐藤三佐 の回想

分銅町の現場はアパートの一階が潰れていた。……二十代の青年が住んでいた。駆けつけた母親が心配そうにわれわれの作業を見守っている。「どこかに遊びに 行っていたら作業してもらっても申し訳ないです」という母親の言葉には、居なければ無事なのにとの願いが聞こえた。

だが青年はベッドに寝たまま発見された。地震発生から五時間、まだ体は温かかった。青年に頬ずりする母親の姿に涙をながし、皆で合掌し次の現場に走る。

第八高射特科群(青野原) 清水曹長の回想

班員十人とともに壊れた屋根の瓦と土壁を取り除き、隙間から「おばあちゃん大丈夫」と呼びかける。「早く助けて」と微かな声、「生きているぞ、みんな頑張れ」人海戦術で無事救出した。

幸運にも倒れたタンスとコタツの間の空間で助かったのだ。遺体搬出で沈みがちな隊員の顔に一瞬ほほえみが戻った。

第八普通科連隊(米子) 末沢三曹 の回想

米子から駆けつけて十九日、灘区に入って行方不明者の捜索。遺体の中には悲鳴をあげて亡くなっていたような人もいた。改めて地震の怖さを思い知ら された。余震に気づかい、粉塵と戦いながらのつらい作業だった。「自衛隊、今頃来ても遅いんだよ!」と罵声を浴びせる人もいた。しかし一番つらいのは被災 者の方々なのだと痛感する。

クタクタになって帰る時、「自衛隊さんがんばって、頼りにしてるよ」と声をかけてくれる人がいる。疲れがやわらぐ思いがした。

第三十六普通科連隊(伊丹) 福山曹候の回想

尼崎のアパートの消失現場は無残な姿でした。情報によるとその中に十数人が埋まっているというのです。私たちは一人でも多くの人が生きているということを祈って作業を進めました。

しかし朝から夕方までかかって見つけたのは全て遺体でした。その中には子供を抱きながら猛火の犠牲となった母親の姿などもあり、見た瞬間言葉を失ってしまいました。もうこんなことは絶対に起こって欲しくないと思います。

○すべての遠因

 自衛隊がなかなか現場につけなかった原因はいろいろあります。このうち「派遣要請が遅れたから、自衛隊が遅くなったのだ」という一部だけがずいぶん注目され、喧伝されたように感じられます。確かにそれは問題でした。1986年の三原山噴火の際に中曽根内閣がやった迅速な指揮などと比べると、当時の制度でもやろうと思えばすばやい対処ができたことは明らかです。だから指導者に問題があったことは事実なのですが、しかしそういった個人的な資質だけが悪かったのではありません。

 渋滞を規制する権限があたえられていなかったこと、事前の県・警察・消防との打ち合わせができていなかったことなどは、個人の問題で片付けることができません。緊急事態が起こる前に、自衛隊を含めて対処を考えておく、そのために必要な権限は与えておく、という備えが不足していました。

 そうなってしまった遠因は、日ごろの防災訓練にも自衛隊を呼ばないことに象徴される、自衛隊への、ひいては有事全般へのアレルギーです。元外交官の岡本行夫氏はこう述べています。

私も、地方自治体と色々折衝した経験がありますけど、そのとき感じたのは「緊急事態ということを考えること自体が反平和である。ましてや米軍だとか自衛隊だとかいう実力部隊が関わってきたら、途端にそれが反動的軍国主義になる」という自治体側の認識です。

これは、下の行政単位にいけばいくほどその感覚が強いですね。……住民に一番聞こえのいいように、おどろおどろしいことは一切やらない。したがって、緊急事態の研究など、けんもほろろの応対をされてきたわけです。(セキュリタリアン 95年3月 p7)

 このような「有事のこと、緊急時は考えない」という気風が連携不足を生み、そこに当日の混乱が加わりました。確かに戦中の軍部の専横を考えれば、自衛隊や緊急事態を危険視してしまう気分も分からないではありません。実力組織は確かに危険な道具です。緊急事態を口実して軍隊が国家を牛耳ったことは、古今少なくありません。

 ですがそれを恐れるあまり、危機に備えること自体を危険視し拒否する風潮が、有事への備えを邪魔して被害を増やしたのが、阪神淡路大震災時の政府と自治体であったように思われます。これは総理や県知事といった個人や、地震の対策という枠内にとどまらない、戦後日本に全般的な傾向ではないでしょうか。

 緊急事態と実力組織は、危険であるからこそ、危ない怖いといって触れずにいるのではなく、むしろ積極的に練習を重ねて扱い方を心得ておくべきです。さもないと、どうしてもそれを使わねばならなくなったときに使用方法が分からず、かえって危ないし、要領が分からなくて困った事態になるからです。

 

 今回はここまでとし、次回は自衛隊による被災者への給食、給水、入浴らの活動をとりあげます。最後までお読みくださりありがとうございました。

○参考文献

阪神・淡路大震災誌―1995年兵庫県南部地震
朝日新聞大阪本社「阪神・淡路大震災誌」編集委員会
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阪神大震災 自衛隊かく戦えり
松島 悠佐
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セキュリタリアン 95年3月号 防衛弘済会

*1:p39 松島

*2:[http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200409ma-3/03.html:title]

*3:[http://www.tokyo-machidukuri.or.jp/machi/vol_34/m34_08.html:title]

*4:神戸市観察医検案分 [http://www.scopenet.or.jp/main/products/scopenet/vol07/snet07_06.html:title]