両国が領有権を争っている島へ、一方の市民が不法に上陸しました。
これは、30年前のおはなし。
1982年、南太西洋の島々の領有権をめぐり、イギリスとアルゼンチンが戦争をしました。フォークランド紛争と呼ばれています。
始まりは民間市民の上陸でした。その背景はアルゼンチンの経済が不調で、政権が危うかったこと。そこで、歴史的な経緯から係争中だったフォークランド諸島がクローズアップされました。国民の目をそらすためです。
アルゼンチンの民衆は、政府がやらないなら自分たちが島を取り返すんだと盛り上がります。義勇軍のような気分で、島に不法上陸したり、運動が過熱していきました。
それが政府の選択肢をせばめ、やがて戦争になりました。
その島には名前が2つ
その島々には2つの名前があります。イギリス人は、「フォークランド諸島」と。アルゼンチン人は、マルビナス諸島と呼びます。
アメリカなどの国も絡む複雑な歴史のなかで、イギリスとアルゼンチンは長らく島をめぐって争いました。
ある時はアルゼンチンの右翼がフォークランド諸島の無人島に上陸して国歌を合唱。またある時は、近くの別の諸島ですが、アルゼンチン側が実効支配を主張しようと、勝手に建造物を建設。するとイギリスは砲艦をだして砲撃、建物を破壊して実効支配を阻止。
いつの世も、世界の色々な場所に、こういう島や土地はあるものです。
嵐の前の不景気
戦争の背景は、アルゼンチン政権の不調です。
当時のアルゼンチンは軍事政権で、軍人大統領のガルチエリが指導していました。
が、経済の不調などによって国民の支持を失っていました。
軍部はすでに5年間も政権の座にあって、国民の信頼が全くといって良いほど欠けていた。その上、経済は大混乱に陥り、民衆の騒擾が起こりそうな情勢で、軍の内部にすら不満が高まっていた。軍事政権は、何か成功に結びつけるものを求めていた。
p37 「フォークランド戦争 鉄の女の誤算」
そこで、フォークランド諸島の領有権で断固たる姿勢をとって国民の愛国心を煽り、政権への支持を高めようとしました。うまく島を取り返せば、英雄になって歴史に名を残せます。
国民の不満は3月30日、過去六年間で最も激しい暴動となって頂点に達した。この日、マヨ広場で行われた労働組合のデモ行進が警察のむごい弾圧を受け、拘留者2000人、負傷者数百人という事態に発展したのである。
こうした中で、マルビナス諸島をめぐる論議が、新聞にそれとなく情報を漏らす形で、積み重ねられていった。マルビナス諸島をついに奪回した功労者として歴史に名を残したいという誘惑が、指導者の心の中にふくれ上がっていった。ガルチエリ大統領にとってもこの快挙によって、彼の権力はより強固に、より永続的なものになるはずであった。
p42 前掲書
経済の不調、国民の不満、大規模なデモと弾圧。さらに高まる反政府の機運…。こうして国内の内圧が高まったとき、為政者はその圧力を外に向けようとしたのでした。
断たれた退路
強攻策に賛成したのは、大統領や軍部ばかりではありません。文民の外務大臣もそうでした。
コスタメンデス外相は外交上の駆けひきの一つと考えていた。被害を最小限に抑えつつ上陸することができれば、マルビナスの主権の所在をアルゼンチン側に有利に運ぶことができると考えていた。
p39 前掲書
あくまでの外交交渉の手札の1つとして、ささやかな上陸作戦を行うつもりだったようです
ところが、そうはいきませんでした。
ガルチエリ大統領が、官邸のバルコニーに立ち上がり、熱狂した広場の民衆に向かって、マルビナス諸島の土は侵略者に1メートルたりとも譲り渡すようなことはしない、と約束してしまったのだ。……さる外務省高官の話によると、「それまではすべてがおおむね計画通りに動いていたのに、大統領は民衆の熱気に煽られ、自分の手を縛るような約束をしてしまった」という。
p39
こうして外務当局が考えていた、カードとしての上陸作戦ではなく、武力で島々をすべて占領・奪回する大胆な賭けを、大統領は選びました。
あちら側、こちら側
領土問題において、大衆も指導者も、しばしば「どこそこは歴史的にみてウチの国の正当な領土だ。だのに、あちらの国が不当にも...」と言います。
でも、そのとき、国境のあちら側の人たちも、こちら側を指差して、似たようなことを言っているのです。
お互い、相手が悪者だと思いたがります。時には、そうかもしれません。ですがたいていの場合、両者は、単に、お互いに他者であるに過ぎないのです。
フランスとスペインの境は、ピレネー山脈です。パスカルは「ピレネー山脈のこちら側とあちら側では、真理もまた異なろう」と言ったそうです。国境が分かつものは、領土だけではないようです。
正しさは手段に過ぎない
プロイセンの宰相ビスマルクは、悪どい外交家でした。時に、相手国の王様から送られてた電報を改ざんしたり、自国に戦争をしかけるように相手を巧みに挑発したこともありました。
相手を悪くみせ、自国を善に見せ、争いを有利に運んだのです。しかし決して、自らそれに囚われはしませんでした。
王が「戦争をしかけてきたのはオーストリアであるからして、オーストリアは罰せられてしかるべきだ」
と述べた時、ビスマルクは
「オーストリアが我われに敵対するよう仕向けたのは正しいことであり、また彼らが我われの要求に反対したのも当然のことであります」と答えている。
p96 テイラー 「戦争はなぜ起こるか」 新評論
自国が正しい、相手が悪いという信念は、多くの場合、打ち手を過度に制限してしまい、自らを悪手に追い込みがちです。
正しさは演出すべきもので、自ら信じすぎるのは考えものです。
この種の冷めた感覚を無くしたとき、大衆は極端に走り、指導者は思わぬ悪手に出てしまいます。
このビスマルクですら、最後には大衆の情熱を制御できず、次世代に禍根を残す結果になりました。
賽は投げられた
30年前のアルゼンチンでは、国民の不満から目を逸らし、不安定な自分の政権に求心力をもたらすため、歴史的ないさかいが掘り起こされました。
国際紛争において、世論はしばしば無力であり、時にはその頑迷さが、うかつなリーダーを誘惑します。 リーダーが人々の情熱に訴えて安易に大見得をきったとき、拍手喝采のなかで破局が約束されました。
「心配することはないよ。負けるはずは無いのだからな」と、大統領は外務当局に語ったそうです。