リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

平和はカネで買える。商業的平和論(Capitalist Peace )のはじまり

ブログのタイトルに関わらず、リベラリズムの話をします。

 これから2回にわたり、商業的平和論について簡単な紹介をします。商業的平和論とは、経済発展が世界を平和にするという理論です。

商業的平和論の思想的起源

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 貿易や商業の発展が、世界を平和にするという考えは昔からあり、多くの大学者がこれを説いてきました。

モンテスキューやアダム・スミスは、市場は戦争を嫌うと説きました。戦争になれば、交戦国の間では自由な商取引ができなくなるからです。トマス・ペインは「商業は、愛国心と国防の2つの気運を減退させる」としています。

マンチェスター派の台頭

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わけても有名なのはコブデンとブライトの「マンチェスター派」。1839年に結成され、自由貿易を強力に推進した集団です。

指導者たるコブデンとブライトは、貿易の経済的メリットだけでなく、思想的な正義を訴えました。貿易こそ平和への道だというのです。

それ以前の英国は、植民地主義の時代です。軍艦をたくさん作り、武力で植民地を作り、そこの資源や作物を独占するから、儲かる。海軍拡張が植民地経済を発展させる、という論理です。

マンチェスター学派はこの逆を説きました。軍拡は増税をもたらし、増税は英国の産業から競争力を奪います。軍艦をバックにした貿易は英国商人を傲慢にし、経営努力を怠らせます。

「自由貿易原理の本来の意図を真に理解している者がいかに少ないことか。ヨークシャーやランカシャーの製造業者たちは、インドや中国を、武力によってのみ開放がなしうる企業活動の領域とみなしている」

として、武力で植民地を支配するよりも、平和的な自由貿易の方が儲かるんだと説きました。世界で最も安い原材料をどこからか買い、英国の優れた技術で製品をつくって、世界の市場に売れば済むこと。軍隊も戦争も、ムダなコストなのです。

かくてマンチェスター派は、自由貿易による商業の発展を、経済的にのみならず、道徳的にも正しいのだと意義付けました。こうして彼らは、帝国主義や戦争に強く反対し、貿易こそ平和への道だと説きました。

ノーマン・エンジェルの議論

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正義ではなく、実利こそが平和をもたらすとする議論は、19世紀のノーマン・エンジェルに至って成熟します。

貿易はますます盛んになり、ある国の経済は他国のそれと密接につながります。相互依存の高まりです。平和な関係と、自由な貿易こそが、繁栄の土台になりました。

このような時代にあって、エンジェルは「ある国家が他国の富や貿易を、武力によって奪いとることは、もはや不可能になった」とし、「もはや戦争は、それが勝利に終わるものでさえ、人々が得ようとする目的を達成できない」と説きました。

エンジェルの優れた点は、経済発展が平和に貢献するプロセスを説明したところです。

グローバル化の進展

エンジェルが強調するのはグローバル化の進展です。世界の市場の統合が進んだことにより、戦争の有害性が高まりました。

金融面の相互依存が高まったことで、ある国の経済がダメージを受けると、それが世界経済に影響を与えるようになりました。

ここでエンジェルは、ドイツの軍隊がロンドンに押し寄せた場合どうなるかをユーモラスに語ります。「英国の銀行に押し入ったドイツの将軍は、ドイツの銀行にある彼の口座が凍結されたり、彼の投資の中で最も良いものすら目減りしているのを目にするだろう」

戦争によって英国経済がめちゃくちゃになれば、それと密接につながっているドイツ経済もまたその余波を受けます。相手に与えたダメージが、自分に返ってくるのです。

ドイツ経済の4割は貿易によるものであり、主たる貿易相手はイギリスです。このような状況で、ドイツがイギリスと戦争をしても、大損をするのは目に見えています。

近代戦争は割に合わない

もう一つのポイントは、近代化が進めば進むほど、生産や交易によって利益を得るのは簡単になり、征服や略奪で利益を得るのは難しくなったことです。

昔は、武力で植民地を征服して収奪するのが儲かりました。中世の「バイキング」と呼ばれる武力集団は、スカンジナビア半島から船で英国を襲い、富を略奪しました。

近代の英国は強い海軍を持っていますが、それによってスカンジナビア半島の農業や工業の富を奪ってはいません。工業化社会は、武力による収奪で維持するにしては、豊かになり過ぎたのです。

