阪神淡路大震災は多くの人々にとって忘れ得ぬ災害です。あまりにも衝撃的な、あまりに悲惨な出来事でした。拙ブログで先日掲載した記事「なぜ災害時に軍隊・自衛隊が活躍するのか?」で、頂いた反響の多くが阪神淡路大震災の際のエピソードに関心を寄せられたものでした。
今回から4回に分けて、阪神淡路大震災における災害派遣について書きます。今回は、震災発生直後の即応体制焦点をあてます。その朝を、政府は、自治体は、そして自衛隊はどのように迎えたのでしょうか?
○ 午前5時46分
「1995・01・17・05・46 阪神大震災再現 」には、被災したさまざまな人の声が記されています。その中の1つは、例えばこのようなものです。
「ゴー」という音と同時に天井が落ち、階上の冷蔵庫やなべが落ちてきた。しゃがんだままの状態で生き埋めになった。
「助けて」と三〇分近く大声で叫び続け た。近くに住む若者に助け出されたが、家の物は何も持ち出せなかった。
ズボンにジャンパーという着の身着のままで、近くの御影公会堂に逃げ込んだ。*1
震災は早朝に起こったため、多くの方は家の中で寝ているときに被災されました。家具という家具が倒れ、あるいは倒れるを通り越して突進してきたり、あるいは家屋自体が数多く倒壊しました。家屋に閉じ込められることなく屋外に脱出できた方々は、被災直後から助け合って近所の住民の救助にあたられたといいます。
そんな市民を助け守るべき自治体もまた、被災して混乱のきわみにありました。
○ 県庁からの迎えを待つべきである
災害時には誰も彼もが混乱します。そんなときリーダーに望ましいのは、できるだけ早く役所に駆け込んで、状況を掌握し、指示を出すことです。
当時の兵庫県知事であった貝原氏は、県庁から東北東3、4kmのところにある中島町の公舎に住んでいました。2階で体を持ち上げられて目を覚ましましたが、幸いにも負傷は免れました。そこで状況を確認しようとすうるのですが、電話は通じず、暗やみの封鎖状態におかれました。
貝原知事は常日ごろ、車で登庁していました。知事がハンドルを握ることはなく、職員が毎朝車で迎えに来て、県庁まで送る習慣になっていました。そして「阪神淡路大震災誌」によれば、この時も知事は、暗やみの中で、このように結論を下しました。
結論的に「知事公舎で待っていれば、必ずだれかが来る。それまで待つべきである」と判断した。
最高責任者が単身、変わり果てた町のやみに吸い込まれて不測 の事態を招いたり、少なくとも一定期間の「トップの行方不明」を招来すべきではないと考えたのである。
この判断自体は冷静で穏当なものであり、非難にはあたらないであろう。 (「阪神淡路大震災誌 p341)
こうして知事は公舎に留まり、県庁からの連絡と迎えを待ちました。それは穏当な判断でした。しかしこの朝の地震は、穏当どころではない被害をもたらしていました。
そのために、結果的には、知事の元へ県庁からの迎えが来たのは、それから2時間以上も後のことでした。その2時間、兵庫県庁は知事不在のままにおかれました。
貝原知事が県庁に到着したのは8時20分、災害対策本部で第一回の会議が開かれたのは、知事の登庁から10分後の8時30分です。
地震が発生し、多くの市民が生き埋めになってから、既に2時間45分間がたっていました。
○ 首相の事態認識は一般市民以下のレベルにとどまった
そうはいっても、被災地の自治体が混乱するのは、無理からぬことです。ですが無傷の東京の政府もまた、被災した兵庫に負けず劣らず、ゆっくりとしか動けませんでした。
その最大の原因は、村山首相とその周辺が、事態の大きさを認識できていなかったことです。その日、その朝、村山首相が目を覚ましたのは午前六時過ぎ。起床し、朝の習慣であるNHKニュースを見て、地震を知りました。問題はその後です。
総理はとりあえず小沢長官を現地視察に派遣することを決めたのみで、後はその日予定されていたスケジュールを変更せず、地球環境についての会議などに参加しました。危機の大きさに比べ、実に鈍い反応でした。
首相とその周辺の事態理解は、テレビを見ている一般市民以下の水準にありました。なぜならスケジュール通りの予定をこなしはじめた首相は、その間、テレビすら見なくなったからです。
