戦争はなぜ起こるか―目で見る歴史 (1982年)はテイラーという有名な史家が書いた著作です。原題は「HOW WARS BEGIN」。中身はタイトルの通り、戦争がいかに開始されるかを書いています。フランス革命戦争から冷戦までの主だった戦争を取り上げています。
何せテイラーの著作ですので、読み物としても面白く、多くの示唆を与えてくれます。戦争の原因は百万通りもあるとしても、その中で「錯誤」と「不合理」が含まれないものは一つもないようです。
前回はこの本の「フランス革命戦争」の項を取り上げました。(前回)
今回は「クリミア戦争」です。私のような日本人にはあまり馴染みのない戦いですが、ナイチンゲールが活躍したことで有名です。
”遠因”だけで起こった戦争
クリミア戦争の直接原因は、僧侶たちのケンカです。「聖地管理権問題」といいます。
聖地エルサレムの管理権をめぐって、カトリックの僧侶と正教会の僧侶が争いました。カトリック側をフランスが、正教会側をロシアが応援したことから、幾人かの僧侶間の争いが大国間の対立に発展しました。
聖地管理権を取り仕切っているのはトルコだったので、フランスとロシアはトルコに軍隊を送って圧力をかけます。
フランスが海峡を通って一隻の戦艦をコンスタンティノープルに派遣したので、カトリックの僧たちが聖地の管理権を得ることになった。
ロシアはトルコ国境に軍隊を送り、カトリックの僧は管理権を少しばかり失うこととなった。
緊張が増し、各国が圧力をかけ、お互いに相手を疑い始めるようになった。
p48 「戦争はなぜ起こるか」 A・J・P・テイラー 新評論
この聖地管理権問題が発端となり、話がこじれて戦争になります。しかしこの戦いは「宗教戦争」ではありません。その証拠に、途中からもはや聖地などどうでもよくなっていたようです。
管理権は聖職者たちには重大事だったでしょうが、大国の政治にとっては些細なことです。にも関わらず戦争まで行ったのは不可解に見えます。この戦争には他にも不可解なこと、単純な合理性だけで説明できない点が多くあります。
もっとも弱い国からの宣戦布告
この問題を穏便に解決するため欧州諸国間で話し合いが行われました。そこでロシアが正教徒をある程度保護してよいという妥協にいたりました。ですが当のトルコがこれを「トルコの主権の侵害だ」と反発します。
そして驚くべきことが起こりました。弱小勢力であり、いまにも分解しかかっていたトルコの側が、ロシアに宣戦布告し戦争を開始したのです。それはトルコが「戦争を拡大すればするほど、イギリスやフランスがさらに関与してくるはずだ」と考えたからだそうです。
ロシアと対決しようにも、トルコ自身の艦隊はひどく老朽化していました。実際、たちまちロシアからの攻撃を受け、シノープ(本文中ではシノペと表記)で大敗。トルコ艦隊は全滅してしまいました。
シノープの海戦
この後、さらに驚くべきことが起こります。
政府は平和を望んでいたのに、市民と新聞が戦争に突き進んだ
ロシアの勝利は一応は合法的なものでした。ロシアの挑発という原因はあったものの、形の上で先に宣戦布告したのはトルコです。この戦いの時点では正式な戦争状態にあり、そこでの勝敗は兵家の常です。
にも関わらず、イギリス世論はロシアの勝利に激怒しました。シノープの戦いでロシア側の流れ弾がトルコの市街地に飛び込んだことがありました。そこでイギリス世論はこれを「シノープの虐殺」と呼びました。勝利が虐殺と言い変わることで、ロシアが狙ってトルコ市民を虐殺したかのように印象が操作されたともいえるでしょう。
このように世論を戦争に誘導したのは、国民自身であり、特にマスコミだったといいます。
イギリス全土で抗議集会がもたれ、戦争が叫ばれた。ここにヨーロッパ史上まったく目新しいことが起きた。この時初めて、世論というものが大きな役割を演じたのである。
…クリミア戦争はまさに、新聞に加勢された最初の戦争であった。…特にタイムズ紙は世論を誘導し、ロシアは単にトルコを侵害し打破しようとしているだけでなく、ヨーロッパの専制君主たらんとしている、と世論を信じ込ませていたのである。
p56 前掲書
他方、イギリス首相アバディーンは、平和を保つことを強く決意していました。ですが内外世論の後押しによって参戦せざるを得なくなります。このことをアバディーンは「大きな罪を犯してしまった」と深く悔いました。その後の彼は自らを罪人だと考え、自分の敷地に教会を建てることを拒否しています。
イギリスにおいては、国民とマスコミが強く戦争を望んで、平和を望んだ政府の鼻先をつかんで引きずり回し、国家を戦争に追いやっていったようです。
