リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

ジューヌ・エコールの誤り

よりよい政策を立案するためには、建設的な議論が欠かせません。ですが建設的な議論を行うことは、簡単ではありません。特に専門的な議論についてはなおさらです。

今回は19世紀後半、フランスのお話です。

極論の横行

19世紀後半のフランスであった出来事です。フランス議会は海軍の軍備計画について、極端な主張が猛威を振るっていました。その名をジューヌ・エコール(新生学派/青年学派)と言います。

彼らの議論は一言でいえば「装甲艦はムダだ。魚雷艇を建造せよ」というものです。魚雷の発明によって魚雷艇ら小型艦艇の有用性が高まったことは事実でしたが、かといって大型の装甲艦がいらない、というのはあまりに極端な意見でした。

彼らのもう一つの極端さは、反対意見への接し方です。批判どころの話ではありませんでした。

「魚雷艇=民主的」  「装甲艦=反動的」

という単純な図式でものを考えました。装甲艦を主張する軍人は頭の古い、反動主義者で非民主的だと非難しました。専門的議論を踏むのではなく、先入観やレッテル貼りによって反対意見を無視したのです。

そんな議会の命令に従い、フランス海軍は装甲をもった戦艦の建造を延期し、とにかく小型艦に資源を集中させました。

フランス海軍は世界の流れに遅れをとった

フランス議会の「反動的だ」という断定にも関わらず装甲艦、特に戦艦は急激に進化し、海戦の主役となりました。諸外国もフランスと同様、魚雷艇ら小型艦の利点に気づき増産はしていたものの、「装甲艦はいらん」というような極論には走っていませんでした。

そしてやがて従来の戦艦を一気に時代遅れにする「ドレッドノート級(ド級)戦艦」が発明されます。それを契機に、またA.マハンの海上権力史論が一世を風靡したこともあり、先進諸国は新鋭戦艦の建造ラッシュとなります。以降、航空機にその場を奪われるまで、戦艦は海戦の主役でした。

しかしこの世界の動きに対し、「フランスは完全に立ち遅れた。…ドレッドノートが就役した時、フランスは計画されていた準ド級戦艦ダントン(Danton)級を起工すらしていなかった*1」のです。

フランスもさすがに考えを改め、戦艦建造を再開しますが、一度できた差を取り戻すことはできませんでした。フランス海軍の相対的な地位は低下し、ドイツ海軍にも抜かれてしまいます。

「反動的だ」といって戦艦建造を延期させたジューヌ・エコール(新生学派)の考えは完全に誤ったものでした。本当に戦艦が時代遅れとなるのは空母後、つまりはそれから半世紀近くも後の話です。

ジューヌ・エコールの本来の主張は正しかったが、歪曲された

本来のジューヌ・エコール(新生学派)の主張は、もともとは、極めて先進的なものでした。「戦艦はムダだ。魚雷艇を増やせ」なんていう極端で、しかも誤った主張は、なされていなかったのです。

新生学派の始祖である海軍将校オーブはの主張は、もっと穏健で、現実的で、かつ先進的なものでした。魚雷艇のような小型艦艇と、大型艦艇を使い分け、役割分担をすべきという主張でした。

オーブの議論の最大の特徴は、ロイヤル・ネイヴィーに対しては防衛的戦略に軸をおき、魚雷艇の役割を非常に重視したことである。…他方、イタリア海軍に対しては…攻撃的な戦略を採用し、地中海では大型装甲艦配備を主張した。
*2

このように、新生学派の始祖であるオーブ自身は「装甲艦は反動的だ」などとは言っていません。むしろ対イタリア用には装甲艦の役割を評価しています。新技術を大胆に導入する先進性をもちながら、極論に走らず、体系的な政策です。艦種の役割分担を明確に提唱した点でも先進的な戦略論でした。

ところがオーブの死後、彼の意見は歪曲されます。有力なジャーナリストだった彼の甥が、オーブの体系的な意見から、魚雷艇重視という一部だけを抜き出して強調しました*3。魚雷艇を評価し、装甲艦との併用をといたオーブの議論が、魚雷艇万能・装甲艦不要の極論へとすりかえられてしまったのです。

これにより、もともとは合理的な議論から始まった改革熱が、いつのまにか歪曲化された急進論の強行となってしまいました。

一部を取り出しての極論化と、思い込みによる議論

この議論の過程には三つの問題点が見出せます。

第一にはオーブの体系的な議論が、一部だけを抜き出して歪曲されたことです。

第二には軍事戦略の議論なのに「装甲艦の建造を唱える者は反動主義者。民主主義者なら魚雷艇」という風に、軍事とは無縁の政治的議論になってしまったことです。

そして第三には、装甲艦も必要だという常識的な主張をした人びとへ「反動主義者だ」とレッテルを貼って攻撃し、建設的で冷静な議論をしなかったことです。

専門的な問題を、専門家以外の人もまきこんで議論する難しさ

専門的な政策パッケージ、その是非を論ずる際に普遍的な難しさが、ここに現れているように思われます。

推進するにせよ、批判するにせよ、政策パッケージの一部だけが抜き出され、それが全てのように論じられるのは今でもよくあることではないでしょうか。

そうしてヒートアップした議論は、いつの間にか党派的な戦いとなり、政策自体の学的合理性は次第に忘れ去られてしまいます。これでは合理的な政策論が通りません。思い込みとレッテル貼りによって封殺されてしまうからです。

たとえ論争に勝ったとしても、その政策は妥当な効果を発揮しない恐れがあります。論争の過程で、案の中身が奇怪に変形していたり、あるいは極端化して理解されていたりするからです。

議論を始めたごく少数の人々がまっとうでも、多くの人が加熱した議論に参戦すれば、もともとの穏健で妥当な、それゆえに理解されにくい政策パッケージは伝言ゲームのように歪曲されてしまうからです。

気をつけるべきこと

このことから、大勢を巻き込んだ議論を開始したい場合は、三つのことに気をつけるべきであろうと思います。

第一には、極めて抑制的に、穏やかに議論することです。議論を始める人は「これくらいならいいか」と思って使ったささいな誇張、ちょっとした表現でも、その後に参加した大勢によって拡大され、歪曲や党派化につながる恐れがあります。議論を始める人は、それを見越した上で、あるいは予防するために、できる限り控えめなトーンで語るべきでしょう。


第二には、他国や過去の事例をひいてみて、自説を相対化してみることです。ジューヌ・エコールの議員たちも、一度目を転じて冷静に海外の状況を見れば、自分たちが親の仇のように攻撃している装甲艦必要論が、実は国際的にはごくごく常識的な考えに過ぎないのだと気づけたはずです。このように海外の例、あるいは現在と共通点のある過去の例をみれば、あまりにも極端な議論に走ることを予防しやすくなるでしょう。


第三には、議論の土俵を移さないことです。政策の議論がしたいならば、政策の話だけすることです。論敵の人格や、過去の言行、あるいは政治的な立ち位置といった点への批判は厳に慎まれるべきです。さもないと議論がケンカに変わり、誰にとっても不毛になります。


以上のことは、誰しもが心得るべきことではありますが、別して声の大きい人、影響力の強い人は特に留意なさるべきでしょう。

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*1:シーパワーの世界史 第二巻 p240

*2:ロイヤルネイビーとパクスブリタニカ 田所昌幸 p197

*3:p199 田所