目次第1章 革命の偉大と悲惨第2章 フランスではなぜ劇薬が用いられたのか第3章 劇薬はどんな効果をあげたのか第4章 劇薬の痛みについて考える第5章 人間の偉大と悲惨
高校生でなくても、 フランス革命や政治に興味のある人におすすめです。
以下、メモしたところと、思ったこと。
自由貿易と戦争
パリ南方のエタンプという町では、シモノーという名の、六〇人以上の労働者を雇用する皮革製造業者で商人も兼ねる富裕な商工業者(ブルジョワ)が中心になって、次のような陳情書を作成しました。英仏通商条約が締結されて以来、わが国の製造業は、イギリスとの競争に負けて、いちじるしく衰退した。…人びとは、この条約を破棄すれば勝ち目のない戦争を招くであろうことを恐れている。……しかし、われわれを破滅させるこの条約によって国家の衰亡を招くよりは、むしろ、戦争の危険をおかす方がはるかにましではないだろうか。こういう切迫した危機感が、フランス革命の背景をなしていたのです。(p43-44)
英仏通商条約によって関税が引き下げられた結果、産業革命が進んでいるイギリスの製品がフランスに安く流入し、フランスの商工業者に打撃を与えたのでした。
よい製品が安く輸入されることは消費者の利益なのであって、自由貿易は常に望ましいことです。しかしながら、得をした多数者より、損をした少数者の方が声高に自分の利害を主張するのは古今変わらないことです。
また、このような例は、貿易の発展と相互依存の深化が戦争を無くす、という主張が生まれるよりも早く、それらへのささやかな反論になっているでしょう。長期的には相互依存の深化は戦争のコストを増大させるものの、短期的には経済や文化の衝突によって戦争の背景を構成することがあります。
接触には常に反発が伴うものだからです。反発を乗り越えてこそより良い関係を築けるのですが、その過程は常に穏やかとは限らないものです。出会いから結婚に至るまで、深刻な衝突を経験しないカップルが、この世にどれほどいるでしょうか? 国家と国家、文明と文明も同じことです。貿易や人の行き来が盛んになり、距離が縮まればこそ、生じる衝突もあるのです。
「飢えない権利」
彼は、九二年十二月二日に、国民公会でこう述べます。社会の第一の目的はなにか。それは、人間の不滅の諸権利を維持することである。その諸権利のうちで第一位にあるものはなにか。生存する権利である。それゆえ、社会の第一の法は、社会のすべてのメンバーに生存の手段を保障する法であり、その他すべての法はこれに従属する。(p124)
このような生存権の考え方は九十三年憲法に記されることになりますが、同憲法は実施されなかったため、空文で終わります。はるか後に福祉国家が出現して、このような思想が政治の義務としてようやく認識されるに至ることを思えば、フランス革命の中で案出された思想がいかに先駆的なものを含んでいたかに驚きます。
一方で「生存する権利」に強く賛同したロベスピエールが、裁判なしで多くの人をギロチンで処刑する恐怖政治を敷きました。政治的人間のやることは、個人の善性とは無関係であり、むしろ自分の正義と社会の正義を同一視するような気高い人こそ、最悪の暴君になりえるということでしょうか。
「正しいことをしよう」とする政府、政党、個人らに無制限の権力を与えることほど恐ろしいことはありません。彼らは概して「悪いことが起こるのは、悪人がいるからである」という見当違いな思い込みに支配されがちです。
九十二年の夏、敵軍が国境を越えて侵入してきたとき、大衆は、宮廷が外敵と共謀するのを防ぐために、八月十日の蜂起で王政を倒しました。しかし、敵軍はさらに深く侵入してきます。そのため、パリでは、反革命派と見なされた多数の容疑者が投獄されます。
そして、九月のはじめ、「敵はわが門前にあり」という警報に接したとき、民衆は、牢獄に侵入して囚人をみなごろしにします。この「九月の虐殺」の犠牲者は千四百人近くに達しますが、その大半は、反革命派とは関係のない一般の囚人たちでした。不安に駆られた大衆運動は、ときとして、みさかいのない殺戮にまで至るのです。(p139)
政治がうまくいかないのは色々な原因がありますが、ほんの最近まで政治の実務に携わった経験をもたなかった人々は、うまくいかないのは誰かが邪魔をしているからだと考えがちです。実務経験を積んだ人々は、そのような幼稚な他罰主義には走りません。なぜなら彼らは、物事というものは、うまくいかない方がむしろ常態だと、経験的に知っているからです。
だから革命政治家たちは、ことがうまくいかないのは外部の敵が邪魔をするからであり、彼ら自身のやり方や能力に問題があるなどとは夢にも考えません。あるいは、彼らの党派の中に悪者がいるからだと考えて、自分と少しでも意見が相違するものを見つけては、これを糾弾し、足の引っ張り合いをして、政権の安定を損んじます。
それらのに革命政治家たちは、たくみな自己弁護を用意していて、自分たちと意見が異なるものを、すなわち社会の敵、国家の賊、反革命だと断じてしまいます。自分たちこそは、社会全体の利益を考えていると信じているからです。
ロベスピエールは、早くから、九十一年体制を批判するために、相手の排除を正当化する論理を組み立てていました。九十一年の春に、彼はこう述べています。
富裕者たちは、自分たちの個別的利害を一般的利害であると名づけ、この自分勝手な主張を貫徹するために、社会的な力のいっさいを横取りした。……だが、人民の利害こそが一般的利害なのであり、富裕者たりの利害は個別的利害なのである。
こうして彼は、自分の意見が「一般的利害」を代表しており、相手の意見は「個別的利害」を代表しているにすぎないのだから、相手を排除してもよいのだろいう、「一般的利害の優越」の論理を組み立てていました。この論理の行き着く先が、相手を排除する独裁への道であることは、すぐにおわかりになるでしょう(p147-8)
社会の一般的利害というアイデアは、否定のために用いられる限り社会に有用でありえるけれど、肯定のために用いられれば常に有害です。ある特定の階層や集団の代表意見がすべてを牛耳ろうとするのを批判して「それは一般的利害では”ない”」ということは適切です。単一の意見だけで政治が動かされるのを避けることになるからです。他方、自分の意見をさして「これこそ一般的利害だ」というとき、すべての対話は閉ざされます。
こうして、一般的利害だと彼が思うもののためには、個別的利害を主張する相手を排除し、議会から追放し、ついにはギロチンで殺してしまっても良い、と考えるようになります。社会とは異なった利害をもつ諸集団で構成されており、それらに利益分配をはかるのが政治の営みです。それを認めずに、自分こそは社会の一般的利害を知っていると盲信し、一つの利害を押し通そうとする限り、独裁に至るほかありません。
政治とは意見が一致しない人々の間でする妥協の技術なので、自分たちの意見がすべてだと思っている人々には向いていないのです。