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リアリズムと防衛ブログ

防衛ってそういうことだったのかブログ。国際関係論や安全保障論について、本の感想などを書いています。

ブログなんか書いて何が楽しいのかって、こんなコメントを読んだときのこと。

ブログ

これから非常に大げさなことを言います。この記事は、小声で壁にでも話してるんだと思ってください。

過去記事へのコメントが嬉しい

1年前に書いた集団的自衛権の起源についての記事が、最近また多くの人に読んで頂いているようです。時勢ですね。

その中で特に嬉しかった感想がこちら。

「意見の違いはともかく」「賛成であろうとなかろうと」と言って、人に勧めてくれた方が多く、嬉しかったです。安保法案には明らかに反対されているのだろう方にも、少数かもしれませんが、読んで頂けたらしく、良かったなぁと思います。 

 単に「私もそう思う」「本当にそうだ」という同意のコメントなら他の記事でもたくさん頂いてますが、論争になる話題で、賛成の人からも反対の人からも読んでもらう時ほど嬉しいことはありません。

平和のための論争は、たいてい殺伐としている

なんとなれば、安全保障問題とはとかく論争の種になりがちだからです。平和のための議論なのに、その議論自体がともすれば排他的、暴力的な言い方になりかねません。

平和と安全。自由と民主主義。ひらたくいえば、一人一人の気楽な暮らしを守るために、どういう手段が適切かを問う、安保問題とは技術的な議論のはずです。

ところが、ともすれば正義と悪、愛国者と売国奴、平和愛好者と戦争狂、夢想家と独裁者、そういう大げさな話になってしまいます。

すると議論の中身も素っ頓狂になりがちです。Aという案が通ったら直ちに戦争が勃発する、いやその案が通らなければ明日にも外国が攻めてくる、と、戯画的に言えばこのような。

そこでは、正確な知識に基づかない、印象づけや主義への純粋性が論争の武器になります。

なにせ自分に反対する者は、売国奴か人類の敵のどっちかなのです。まともな対話など、するだけ無駄というもの。

こうなると技術的な議論、目的に対する妥当性と費用対効果の検証などは、めったに行われなくなってしまいます。

これは民主主義のために良いことではありません。

たぶん愛が悪い

祖国とか、平和とかそういう大事なものを毅然として擁護するとき、人はいくつか忘れ物をします。
例えば、自分が擁護しているものが仮に正しいとしても。そのために自分が信じる方法論が間違ってることは有り得る、ということ。
例えば、自分と考えが違う人がいるとして、それでもその人は自分と同じものを大事に思っているかもしれない、ということ。
平和を愛する心はまことに尊いですが、そのために自分と意見が違う人を罵倒する社会は、あまり平和的には見えません。国を愛する心はまことに立派ですが、そのために自分と考えが違う人を排撃するならは、祖国をかえって堕落させてしまうでしょう。

考え方が違っても、愛国者であり得る

第二次世界大戦中、国を思うあまり、国際的な視野を失い、自分と意見が違う人を非国民や臆病者と呼ぶ人が横行しました。そんな中、外交評論家の清沢洌は、その日記にこう書き付けています。 
考え方が違っても愛国者であり得、また意見が相違しても団結することができる。そう我国 の「愛国者」は考うることができぬ。
(暗黒日記 1943年12月30日)
祖国を愛する方法が一つしかないとすれば、その国は民主主義国ではないでしょう。

平和主義のために、人は好戦的になれる

一方で、戦後の日本では軍事について語ったり、防衛政策を進めたりすることは、ほとんどケガレ扱いされた時期がありました。
いまでもその残滓はぬぐい切らず、平和主義の運動と異なる見解をもつ人はまともな人間ではないから、その意見ではなく属性や人格を攻撃しても良い、ということすら見られます。
例えば「安保法案に賛成するような人は、子どもがいない人に違いない」ですとか。
戦略思想家のリデル=ハートは、こう述べています。
私の平和主義者の友人の多くと付き合っていると、彼らの見解にはもちろん共感するんだが、戦争の廃絶について私をほとんど絶望させることがあまりにも多い。というのも、彼らの熱烈な平和主義の中にある好戦的な要素が目の前にちらつくからだ。
リデル=ハート 

戦争なんてしたくないという自己保存の思い。あいつらは悪い奴らだという義憤。それらはどちちも、戦争の原因の一つでもあります。

市民の力は知識

民主主義がきちんと機能するには、印象や好悪ではなく、知識にもとづいた議論が必要です。ある事柄に反対するにしろ、賛成するにしろ、判断の前にそのものに対する正確な知識がなくてはなりません。
軍事評論家の江畑謙介氏は、著書の中でこう述べています。
残念ながら国民一般がもつ軍隊や兵器に関する知識は驚くほど少なく、したがって正確な情報を国民に提供すべきメディアの知識もまた貧弱で、多くの間違いや誤解に基づく情報が流されている。 あるいは国民の軍事に関する知識を故意に利用した情報操作のための、客観性に欠ける情報の流布が行われている。これは民主主義にとって極めて危険な状態である。江畑謙介著「兵器の常識・非常識(上)」 p3-4 
 とはいえ、それまで関心がなかった事柄について、急に「賛成か、反対か」なんて聞かれたって、困ってしまうでしょう。あらゆる分野には過去の蓄積、文脈というものがあります。それらを踏まえないと、現在の状況の意味するところがイマイチ分からないでしょう。

好き嫌いはともかくとして、いま現在それが何であり、なぜそうなっているのかという経緯と文脈を抑えることが、判断の面倒な第一歩です。

隅の方で静かに何か言う

とはいえ、もちろん私には上に引用した人たちのような広範な知識や高い見識は逆立ちしてもありません。ただ、そういう偉い人たちが書いた本を読むのはどういうわけか好きだ、という癖があります。

そうかといって、じゃあ軍事評論家だの巨大ブロガーだのになって社会を啓蒙するほどの馬力も持ち合わせてないもので、せいぜい今くらいの、日に1000PVかそこらのありふれたブログをぼつぼつと書いてるのが落ち着きます。

ただ、その程度の小さい声でも、どうやら意味がなくはないように思うし、楽しいと思うことも少なくないので、今後とも少しずつ書いていこうと思います。終風先生も、

と仰ってるし。それに、それしきのこともできなかった人だっているからです。

先に引用した清澤洌は、1945年に没しているのですが、その年の元旦にこんな日記を書いています。 

この国に生れ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。


いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることを、この国民が覚るように―。


「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。

 

僕は文筆的余生を、国民の考え方転換のためにささげるであろう。

本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世めがけて努力しよう。

1945年1月1日 清澤洌 

暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)

暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)