工業化によって大量生産の経済になると、安くたくさん輸入しないと経済がまわらなくなります。反面、中世に比べて法律や港湾、航海の安全性が整ってきました。すると、武力で収奪するより、商売として輸入する方がコスト・パフォーマンスが良い、ということに気づきます。

モノやサービスを入手したいとき、国家はそれを「奪うか、買うか」を選択できます。奪うよりも買う方が安上がりなら、進んでそうするのです。

国際的にはグローバル化、国内的には工業化が進むことで、収奪のための戦争は、割にあわなくなりました。戦争によって利益があるとするのは大いなる幻想であって、国家指導者がこのような現実を正しく理解するならば、大国間の戦争はもはや起こらないでしょう。

国家主義者にとってさえ戦争が無くなるべきなのは、それが不正義だからではなく、不採算事業だからです。

ユートピアニズムの終わり

このようにノーマン・エンジェルが説いた直後、世界大戦が起こりました。

ロンドンに攻め込んでも、彼ら自身の口座が目減りするだけ、と言われたドイツの提督たちは、潜水艦を多数送り込んでイギリス経済を破綻させようとしました。

第一次大戦の後、E.H.カーやモーゲンソーといった論者はノーマン・エンジェルを盛んに引用して批判しました。こういう議論があったけれど、戦争になったじゃないか。経済で戦争が無くせるというのは幻想主義(ユートピアニズム)の一つであって、やはり現実の国際社会では武力が大きな役割を果たしているのだとし、リアリズムが勃興します

経済発展によって戦争が無くせる、という議論はまるで意味がないものだったのでしょうか? 

そうではありません。経済で戦争を「無くす」ことはできないにしても、「減らす」効果は認められているからです。

これを統計的に証明したのがガーツキーの議論で、次回はこれを紹介しようと思います。

続き↓

平和はやっぱりカネで買える。ガーツキーの商業的平和論(Capitalist peace) - リアリズムと防衛ブログ

中立国スイスはどうやって第二次世界大戦を回避したか?「将軍アンリ・ギザン」

国家緊急権の発動

 これにより、通常の憲法秩序が一部停止され、議会の反対を気にせず、必要な政策を断行する権利が政府に与えられました。

スイスは民主主義の国です。民主主義国家において、平時には普通選挙で選ばれた議員が、議会にあって政府を監視し、勝手なことをしないようにストッパーをかけています。そして議会と政府はともに憲法の枠内でしか権力を行使できないようにしています。

 しかし有事には、議会の議論を待たず、時には憲法の規定さえ超越した強権による非常の政策が必要なこともある、という考えから、このスイスのように、憲法秩序すら越えた大権を一時的に政府や軍に与えることを、国家緊急権といいます。

 非常の時には非常の政策が必要だと、スイスの議会は考えたのです。国家緊急権は民主主義の手続きの一部を停止することになりますが、国が亡んでナチスドイツに併合されてしまえば、一部どころか民主主義の全部が失われてしまったでしょう。

戦うスイスの民主主義

 一方で、国家緊急権を発動すると、日頃のストッパーを解除された政府が暴走する危険もあります。スイス国民はこの危険にうまく対処しました。

一九四〇年十二月、国防強化のため「徴兵適齢前の青少年に対する予備軍事教練を義務化する法律案」が政府によって議会に提出され通過した。この法案は、戦時中にもかかわらず国民投票にかけられた。その結果…否決されてしまった。

理由は、予備軍事教練が当面必要であれば、戦時下政府に委任してある権限で実行すればよい、連邦の法律として恒久的な法律で定めるのは、非常時に便乗した自由の破壊につながるおそれがあると、主権者である国民の大部分が判断したからであった。

