リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

中国との対し方  高坂正尭著「海洋国家日本の構想」

 戦後日本の針路をどう考えるべきか。それを世に問うた名著が高坂正尭先生の「海洋国家日本の構想」です。これは冷戦中に書かれた本なのです。しかし今これを読み直せば「なんと、これは今現在の問題じゃないか」と思わせる記述が多くあります。

「東洋の離れ座敷」から「極西の国」へ

 日本は特殊な位置にあります。中華文明から近からず、遠からずの場所です。ために中華文明を大いに輸入しながら、漢化されることがありませんでした。中華に近すぎるが故に中華のフルコピーを目指さねばならなかった地域には到底不可能だったことです。この傾向ははるか古代からある、と著者はいいます。

日本に入ってきた最初の中国文明を代表するものとして、銅鏡がいかに日本化されたかという過程は、その後のすべての日本と中国の交流を象徴しているように思われる。


日本人は、中国人にとっては宗教的な意味があった怪獣紋を純粋に装飾として扱い、それがいつのまにか幾何紋に変り、やがて家屋紋や樹木紋のように自然主義化されていったのである。(p54 「海洋国家日本の構想」高坂正尭)

 このようなことが可能であったのは、日本にとって中華までの距離が比較的遠く、かつその間に荒海が横たわっていたことによります。距離と海は日本にとって文明的のみならず、軍事的にも防波堤となりました。

日本は中国周辺の国のなかで、はっきりとした貢納国とはならなかった唯一の国となった。……なぜなら中国はあまりにも遠い存在であり、決して日本にとって現実の脅威とはなりえなかったのである。日本は自分の好みに応じて、かつ、朝鮮人や越南人のような大きな代償を払うことなしに、高度に発達した中国文明を取り入れることができたのであった。(p54 高坂)

 こうして日本は「東洋の離れ座敷」という立ち位置で営々と発展してきました。しかし太平洋から西洋文明をもってペリーがやってきたことでこれが一気に変わります。西洋文明を大急ぎで受容したことで、日本の立ち位置はむしろ「極西」というべきものに変化します。脱亜入欧ということが言われたのは明治時代ですが、太平洋戦争後にアメリカ陣営に入ることにより、日本はますます極西の国として発展にいそしむこととなった、と高坂先生はまとめます。

なぜ中国問題は重要か

 こうして「極西」の国として興ってきた日本にとって、現中国の台頭は重大な意味をもちます。それは政治的にどうこうというよりももっと根本的に、日本の文明としての立ち位置に再びの修整を求めることだからです。

中国問題の日本にとっての重要性は、「極西」の国日本のあり方に疑問を投げかけたところにあるのだ。中国の台頭は、日本に再び「極東」の国としての性格を与え始め、それによって、東洋と西洋のアンビバレンス(両面性)という悩みを復活させたのであった。(p63 高坂)

 これはややすれば、もはやアメリカの時代ではないのだから、アメリカに従属するのを止めて、米中のあいだで中立を保とう、あるいは今後は中国に従属しよう、はたまたそれらを避けるため自ら核武装して強くなるしかない、というような種々の意見を成立させます。

 そこまで極端ではないとしても、中国の台頭によって日本の立ち位置が大きく揺さぶられていることは否定し難いでしょう。かつまた、中国に対抗する選択肢をとるかどうかを別としても、中国の台頭が日本にとって脅威の側面をもっていることもまた否定し難いところです。

中共は平和的であり、中共と協力させすればよいと考えることはまちがっている。中印国境の紛争における中共の行動は、少なくとも防禦的とはいえないものであったし、また、中共チベットに対する政策は新帝国主義と呼んでさしつかえない。中国が東南アジア諸国をその支配下におこうとすることも考えられないではない。


力に満ち、活気にあふれた文明はひとつの波のようなものである。それは、同じように力に満ち、活気にあふれた別の波とぶつかるところまで広がって行くであろう。(p64)

 ある文明が、あるいは国家が著しく興隆するとき、そこには歴史を動かす勢いとでもいうべき力が働きます。それは経済、軍事、文化らさまざまな要素の合力であって、人知で抑えられるものではありません。

 例えばかつてドイツ帝国が成立したとき、初代宰相のビスマルクは「ドイツはすでに飽和した」と考えていました。統一が拡大の限界点であって、これ以上を求めるべきだとは考えていなかったのです。しかしドイツ国民はまさにこれからドイツの拡大が始まるのだと思っており、活火山のようにエネルギーを放出し、勢いに乗って勇躍挑戦するところ、世界大戦に二回も敗北するまで収まることを知りませんでした。

 中国も恐らく波を起こす国です。これは中国が必ずしも侵略的だと言っているのではなく、その国の意図や性質とは無関係に、ただパワーが増大しているという現象は周辺に大波を起こす、ということです。それが必ずしも戦争にまで至るとは限らず、また国際社会の環境は戦争の蓋然性を著しく引き下げています。とはいえ、大国の劇的な出現が波乱を呼ぶということそれ自体は過去と同様で、周囲の国は大波とどう向き合うかを考えねばならないでしょう。

日本はどうすればいいのか?

