政府の安全保障政策に反対し、知識人や学生を中心に大きな反対運動が起きました。国会前ではデモが行われ、今回の条約は日本を戦争に巻き込む、憲法違反のものだと主張しました。
…という、1960年のお話について、積ん読を少し片付けたので、その中で気になった点を紹介します。
安保改定
1960年1月、岸信介総理大臣はアメリカを訪問し、新安保条約に調印しました。安保改定です。これによって日本が戦争に巻き込まれる危険が増す等、猛烈な反対運動が巻き起こりました。
安保条約の改定を進める岸内閣及び自民党に、それに反対する野党社会党と学生運動を始めとする大衆たちが対抗しました。
怒れる知識人
安保改定は、単に外交・防衛政策の転換であるのみならず、日本の民主主義にとっても危機であるという意見が強くありました。条約の中身だけでなく、改定を急ぐ岸首相の政治手法が強引に過ぎるという印象を持たれていました。
大衆の怒りの矛先は岸の強権的な政治手法にあって、彼ら大衆の怒りを代弁していたのは…知識人層だった。
その典型が竹内好である。岸の強行採決に抗議して都立大人文学部の教授を辞した彼は「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。そこに安保をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものが論争することは無益である」と主要した。(全学連と全共闘)
憲法と安保
また、安保改定が憲法がどう整合するのか、するわけがない、という観点からの反対もありました。そもそも憲法と自衛隊が整合しているのかという点で、いまだ鋭い対立があったためです。
60年3月、中立論の旗手であった坂本義和は雑誌「世界」掲載の論考「新しい国際状況の確認を」でこう論じています。
日本の現在の再軍備は、再軍備の究極目的として掲げられている日本の立憲民主政の擁護という目標そのものと矛盾しており、この再軍備は、われわれが守るべき基本的価値としてのデモクラシーを内部から腐食しています。
……憲法を無視して行われてきた事実上の再軍備は、日本の憲法と民主政に対し、二つの点で重大な害毒を流してきました。
すなわち、それは、一方では、憲法ないし立憲政に対する国民の不信や無関心を増大し、その判明において、軍隊自身、ともすれば国民の公僕というよりは、いわば私生児のような自意識を持たざるを得ない破目に立たされています。
(坂本義和「新しい国際状況の確認を」)
外交・防衛政策の目的は日本の民主政を守ることにあるはずだが、憲法ないし立憲政への国民の不信や無関心を増しながらそのような政策を進めるとすれば、それは本末転倒だ、ということです。
このような学者、知識人の援護もあってか、安保反対運動は盛り上がります。
過激派の野望
一方で、安保反対運動の中には「立憲民主政を守る」どころか、これを破壊しようとした過激派が多数存在しました。彼らは安保反対運動を煽り、騒乱状態を引き起こし、その混乱の中で革命のきっかけを見出そうとしました。
過激派組織ブントに参加していた小川登氏は、こう語っています。
「60年安保ちゅうのは学生が中心ですけどね。革命をやろうとほんまに思ったですわね」…
「ほんまにやろうと思っていた。労働者を味方につけてね。権力を奪取するところまではいかなかったけれど、岸内閣を倒すことはできたわけですね。日常と革命とがあったら真ん中まで来ているという感じで、それなりに必死だったですよ」(全学連と全共闘)
彼のような人々は、革命を起こして自ら権力を奪取することが目的であって、平和や民主主義はむしろ破壊すべきものでした。
経済の勝利
6月18日には何十万の人が国会を包囲していましたが、翌19日に新安保条約は参議院の議決がないまま自然成立しました。
総辞職した岸にかわり、池田勇人による新内閣が成立。同年11月の総選挙では、300議席、64パーセントを獲得して勝利しました。
この選挙結果について、先に引用した坂本義和の論敵であった高坂正堯は、こう論じています。
例を新安保条約にとろう。
あの二百時間を越える国会の討議、百万人を越すデモのわずか五カ月後に行われた総選挙において、安保条約という外交の基本路線に対して国民が行った審判について、まったく正反対の判断が下された。
自民党はあの選挙結果をもって、安保条約が承認されたと主張し、社会党は中立政策を支持する勢力が強まった、とまるで正反対のことを言っている。
この場合、社会党の主張は少々おかしい。…いずれにしても、政府の外交政策を国民の大多数が支持したことは、政策決定上大きな意味を持っている。
しかし、一方自民党の側も、あの選挙において得た支持が、その対外政策に対しての支持なのかどうかを、よく考えてみる必要がありはしないだろうか。選挙戦のさなかに中立論争が激しく展開されたという事実からすれば、自民党へ投ぜられた票は、安保条約についての判断を経たものということができるだろう。
しかし、それにもかかわらず、自民党への支持はその低姿勢、所得倍増などの経済政策への支持であり、池田首相の見事なペース変換が勝因であるという議論が成立するのは、それが真実を含んでいるからであり、とくに、自民党のアキレス健をついているからなのである。
…安保騒動後の、いわば自民党の危機において、争点を経済政策にもっていったことは重要な意味をもっている。たしかに自民党は票を集めることができる。しかし、それは外交政策そのものに対する支持を得ることはできないのではないだろうか。
(高坂正堯「外交政策の不在と外交論議の不毛」)
外交・安全保障論議がいくら盛り上がっても、選挙は安保では動かないのです。国民は経済を良くしてくれそうな党を選び、経済を悪くしそうな党を避けます。安保論争後の総選挙で自民党は勝利しました。それは安保賛成が安保反対に勝ったというよりも、経済政策が安保論争に勝ったのです。
外交論議の不毛
高坂はこれを「外交政策の不在と外交論議の不毛」として批判しています。一部の人々によって外交・防衛政策は推進されるのですが、国民的な議論はあまり成熟していきません。そのため、確固たるコンセンサスに支えられた外交政策は生まれません。
議論の進め方にその理由がある、と高坂は言います。
いつも外交政策をめぐる論議は、重要というよりはむしろ衆人の注意を集める問題点について、一方はある面を、他方は全然別の面を強調したまま、議論はいっこうに高まらない、ということになった。そのうちに、問題点はすりかわってしまい、あるときは途方もなく抽象化され、壮大化され、あるときは今度のように行き詰まり、矮小化されてしまう。(高坂正堯「外交政策の不在と外交論議の不毛」)
多くの人の関心を呼ぶには、問題を途方もなく大げさに言い、一足飛びに極端な結論をだして、人を驚かせるのが早道です。または逆に、問題を途方もなく一般化し、すり替える手もあるでしょう。
もし民主主義の危機というものがあるとすれば、むしろこの点にこそあるでしょう。
なお、安保反対の熱狂がどこかへ去った後、日本は高度経済成長の道を歩みました。新安保条約はその繁栄の影で、日本の平和と安全の礎となり、今に至っています。