…スイスの人は、戦時中といえども決して自由を忘れなかった証拠であった。(p141)

戦争という非常時には、非常の政策が必要なこともあるでしょう。しかし、非常の政策は、非常時に限定のものです。自由で民主的な国家を守るための戦時態勢によって、自由や民主主義が恒久的に損なわれることがあっては、本末転倒です。

スイスの人々は、非常時にあっては政府に憲法秩序すら越えた強権を与えつつも、与えた強権が非常時だからといって濫用されないよう監視することで、二重の賢明さを示しました。

将軍選出と総動員

 こうして全人口の一割以上が、戦争に備えて武器とり、あるいは配置につきました。といって、もちろん、スイスから他国へ侵攻しようとしたのではありません。

なぜ戦争をしないのに、戦争準備が必要だったのか

 ドイツとフランスは、国境線に要塞を築いて、睨み合っていました。その要塞線の南側にあるのがスイスです。つまり、ドイツ軍がスイスに侵攻すれば、フランスの要塞「マジノ線」を迂回してカンタンに攻め込めます。フランスから見ても同様です。

 スイスは独仏の両軍にとって格好の「通路」でした。実際、先の第一次世界大戦では、ベルギーらの国々が、ドイツ軍に「通路」として利用するためだけに攻め込まれ、戦場となっています。

このスイスの地理的位置と、地形上の特性を考えると…スイスの中立に少しでも不安を感じたならば、両者とも先を争ってその領有を図ることは、火を見るより明らかであった。…中立国の領土不可侵の権利は、自らの領土防衛の義務のうえに立って主張できるのである。決して、一片の条約上の文字だけに、頼れるものではない。

…ギザン将軍は、まず第一に、その抵抗の意志と力を示して、スイスの中立を交戦するドイツとイギリス・フランスの両陣営に信用させることが必要であると考えた。(p53)

 もしスイスが軍事力を強化せす、戦時体制をとらないで「戦争ならよそでやってください。うちは、関わる気はないんで…」と、口だけで中立を守ろうとしたら、どうでしょうか。

 ドイツ軍は考えるでしょう。「スイス自身には中立を保つ意志があるかもしれない。でもあんなに無防備では、フランス軍が侵入しようと思えば、カンタンにそれを許してしまうではないか。もしそうなれば我が軍は、敵に背後へ回られてしまう。それぐらいなら、むしろ先に我が軍がスイスに攻め込んで、自国の安全を守るべきだ」と。フランス軍も同じように考え、スイスを攻めないと自分が危うくなると恐れるでしょう。

 つまりはスイスは「どっちかの国が我が国を通路にしようとしても、撥ね付けるだけの軍事力がスイスにはある。よってスイスは確かに中立を守ることができる」と、見せつけてやらねばならなかったのです。

ギザン将軍、領土の一部を見捨てる

スイス軍は、アルプスの山や川といった地形を利用して、「リーマット線」と呼ぶ防衛線をはり「北方防御」の態勢をとります。北からのドイツの侵攻に備えたのです。

しかし、防御に適した地形で戦うということは、それより国境よりの地方は戦わずして見捨てるということです。リーマット線よりドイツ側、チューリッヒらの諸州を防衛できないことは明白でした。

国境線の真上で戦って、領土を完全に守ろうと思えば、敵を圧倒するだけの軍事力が必要です。しかし、小国のスイスにはそんなものはありません。であるなら、国の独立を守るため、一時的には国境沿いの町や村を放棄する作戦をたてるのも、やむを得ないことでした。

他国の領土に入ることなく、専守防衛の防衛戦略をとるということは、外国を刺激することも少ないかわりに、いざ戦時のときは自国の国土を戦場にする覚悟が必要なのです。専守防衛とは本土決戦のことです。その場合、防御に適さない、国境近くの地域が一時的に見捨てられるのは、軍事力に劣る国にとって致し方のない選択です。

