本書は松尾匡教授の手になる、経済の本でもあり、思想の本でもある新書です。経済政策と社会政策について、「この政策がいいよ」という本ではなく、その一段上の考え方、つまり「いろんな政策や政党があるけど、それぞれの良し悪しを判断する基準みたいなのはないの?」ということについて書いています。
日本経済、どうすればいいのか。という点については、ここ20年ほど、色々な議論がありました。公共事業や地域振興券を配ったらいい。いや、財政赤字が増えて大変だから、小さな政府を目指すといい。不良債権を処理し、ゾンビ企業を淘汰し、構造改革をしたらしい。いやいや、まずはリフレ政策でデフレを止めることだ。いやそれは悪魔の政策だ。社会保障のために消費税を上げなければ。いや、先延ばしして経済の好循環を生まなければ・・・。
本書はそんな状況にあって「考え方」を提示します。ケインズ、ハイエクを始めとする経済学の先駆たちの議論を丁寧に追いながら、それらに共通する視覚を提示します。前書きからいきなり結論がでてくるのですが、それは、こう。それは、一言で言えば「リスク・決定・責任の一致が必要だ」ということであり、これとかかわって「予想は大事」ということです。この視覚を導入すれば・・・なぜ、これまで試みられてきた経済政策路線がどれも行き詰まったのか。では、この先どうすればよいのかが、これによって分かるのです。さらに言えば、この先、政権与党が新たな経済政策を打ち出した際に、その政策が真に私たちを幸福にするものか、矛盾をはらんだものでないかが見抜けるようになるでしょう。(p6)
本書には「視覚」に基づいて色々な経済政策や事例を検証しています。ここの事例に当てはめた時の結論については、それはちょっと要素を省きすぎなんじゃないか、と思われる部分もありました(漁協関連のことなど)。しかしながら、この「視覚」自体は、経済政策のあり方にとどまらず、政策のあり方、政府の役割といったものを考えるためにとても重要なモノサシであろうと思いました。
選挙の前でもあり、多くの人に読まれるべき面白い本です。
以下、メモしたところ。
自由な国家と恣意的な政府の支配下にある国家とを最もはっきりと区別するものは、自由な国家では「法の支配」として知られているあの偉大な原則が守られているということである。専門的な表現を一切省いてしまえば、この「法の支配」とは、政府が行うすべての活動は、明確に決定され前もって公表されているルールに帰省される、ということを意味する。・・・強制権力を行使する行政組織に許される自由裁量権は、できるだけ最小限に抑えられなければならない、ということである。(「隷属への道」p92)
次の二つの主張のうち、どちらがケインズ派の主張で、どちらがフリードマンの主張でしょうか。A 不況になったら、中央銀行がおカネをどんどん発行すること(金融緩和)や、政府が財政支出の拡大をするべきである。そうすると、経済全体のモノやサービスを買おうとする力(総需要)が増えて、景気が良くなる。B 金融緩和や財政支出拡大をしたら、一時的には生産や雇用が増えるが、それは長続きせず、やがては元の木阿弥になってしまう。結局、インフレや財政赤字が悪化するだけで損で、有害無益だ。もちろん、Aがケインズ派、Bがフリードマンの主張です。最近の日本にいると勘違いしそうですが、間違えないでくださいよ。Bは、左翼の怨嗟の的で、世界に新自由主義の惨禍をもたらしたとして悪魔の学説の教祖扱いされているフリードマンの主張です。胸に手を当てて近頃の自分の言動を思い返してほしい人が左派系にもたくさんいるのですが・・・。(「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」p100-101)
人々の行動についての各自の予想と、その予想に基づく各自の最適行動が、お互いつじつまが合って再生産されている状態が「制度」というものだといえるわけです。(「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」p141)