このシリーズでは1973年に起こったヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)をとりあげています。今回は戦争を決着に導いたイスラエルの反撃作戦をとりあげます。
ヨム・キプール戦争の展開
ヨム・キプール戦争はエジプト・シリア軍による奇襲ではじまりました。イスラエルは「エジプトが攻めてくるなんてあり得ない」とたかをくくっており、戦争勃発の兆候に気付いていながら、それを見過ごします。戦争が始まると気付いたのが、開戦のわずか10時間前でした。目の前で数十万の敵軍が動いていても「何かの間違いだ」「本気ではないだろう」と都合のよく考えた結果、奇襲を受けてしまったのです。
エジプト軍はスエズ運河を東へ渡り、イスラエルが支配しているシナイ半島になだれ込みました。イスラエルの戦車を対戦車ミサイルで、戦闘機を対空ミサイルで叩き、大ダメージを与えます。イスラエル空軍は全般的には優勢でしたが、しかし決戦場となったスエズ運河付近でだけは、一時的に航空優勢を失ってしまいます。
しかしイスラエル陸軍は戦車と歩兵を組み合わせて、対戦車ミサイルへ対抗策をつくりあげました。そしてやがて反撃作戦が模索されます。こんどはイスラエル軍がスエズ運河を西へ渡河して、エジプト領に逆襲をかけるのです。
イスラエルの構想と専守防衛、および「あしたのジョー」
逆渡河は、もともとイスラエルの構想にありました。スエズ運河という天然の防壁をもつとはいえ、守ってばかりいたのでは敵に主導権を握られ、翻弄されてしまいます。最善の防御は攻撃であり、戦闘はできるだけ敵の領土内で行うべきです。ですから敵の渡河部隊を防いだ後は、こちらから逆渡河して反撃し、敵を講和に追い込む構想でした。
我々が西岸に逆渡河し、そこで敵の主力を撃滅して初めて、戦争に決着をつけることが可能となる。…これに疑念をさしはさむ人は、文字通りひとりとしていなかった。(p116 アダン)
なお日本の場合、海という天然の防壁をもつとはいえ、ひたすら守るだけ、という構想です。敵領土へ逆襲をかけることは禁じられています。そのため敵国は防御を心配をせず、ひたすら攻撃に集中できます。戦いは常に日本国内で行われるので、国民の生命や財産への打撃は極めて大きなものとなります。
ボクシング漫画「明日のジョー」の矢吹丈の得意は「ノー・ガード戦法」です。敢えて無防備になって敵のパンチを誘います。ですがこれは罠です。敵がパンチを打ってくれば、すかさず必殺の反撃、クロス・カウンターをかけて一撃で倒す、という戦法です。
これに対し日本の専守防衛はいわば「ガード・オンリー戦法」です。矢吹丈と違い、ガードを固めて敵のパンチは防ぎますが、しかしずっとガードしているばっかりです。敵のボディへの反撃はしません。敵が組み付いてくれば引き離すけれども、こちらから積極的に攻めてKOを狙うことはありません。それは禁じられています。
このように守っているだけでは、敵が疲れ果てて諦めるまで延々と戦争が続いてしまいます。そこで敵を挫折させ、講和に追い込む反撃が必要なのですが、これはアメリカ軍に任せることにしています。自衛隊が盾、アメリカ軍が矛です。これが日本の防衛戦略「専守防衛」です。
盾も矛も自分でやるイスラエルは、敵領に反撃をかけて敵の意図を挫くことで、エジプトを和平交渉に追い込まねばなりませんでした。
ストロングハート作戦
イスラエルの逆渡河作戦は、エジプト軍の対空ミサイルを排除するとともに、大規模な包囲を行う大胆なものです。簡単な図にすると、こうです。エジプト軍はスエズの西岸に対空ミサイルを多数置いて航空優勢を確保し、東岸に二個軍を上陸させました。