 フランスの核戦略ガロアは、中国の核武装はアジア情勢を一変させる、と分析しました。ガロアは中国の核戦力がますます増大し、東北アジアでアメリカの核に拮抗するようになると予想しました。そして1970年以降、アジア情勢に決定的な変化をもたらす、と考えました。

 「中共が米大陸に核攻撃をくわえうるようになったとき、米国は果たして台湾防衛のために米大陸自身の破滅という擬製も受け入れるだろうか」とし、さらに同じことは韓国、フィリピン、日本らにも選択をつきつけます。そして日本としてはアメリカに従属してその核の傘に保護されるか、中立主義を標榜しつつ中国に追従するかのジレンマに追い込まれる、といいます。そしてこのジレンマから抜け出すには日本自身の核武装を含む防衛力強化しかない、というのがガロアの主張です。

 高坂先生はこのガロアの主張を退けながらも、核兵器という側面からなされたこの大胆な分析が、その単純さにも関わらず、あるいはそれゆえにか、実に核心を衝いていることを指摘します。

ガロアの発言は軍事力や核兵器というところを、きわめて広義で、異質で、捉えがたい力と置き換えて読めば、まさに問題の核心を衝いたものなのである。だから、対米従属と対中従属というジレンマは実在し、それを逃れる道は日本自らの力を強める他はないのだ。(p64 高坂)

 しかし高坂先生が主張する「日本自らの力を強める」には、ではただちに核武装だというような、軍事的力のみについて語った議論とは異なります。力をもっと多面的に捉えているからです。まずは文明的に、日本は西洋の一部ではないが、さりとて東洋の一部でもない、ということを再発見すべきことを説きます。

十八世紀の政治家であり、その著書『愛国王』においてイギリスの対外政策の基礎を示した文筆家でもあるボーリングブロックは「わが国は大陸に隣合ってはいるが、決してその一部ではないということを、われわれはつねに忘れてはならない」と書いている。この認識こそ、イギリスがヨーロッパの縁辺の二流国から偉大な国家へ変化させたものとして注目されなくてはならない。


 同じように、日本も中国を中心とする東洋に隣り合ってはいるが、しかし、その一部ではない。……これまでこの事実をわれわれは認識してこなかった。なぜなら……中国以外の世界が日本を訪れたとき、それはあまりにも大きな脅威として現れた。したがって、われわれは東洋的なものにわれわれの精神的基盤を求め、それによって西力東漸に抵抗しようとしたのであった。だから、中国と日本の相違は強調されないことになってしまった。福沢諭吉はその数少ない例外の一人ということができるであろう。


 しかし、いまやこの事情は変わった。正当に「東洋」と呼びうる中国が復活し、自己を主張するようになった。その場合、日本がその独自の偉大さを築きうる方法は、中国との同一性ではなく、それとの相違に目ざめ、東洋でも西洋でもない立場に活きることなのである。……日本は歴史で初めて、東洋に「隣合ってはいるが、決してその一部ではない」という認識に立って行動すべきときを迎えているのである。


 もちろん、われわれは中国と政治的、経済的に友好関係を保たなくてはならない。しかし、それと同時に、東洋に隣合いながら、独自の立場にあることを認識し、その難しさをかみしめなくてはならないのである。(p66 高坂)


 高坂先生はその上で、アメリカとの軍事的関係を減らしつつ、自衛力を整備する選択を提唱されています。その内容は当時の中国がもっていた程度の軍事力を念頭においたものなので、今日に適用することは難しいでしょう。またアメリカの戦略、およびその拠点となる海外基地の事情も、当時と現在では大いに変わっています。

 しかしながらこの発想の大本の見方は、今日ますます重要となってくるのではないかと思います。文明史的な視点から日本を「東洋でも西洋でもない国」と自己規定しておいて、いずれかへの片思いやコンプレックスを退けること。中国との同一性ではなく相違に着目した上で、必ずしも中国との対立を目指すわけではないけれど、より遠くにあるアメリカと近しく結んでバランスをとりつつ、日本自身の力を穏やかに高めていくという選択です。

 この著作には無い言葉ですが、高坂氏は日本の針路について「アメリカとは仲良く、中国とはケンカせず」と語っていたと聞きます。「仲良く」と「ケンカせず」のニュアンスの違いをかみ締めつつ、いたずらに中国と対抗対立するではなく、さりとて対中従属してアメリカとの仲を捨てるでもない、このバランス感覚に注目すべきではないか、と改めて思いました。