なにせ、戦車を活用したドイツ軍は、またたくまにポーランドを征服して、圧倒的な強さを見せつけていました。スイス軍にとって、国土の全てを守る余裕など考えられないことでした。

圧倒的なドイツ軍に立ち向かう秘策

当時最新鋭の作戦でやってくるドイツ軍に対して、ギザン将軍はどう迎え撃つつもりだったのでしょう。

ドイツ軍の戦法はのちに「電撃戦」と呼ばれます。敵の防御線の一点に爆撃をあびせ、戦車部隊で穴をあけます。そして機動力に優れた戦車部隊と、自動車にのってそれに追随する歩兵で突破部を拡張します。そこから敵の後方に素早くまわりこんで、敵軍を混乱させ、あっという間に打ち破ってしまうのです。

これを防ぐには、突破してきた敵軍を大量の大砲で撃ちまくってストップさせ、こちらも大量の戦車をもって、敵の突出部を刈り取ってしまうことです。が、小国スイス軍にそんな重武装は用意できません。もし平野で戦えば、ドイツ軍お得意の戦法に手もなくやられてしまうでしょう。

そこで、アルプスの天険を要塞として立てこもることです。爆撃で混乱させようにも、スイス兵がアリのように山地の地下陣地にもぐりこめば、爆弾はむなしく土を叩くばかりです。戦車で突破しようにも、険しい山岳ではその快速が発揮できないでしょう。

生命を捧げる覚悟をせよ

とはいえ、このような防御作戦がうまくいくためには、地形だけでは駄目です。優勢な敵に迫られながら、いつまでも粘って守りつづける、兵士たちの精神力が必要です。

ギザン将軍は全軍にこう訓示しています。

(五月十五日の訓示)

最近の戦例は…一部の破綻から防御線に間隙ができ、敵はこのすきまに侵入してこれを拡張して、そこを突破口としてさらに前方に突進するのを戦法としている。

私は、兵士諸君に、与えられた地点、配置されたその場所で、果敢な抵抗を続け、兵士としての高邁な義務を遂行することを望む。…

狙撃部隊は、兵力において凌駕され、あるいは四周を包囲されようとも、弾薬のつきるまでその陣地で戦い、次には白兵戦で戦うのだ。…一発の弾丸がまだある限り、白兵がまだ使用できる限り、兵士は降伏してはならない。

最後に私は、兵士諸君に、私が君たちに期待していることを知らせる。これが、諸君のただ一つ考えることである。”諸君の義務の存するところ、その場所に、諸君の生命を捧げる覚悟をせよ”と」(p86−87)

 

(六月十三日の訓示)

祖国のための戦いには、生命を捧げても惜しくはないというべきである。

…諸君たちは誰でも、空からの攻撃を受けたからといって、任務の遂行を回避することは許されない。…急降下爆撃機の攻撃の下で、じっと我慢し、それぞれの義務を最後まで遂行することができなければならないし、またそうしなければならない。

敵の装甲車の攻撃を受け、あるいは側面や背後に回られても、諸君は一人もその位置を捨てることは許されない。

絶望的な状況に陥って、外への道はもはや一本もなくなったときは、ビールス河畔のセント・ヤコブの千五百の勇敢な兵士たちのことを考えよ。彼らの英雄的な死は、我々の祖国を救った。そして、その不朽の名誉は、スイスのある限り消えることはない」(p87−89)

 要するに「自分の持ち場をひたすら守れ。爆撃機がこようが、戦車がこようが、絶対に逃げるな。持ち場を守って死ぬまで戦え」ということです。なんだかえらく軍国主義的というか、精神力に依存した戦い方のようですが、しかし考えてみれば合理的な考え方です。

  この訓示のとおり、兵士たちが山岳に築いたそれぞれの陣地を動かに守りつづけ、たとえ一部が突破されても、後方の味方が片付けてくれると信じて粘ってくれれば、どうでしょう。ドイツ軍はいつものように突破部を拡張しようとして果たせず、少数だけ突出した部隊をスイスの予備部隊が撃破して、戦線に開いた穴を修復できるはずです。