この鈍さについて、後に「当時はあまりに情報が少なかったのだ」という風な弁護もなされています。しかしそれは説得力に欠ける主張です。情報が少ないというのなら、情報を集めるべくもっと行動を起こすべきだったのです。空自の偵察機や陸自のヘリを飛ばせるなり、できることはいくらでもありました。
さらに言えば、そもそもテレビを見ただけでも「これは大事件だ」というくらいは想像すべきでした。元外交官の岡本行夫氏はこう述べています。
マスコミはすべての通常番組をキャンセルして朝からずっと被害状況を流し続けていました。
異常な光景でした。私の海外の友人はあの場面を見て、「ロシア軍がチェチェンに無差別の空爆をはじめた。その映像に違いない」と感じたそうです。
戦争と見まがうような異常な光景が、朝の8時頃からテレビ画面を占領し続けていたわけです。…そういう瞬間、指導者というのは意識が”緊急事態モード”に切り替わってなければいけないと思うんです。
(セキュリタリアン 95年3月号p3 「危機管理と自衛隊」)
しかし村山内閣が事態の深刻さに気づき、この地震が『関東大震災以来、最大の都市型災害である』と定義し、首相が近く現地入りすると発言したのは、午後4時の記者会見のことでした。
政府は震災初日をみすみすムダにし、為すところはほとんどありませんでした。政府が積極的に機能しはじめるのは、村山首相が現地を視察して東京に戻った、被災三日目以降のことです。
○ 泥水に濡れて到着した司令官
一方で、現地の自衛隊ではどうだったでしょうか。被災地中心部に近い基地は、神戸市にある海上自衛隊の阪神基地です。神戸市の中でも特に被害が大きかった東灘区にあります。
ここの基地司令官であった仲摩 将補(当時)は、基地から約6キロ離れたところにある官舎で被災しました。その直後をこう回想しています。
ドーンという音とともにいきなり激しく揺さぶられ、タンスが倒れ、エアコンが落ちました。
すぐ当直に電話をかけ、非常呼集を命じるとともに、急いで基地に向かいました。その時、すでに2本の火の手が上がっていました。大地震の直後なのに、不思議なことですが街の中は静まり返っていたのです。
基地の近くでは液状化現象が起こり、その中を膝まで泥水につかりながら、部隊に着いたのは官舎を出てから1時間20分後でした。(セキュリタリアン 95年3月号 p26「被災現場に出動した隊員の声」)
仲摩将補は連絡を待つ、迎えを待つという受身の姿勢ではいませんでした。指示を出し、非常呼集をかけた上で、自分から基地に向かって行って、最終的には歩いて指揮所に入ったのです。
迎えを待った県知事と、自分から向かった司令官のどちらが正しかったか、というのは後知恵の議論ともいえるので、ここでは致しません。
しかしながら自治体首長の中だけで見比べても、迎えを待った者よりも、自らマイカーを飛ばすなり歩くなりして登庁した首長の方が、早く指揮を始められているのは確かです。
○ 職員が集まらない
兵庫県庁では被災から3時間近くを経て、8時30分に第一回の災害対策会議が開かれました。これでようやく県の対応が動き出す――かと思いきや、そうはなりませんでした。なぜならば、人がいなかったからです。
客観的事態からいえば、この時間は遅すぎた。しかし、県庁内の態勢から見れば早すぎた。本部員となるべき21人の幹部のうち、知事と副知事以外に出席できたのは、近所の公舎に住む3人の部長のみであった。
(「阪神大震災誌」p 343)
県庁の首脳部が出揃わないばかりか、一般職員も圧倒的に不足していました。被災当日の昼ごろまでに出庁できた本庁職員は総員3100人のうち「2割いたかどうか」とされています(同書)。同様の事態は兵庫県庁だけではなく、被災したほかの自治体でも見られました。
芦屋市役所に対して震災後に行われた調査では、職員の参集率について、このような結果が報告されています。
職員の内の7割は神戸市など芦屋市以外に居住しており、公共交通機関の不通や通行止めなどによって参集が妨げられた。
こうしたことなどから、発災当日の参集率は42%、3日後でも60%に止まり、要員が圧倒的に不足する事態となった。(p37 「災害危機管理入門」 吉井博明 )