このエジプト二個軍の間、中央部分にわずかな隙があること、イスラエルは気付きました。そこでこの中間を突破し、西岸に上陸部隊を送ることを考えました。上陸部隊は西岸の対空ミサイルを排除し、東岸のエジプト軍の後方を遮断します。成功すれば一挙に戦局を逆転する、大作戦です。
しかしこの作戦には大きな問題があります。西岸にはまだエジプト軍の機甲師団(戦車を中心とする重装備の大部隊)が残っています。突破・渡河作戦が成功しても、せっかく上陸した部隊はこのエジプト機甲師団によって頭を抑えられかねません。そうなると敵を包囲するどころか、渡河したイスラエル軍の方が敵中に包囲されてしまいます。そのためイスラエル軍はこの反撃をためらいました。
なお日本の陸上自衛隊の役割はこの時の西岸にあったエジプト機甲師団に近いものがあります。外国が日本へ上陸作戦を計画する場合、陸上自衛隊が十分な戦力を持っていれば、これを打倒できるだけの大規模な上陸船団を送らねばなりません。すれば実行は難しくなり、かつ自衛隊が上陸船団を海上で捉えて打撃を与えることも可能になってきます。陸上戦力は最終的な抑止力として、上陸作戦のハードルを上げる効果を持っているのです。
砂漠の戦車戦
イスラエルが逆渡河・反撃を検討し、しかし西岸に残っているエジプト機甲師団のために躊躇っていたまさにその時、イスラエルの情報機関モサドが重大な情報をつかみました。エジプト首都に潜んでいたスパイからの情報によれば、エジプトは西岸の機甲師団を東岸に渡河させ、攻勢をもくろんでいる、というのです。
恐るべき危機でしたが、しかしこれを乗り切れば反撃の展望が開けます。スエズ東岸へ渡河したエジプト軍主力を撃破すれば、西岸への上陸作戦のリスクは大きく下がるからです。
エジプト軍は400〜500両もの戦車を一挙に投入し、東岸で大規模な攻勢にでました。イスラエルに追い詰められたシリアが、エジプト政府をせっついたためです。
対するイスラエル軍は高台の稜線で待ち構え、戦車と対戦車兵器で猛射を加えて、エジプト軍を次々に撃破していきました。わずか1日で150両〜250両の戦車が撃破されたといいます。さらにはイスラエル空軍も、対空ミサイルの傘から外に出た敵に対して対地攻撃を行います。エジプト軍の攻勢は、こうして完全に失敗しました。
一方のイスラエル軍はこの日の戦果を受け、渡河反撃を固く決意したのです。渡河作戦は「ストロングハート」と名付けられました。
「粛々、夜河を渡る」
イスラエルの逆渡河作戦は、15日の太陽が沈んだ直後、夜襲で始まりました。東岸エジプト軍の中央部分を、夜に乗じて突き破るのです。これに参加した将軍の一人は「何度も戦争を体験したが、この夜ほど固唾を飲む日はなかった」と後に述べました(p379 ラビノビッチ)。
夜を徹する激戦でエジプトの防衛線に穴をあけ、運河までの道を切り開きました。そして道路を確保し、渡河橋をかけ、部隊を移動させて、ついに大規模渡河を敢行。17日夜に渡河したアダン師団長は、そのときの様子をこう書いています。
私はいささか興奮の態で、マイクをとると隷下部隊に伝えた。
”待ちにまった瞬間が遂にやっていた。我々は只今よりアフリカに渡る。目の前には素晴らしい橋がかかっている。諸士の迅速なる到着を待っているのだ”
私がそこまて言ったとき、私の膝に何か固いものが触った。ゼルダ(APC)の中からである。のぞきこむと、操縦手のムウサが私を見上げていた。
”将軍、ウイスキーを一杯いかがですか、瓶はあいています”
と彼は言った。これぞまさしく戦友である。私は瓶を高くかかげると、搭乗兵全員に聞こえるように大声で言った。
