リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

読書メモ ホッブズの「自然状態」(「近代政治哲学」)

「リヴァイアサン」といえば召喚獣の一体…ではなくて、政治哲学の古典です。

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

 

 著者であるトマス・ホッブズの思想は、国際政治学においてはリアリズム学派に親和的な考えとして知られています。国際政治学の思想を簡単に色分けしたとき、リアリズム学派は「ホッブズ的」であり、リベラリズムは「カント的」である…といった風に、ざっくりした方向性を説明する場合があるからです。

  なぜリアリズムがホッブズ的と言われるかといえば、概念と世界観が類似しているためです。リアリズム学派の「無政府状態」はホッブズの「自然状態」に通じるものがあります。

 という程度は聞き知っているのですが、「リヴァイアサン」は恥ずかしながらまだ読めていません。今回は新書「近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)」を読みながら、ホッブズの自然状態について重要だと思った点をメモしていきます。

「希望の平等(equality of hope)」が相互不信を生む

 ホッブズの自然状態は、万人の万人に対する闘争の状態です。しかしそのようになる原因としてホッブズが挙げているのは、意外なことに人間の平等だといいます。ただし、「人間には平等な権利があるんだ!」的なポジティブなニュアンスではなく、「人間など、どれもたいして変わらない」という達観です。人間は、個人で見れば能力の差があるけど、所詮は人のすることで、どんぐりの背比べにすぎない、と考えます。

「能力のこの平等から、我々の目的を達成することについての、希望の平等が生まれる」希望の平等とは「あいつはいいものを持っている。あいつがあれを持っているのならば、俺だってあれをもっていてもいいはずだ」という感覚のことである。

…能力が平等はこうして希望の平等を生み出す。(p43−44)

 平等というといいことのようで、共存や平和につながりそうです。しかし希望の平等が生み出すのは、嫉妬と恐怖です。

希望の平等は、第1段階においては、他人に対する妬みや権利要求として現れる。つまり、「自分もあれが欲しい」「自分はあれを欲してよいはずだ」という要求として、である。

しかし、第2段階において、それは、他者もまた自分と同じように要求するだろうという意識を生み出す。すなわち、自分が他人を妬んでいるのだから、他人もまた自分を妬んでいるかもしれないという感覚の発生である。

…ホッブズは、homo homini lupus(人は人にとってオオカミである)というラテン語の格言を引用しているが、まさにそれが常態化する。相互不信の常態化である。(p44)

 能力の平等が希望の平等を生み、希望の平等が(能力と希望が平等なのだから他人も自分と同じように合理的に思考するだろうという仮定により)相互不信を生む、というのは美しい理論の展開です。

そして戦争状態が生まれる

このような相互不信の状態では、いつ誰に自分の所有物や権利を奪われるかわかりません。そこで生き残りのために争いが生まれます。

「この相互不信から自己を安全にしておくには、誰にとっても、先手を打つことほど妥当な方法はない。それは、自分を脅かすほどの大きな力を他に見ることができないように、強力または奸計によって、できる限りすべでの人や人格を、できるだけ長く支配することである」

ということになり、徒党が生まれ、他の徒党を襲撃して併呑し、さらに大きな徒党になっていきます。相互不信からくる恐怖から逃れ、自己の権利を保全するには、自らを強く大きくするしかないのです。

時には集団の間で均衡が保たれることもあるでしょうが、それは戦争状態の終結ではありません。

ホッブズの言う戦争状態とは、相互不信が蔓延していていつでも戦闘が起こりうる、戦争が潜在的な危機として存在し続けている、そのような状態を指す。「戦争は、常に戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、戦闘によって争おうという意志が十分に知られている一連の時間にある」(p46)

戦争状態から脱却する方法

このような自然状態、絶え間ない戦争(の可能性がある)状態から脱却する方法を、ホッブズは2つの自然法として言い当てます。

第1の自然法「各人は平和を獲得する希望があるかぎり、それに向かって努力すべきである。彼がそれを獲得できない時には、彼は戦争のあらゆる援助と利点を求め、かつ利用してよい。」

第2の自然法「人は平和と自己防衛のために必要だと思うかぎり、他の人々もまたそうである場合には、すべてのものに対するこの権利を喜んで捨てるべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである。」

 自然状態においては、平和や安全を追求する行為がかえって戦争状態を生んでしまいます。よって、「戦争をしてもよい」という自然権を放棄して、自分に対しても他人に対しても同じ程度の自由を認め合うことで、平和と安全が確保できます。

社会契約とコモン・ウェルスの成立

自然権を放棄するといって、ただ「じゃあ私はもう暴力は振るいません」と1人が宣言しただけでは、その人だけが他人の餌食にされてしまいます。「人は人にとってオオカミ」なのですから。