自治体は震災直後から多くの人員を必要としました。情報の収集と共有、救助組織への連絡、避難所の設置と運営、救援物資の受け入れなど、やるべきことは無限にありました。しかしこのように参集率が低いのでは、ただでさえ混乱する被災直後の状況を切り回せるはずもありません。
なぜ職員の半数余りもが、役所に集まってこられなかったのでしょう。事情は色々ですから一概には言えませんが、被災後のアンケートではこのように報告されています。
ある人は親の面倒を看る人がおらず、市内に居住しているにもかかわらず直ぐに参集できなかったことを申し訳ないと思い、またある人は、身内に死者がでたこ と、家が全壊したことも重なった状況の中で「全部を捨てて公務員として任務につけなかった自分が腹立たしく思う」と回答している。
( P40 「災害危機管理入門」 吉井博明)
このように兵庫県庁や神戸市などの主だった自治体は、混乱の朝を迎えていました。
○ 動き出した自衛隊の運用当直
他方、自衛隊ではどうだったのでしょうか。陸上自衛隊の司令部のうち、兵庫周辺で最も大きいものは伊丹市にあります。近畿と中四国の部隊をたばねる中部方面隊、その司令部たる「中部方面総監部」です。
被災直後から動き出したのはここの「運用当直」です。突発的な有事に、すぐさま情報を収集し、初動に必要な連絡調整をするために専門の幕僚(スタッフ/参謀)があてられる当直で、24時間態勢で勤務についています。
1月17日の地震発生と同時に活動を開始したのは、この運用当直であった。情報収集・連絡確保には、自衛隊の駐屯地間をつないでいる防衛マイクロ回線に被害が無かったことが、何よりも幸いした。
竹田二佐と西三佐はローソクの明かりの中で、総監部の主要な幕僚への連絡と各部隊の状況の把握に忙しくなる。
…すぐ隣の官舎に住んでいる防衛部長…、調査部長…、防衛課長…は六時前には作戦室に飛び込んできた。(p3-5 「阪神大震災 自衛隊かく戦えり」 松島悠佐)
こうして5時46分の発生直後から運用当直を中心に組織が動き始めました。当直だけではありません。一般隊員の半数あまりは日ごろから駐屯地の中で生活しています。また駐屯地の外に住んでいる妻帯者や幹部も、この朝は自宅の事もそこそこに、自主的に参集してきました。
揺れの激しさに、誰もが災害派遣を予測し、六時前から続々と車や自転車、徒歩などで集まってくる。
六時十分頃には防衛部・調査部など、部隊の作戦運用や情報収集を担当する要員が作戦室に指揮所を開設した。
…午前六時三〇分、中部方面隊の全部隊は非常勤務態勢に入り、組織的な災害派遣準備を開始した。
(P5 「阪神大震災 自衛隊かく戦えり」松島悠佐)
なお中部方面隊の司令官にあたる松島方面総監が指揮所に入ったのは6時半過ぎのこと。兵庫県知事に先立つこと2時間近くです。しかし自衛隊の組織はそれよりも早く、災害派遣に備えて準備をスタートしていたのです。
○ にもかかわらず…
このように自衛隊側は組織としても個人としても、被災直後から可能な限り即応し、災害派遣の準備に入りました。しかし、結果的に、自衛隊は警察や消防に比べてかなり少ない人数しか救出できませんでした。
なぜなら、自衛隊の主力部隊が出動し、神戸に入るまでに、いくつもの障害があったからです。その障害とは、現地情報の不足であり、すさまじい渋滞であり、法律の不足であり、判断の遅さであり、そして後に激しく批判されることになる「災害派遣の要請の遅れ」でした。
次回はこの辺りをテーマとし、被災初日における救助活動と、災害派遣要請について見ていきます。
なお、このシリーズを書くにあたっては、「阪神淡路大震災誌」やその他の資料にあたり、できるだけ正確を期するとともに、実際に被災された方々を傷つけることのないよう自分なりに配慮しつつ書いていくつもりではありますが、足らぬところがございましたらぜひともご指導、ご指摘を頂ければ幸いに存じます。
参考文献
官邸応答せよ (ASAHI NEWS SHOP)
災害危機管理論入門-防災危機管理担当者のための基礎講座 [シリーズ災害と社会 第3巻]
1995・01・17・05・46―阪神大震災再現 (ASAHI NEWS SHOP)
セキュリタリアン 95年3月号 防衛弘済会