”アフリカ突入のために! 諸君、長い道のりだった。我々が敵を叩き潰すのに、長い時間はかからぬだろう。レハイム!”(レハイム=…乾杯の意)。
ウイスキー瓶は手から手へと回っていった。ゼルダの車内は意気大いにあがった。それから私は軍司令部に連絡し、いささか美文調で、余はすでにアフリカに在り、部隊粛々として夜河を渡るなどと伝えた。(p211 アダン)
イスラエル軍は運河まで切り開いた補給線を守りつつ、次々に主力を西岸に渡していきます。これによってエジプトの対空ミサイルは撃破され、あるいは後退しました。するとイスラエル空軍がその空域に進出し、地上部隊を存分に支援できるようになりました(p229 アダン) まず陸軍が進んだ結果、空軍も進めるようになり、すると陸軍はさらに前進可能になったのです。
イスラエルの渡河作戦は成功し、エジプトはこのままではシナイ半島へ渡河した第三軍が包囲殲滅されることを知りました。
停戦への動き
東岸のエジプト軍は退路を遮断され、その運命は風前のともしびとなりました。完全に殲滅される前に停戦にもちこむ他、もはやエジプトに道はありません。
また、米ソからも停戦圧力がかかります。ソ連はエジプト、アメリカはイスラエルを支援していました。もしエジプトが負けそうになればソ連はこれを支え、アメリカはそんなソ連に対抗するために直接介入を迫られ、米ソ対決になりかねないのです。それを避けるためにも、22日、ニューヨークの国連安保理で停戦決議がだされました。アメリカのキッシンジャー国務長官がソ連へ、次いでイスラエルへと飛び回って調停にまわります。
イスラエルはエジプト・シリアの攻撃を跳ね返したところであり、エジプトはシナイ半島にまだ軍を残しています。この辺りが妥協可能なポイントだ、とキッシンジャーは考えました。
エジプト、イスラエル双方はそれぞれ交渉のカードを持っている。イスラエルは第三軍を包囲しさらに西岸に進出しており、エジプトも東岸に橋頭堡を有している。つまり、双方とも取引材料を手にしているから、交渉の望みはある。
(p273 「図解中東戦争」 ハイム・ヘルツォーグ)
停戦交渉の焦点はエジプトの第三軍です。第三軍はイスラエル領のスエズ東岸を占領しています。しかしすでに包囲下にあり、このまま戦争が継続すれば殲滅されるに違いありません。
第三軍が殲滅されればイスラエルの完勝、エジプトの敗退が誰の目にも明らかになります。・・・しかし、それではうまくない――と、停戦の仲介にあたるキッシンジャーは考えました。痛み分けの形で停戦にするのが最も望ましいと考えたのです。
政治の道具としての戦争
こうした外交上の思惑が飛び交い始めた頃、戦場では未だに戦いが続き、砲弾が飛び交い、将兵が傷ついていきました。スエズ東岸で戦っていたエジプト軍のナデー軍曹は、当時の日記にこう記しています。
「私は、ベートーベンの交響曲第三番、英雄を聞いているような気持ちがする。勇気がこんこんと湧く。
今日、我々はムーサンの誕生日を祝った。二十七歳だ。そして我々は一日中……争っている。
砲弾が爆発するたびに、砲弾もろともばらばらになりたいと願う。
神が死なせて下さらぬ。
戦争ほど、この世で汚いものはない」
(ナデー軍曹の日記 「ヨムキプール戦争全史」p425-425)
戦場の形勢を支えているのはこうした将兵の名状しがたい労苦でした。交渉の席において、それはカードとしてつかわれます。まさしく戦争は、異なった仕方でする政治の継続です。戦場で流される血も汗も、ことここに至れば、政治のための道具に他ならないのでした。
こうして主たる戦場は、砂漠から執務室へと移りました。現下の戦況を利用して、いかに都合のよい条件を勝ち取り、自国にとって望ましい戦後を形成するかという、言葉の戦いが始まりました。