よって人々は放棄した自然権を何者かに譲渡し、自分で暴力を振るわないかわりに、誰かに守ってもらう必要がでます。

平和と安全の内に生活するためには、それを保障する力をもった「このような能力のあるのある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、彼らの全ての権力と強さとを、ひとりの人間に与える、または、多数意見によって全ての意志をひとつの意志とすることができるような、人々のひとつの合議体に与えることである」

こうして権力を譲渡する契約が、社会契約に他ならない。この契約によってできあがるのが国家、すなわちーホッブズの用語法でいうとーコモン・ウェルスである。(p52)

設立によるコモン・ウェルスと獲得によるコモン・ウェルス

 しかし、現存する国家のなりたちを考えたとき、果たして人々はある時点で示し合わせて「ハイ、ではこれから国家を作ります。皆さん、よろしいですね?」「ハイ」という具合にある時点でハッキリと約束を交わしたでしょうか?

 ホッブズはそのような契約によって自然権を放棄して設立する国家を「設立によるコモン・ウェルス」としています。

 その一方で強い力による「死や枷への恐怖に基づいて」なされる契約もあります。それはただの脅迫ですが、ホッブズによれば「全くの自然状態において恐怖によって結ばれた信約は義務的である」のです。実際問題、ヤクザでも征夷大将軍でもよろしいが、強大な暴力をもった集団に「俺がまもってやるから、子分になれ」と言われ、逆ったら生きていけないとなると、これは諦めて参加に入るしかありません。

 このようにしてできあがるのが獲得によるコモン・ウェルスです。こっちの方がよくありそうな気がします。

自然状態から獲得によるコモン・ウェルス、そして

著者は、自然状態、獲得及び設立によるコモン・ウェルスの関係をこのように表現しています。

自然状態において、人々は相互不信から徒党を組み、「やられる前にやる」の論理で次々に敵を屈服させ、併合を繰り返していくのだった。そうした自然状態の姿は、まさしく「獲得によるコモン・ウェルス」の生成過程に他ならない。

…社会契約論として有名な「設立によるコモン・ウェルス」の論理は、いわば、既に国家の中に生きている者たちに服従の必要性を説くために持ち出された方便にすぎない。(p56−57) 

 よって著者は、ホッブズの理論の核心を自然状態=戦争状態から獲得によるコモンウェルスの成立までの一貫した論理にある、としています。

ホッブズと国際社会

著者は、ホッブズの自然状態と国際政治のあり方についてこう書いています。

国際社会とは常にホッブズ的な自然状態に他ならない。国々を上から統治する権力は存在しない(国連や国際法は、警察や国内法と同じようには機能しない。前者には実効的な強制力が存在しないからである)。だから、いつでも相互不信の状態にある。外交などを行って、そのにらみ合いが戦闘へと発展しないよう工夫しているだけで、いつでも戦争は起こり得るし、怒っている。(p61)

 このように発展させてみると、ホッブズの自然状態論は現在の国際社会のあり方まで延長できることがわかります。

「人間などどれも大して変わらない」という能力の平等が、「ならばアイツが持っているように俺もいいものを持っていいはずだ」という希望の平等を生み、「俺が持っているいいものを、アイツも欲しがっているはずだ」という相互不信が蔓延します。

 相互不信の状態にあって、しかも人間の能力が大して変わらないとなれば、徒党を組んで先制攻撃しないと自分の安全を確保できません。攻伐相食み、やがて一つの集団が強大化して覇権をにぎり「獲得によるコモンウェルス」、国家が誕生します。

国家はその内側においては「みんなが自然権を放棄する契約をして自然状態を終わらせたのだ(だから国家の命令に従え)」と成立によるコモンウェルスを説くかもしれません。

 一方、国家を外側から見れば、主体が「個人」からぐっと拡張して「国家」単位になっただけで、自然状態は終結していません。「あの大国が持っている地位や富を、我が国も獲得したい」「我が国の領土や権力を、あの新興国も狙っているはずだ」という嫉妬と相互不信にとらわれています。そんな中では、一時的に均衡が成立することはあっても、戦争はあいかわらず選択肢の一つです。

 リアリズム学派の理論は「国際社会は無政府状態である」という上からの過程から理論を出発させて、だから「国際社会は自助の体系である」などの結論を導いています。一方、ホッブズは「自然状態においては」という下から、根本から考えを始めて、社会のあり方を説いているもののように思えました。

 理論の出発点の違いこそあれ、いずれも(国際)社会にとって自然な状態は、恐怖や不信に支配された状態であり、そこでは暴力が大きな意味を持つ、絶え間ない戦争状態 であるという点では共通しています。

 ホッブズは、コモンウェルスの成立によって国家内では自然状態から脱却する方法を説いています。一方、国際社会においては一国が世界を征服する(獲得によるコモンウェルス)のも不可能だし、世界中の人々が一斉に銃を捨てて世界政府を樹立する(設立によるコモンウェルス)こともありません。よってホッブズが想定する自然状態に似通った無政府状態が継続しているということになるでしょう。

近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)

近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)