戦争を招いた戦略と思想の対立構造
戦争を招いたのは世論だけではありません。
大国間の疑心暗鬼もまた、事態を悪化させました。
お互いに相手を疑い始めるようになった。…イギリス政府及びフランス政府、そして一般の人びとも、専制国家であるロシアはトルコを破りコンスタンティノープルの支配権を確立しようとしているのだ、と考えていた。
しかし、ロシアとしては、イギリスとフランスが海峡を封鎖し、ロシアの貿易を不可能にするか、もしくはロシアの船舶が地中海に抜けるのを阻もうとしているのだと思っていた。
互いに疑心暗鬼となったが、その疑念の多くはいずれもほとんどが事実無根であった。
p51-52 前掲書
この疑心暗鬼の背景には、戦略と思想の対立があります。イギリスとロシアの二国の話に限定して簡略化すれば、こういうことのようです。
ロシアがコンスタンティノープル、つまりボスポラス海峡をコントロールすれば、地中海に勢力を伸ばすことが可能になります。これはイギリス本土からスエズ運河を抜けてインド植民地にいたるシーレーンを、ロシアが圧迫、切断しようとしていると、見えます。
もしロシアがイギリスと友好関係にあれば、イギリスはそんな風に心配しなくてもよかったかもしれません。あるいはロシアが聖地管理権問題に介入することも「それは口実で、本音ではトルコ掌握を狙っているのだろう」などと勘ぐらずに済んだかもしれません。
ですが当時のイギリスにはロシアを疑わざるを得ない理由がありました。これは前述のイギリス世論沸騰の理由でもあります。「当時、自由主義的な風潮のあったイギリスでは、ロシアの勢力を打ち破れば、ヨーロッパは自由になるだろうと多くの者が信じていたのである(前掲書p56)」という事情です。このような先入観をもってロシアの行動を眺めれば、なんとも疑わしく見えたでしょう。
以上をロシアから見れば、解釈は逆転します。神聖同盟の盟主であり、南下政策をとっていたロシアにすれば、イギリスの方がそれをしきりと邪魔しようとしているように見えたでしょう。
このような戦略と思想の対立という背景があったために、お互いの行動が実に疑わしく見え、疑心暗鬼が生じたのだ、と解釈できます。
構造とマスコミが国民を戦争に駆り立てる
ところで、クリミア戦争が集結した後、そもそもの原因だった聖地管理権はどうなったのでしょう。テイラーは書いています。
聖地の管理権はどうなったのだろうか。カトリックが手に入れたものやら、ギリシャ正教が手に入れたものやら、それとも双方で分け合ったものやら、私にはわからない。
p61 前掲書
僧侶たちの対立は戦争の見かけ上の原因ですが、実際はそんな瑣末なことで双方が憎みあったわけでも、戦争を決意したわけでもないようです。
戦略や思想といった大きな構造が大国を疑心暗鬼にさせ、マスコミに煽られた国民が国家を戦争に追いやっていきました。このような罠に囚われて、ささいな原因が大きな戦争につながった、とみえます。
ここから何が教訓として考えられるでしょうか?
まず、メディアに煽られて感情的に外交政策を決めるのは危ない、ということです。マスメディアが物事を大げさに報道したり、物事の印象を操作して世論を沸騰させるのは今でも珍しいことではありません。新たなメディアとして台頭しているインターネットにも同様の現象が散見されます。不確かな情報に煽られると色々害がありますが、時と場合によっては沸騰した世論が自国政府を戦争に追い込むよう作用してしまいます。
また、平和を実現するには当座の対立を穏便に収めるだけでなく、構造上の対立を避ける必要がある、ということも読み取れるのではないでしょうか。政府が平和を望んでいたとしても、思想的、地政学的、戦略的な構造が罠となって、些細な問題から戦争を発生させることもあります。諸勢力の関係を戦争を誘発しにくいようデザインしていく必要があります。火事の害を防ぐためには、その時々で火の扱いに気をつけるだけでなく、そもそも燃え易いものは火の近くから遠ざけておく、といった環境作りが有効です。
今回は以上で終わります。なおクリミア戦争にはこのエントリーで書いた他にも、色々な国の様々な事情がからみます。例えばフランスの事情などはとても重要ですが、この記事ではその辺りは省きました。ご興味の向きは、以下の本のクリミア戦争の章がポイントを分かり易く書いてあるのでお勧めです。この本は他にも色々な事件や戦争について書いてある大著なのでとても勉強になります。
さて、次もテイラーの解説をもとに、その中から特に興味深い部分をとりあげます。
次回は普仏戦争を取り上げる予定です。プライドが起こした戦争、という角度から書いてみるつもりです。