 「持ち場を守って死ぬまで戦え」というのは、この場合、敵味方の優劣や戦法を考え、最も合理的な防戦準備を整えて、その最後の仕上げとして言っているのです。

非情の「とりで戦略」

 この防戦思想はさらに徹底され、「とりで戦略」となりました。

 ドイツがフランスを一撃で倒してしまったことで、状況が変化したためです。今やドイツ方面からの敵をリーマット線で防いでも、フランス方面からきたドイツ軍に背後を突かれてしまうでしょう。

 そこでギザン将軍は、徹底した要点防御戦略を採用します。ドイツ軍が国境を越えれば、スイスの主要な道路やトンネル、橋などをことごとく爆破します。そしてサルガンス、ゴダール、マティーニの3つの山岳要塞を重点に、全軍でアルプスの天険に立てこもるのです。

 と、言えば合理的なようですが、山岳部に立てこもるということは、それ以外は見捨てるということです。リーマット線においてはチューリッヒなどドイツ寄り地域を捨てるだけであったのが、今度はそれどころでは済みません。

この計画は…最悪の場合はスイスの宝庫である中部高原はもとより、ほとんど全ての都市、村落、農耕地、工業地を放棄することにしていた。これは五分の四のスイス国民の尊い生命とその財産を、万一の場合には、まちがいなく侵略者の蹂躙に任せることを意味していた。

しかも、それを守るのが本来の使命であるスイス陸軍は、国民不在のアルプスの山中に、生きながらえようとするのである。

ギザン将軍は、いつなんどき侵略者の暴虐にさらされるかわからない国民が、自分たちを置き去りにして山の中の避難所(彼らの眼にはきっとそう映るに違いない)に、引き上げていく軍隊を呪う声が聞こえるような気がした。(p106−7)

守るべき国土国民を置き捨てて、山の中に逃げ、ただ軍隊だけが生き延びて、いつまでも敵と戦い続ける態勢をとること。 それがスイス軍の選択でした。

拒否的抑止戦略の成功

このプランだけを見れば、スイス軍は国民を守らない、極悪非情の軍であるように見えます。しかし実は、それこそが戦争そのものを防ぐための、この場合ただ一つの方法でした。

四十年の七月十二日、ギザン将軍はこう説明しています。

スイス連邦が、この枢軸国の直接攻撃の脅威を免れることができるのは、ただ次のような場合だけである。

それは、ドイツの国防軍総司令部が、作戦準備の段階で、我々スイスに対する作戦は、うっかりすると長い期間と莫大な費用がかかることに気がつき…彼らの全体計画の遂行を阻害するのが落ちである、との結論に達したときである。

それゆえに、我々の今後の国土防衛の目的と根拠は、隣接する国々に、スイスとの戦争は長引き、多額の費用のむだ使いになる冒険であることを示すことに、終始一貫して置くべきである。我々は、戦争を回避したいと思えば、我々の皮膚ー国境ーを、できる限り高価に売ることが問題である」(p108)

この考え方は、抑止論の中でいう「拒否的抑止」にあたります。軍事力によって敵を圧倒できないまでも、敵が戦争によってその目的達成するのを拒否できる程度に力を持つことで、その意図を未然に防ぐことです。 

 この戦略はみごとに図にあたりました。ドイツ軍はスイス侵攻を何度となく検討したけれど、その都度、撤回しています。勝てるとしても、時間がかかる上、損害は大きく、しかも勝ったあとにはスイスの主要交通路はことごとく破壊されているから、得るところが少ないと計算したためです。

戦争を回避する方法

 外交的には中立、軍事的には専守防衛という条件の中で、非情なまでに徹底したスイス軍の防衛戦略が、最後まで功を奏しました。

これはただ軍だけの功績ではなく、必要な支援を与えつづけた政府、政府に非常時の大権を与えた議会、そしてそれらを支持しつつも民主主義の精神を忘れなかった国民の存在がありました。

 戦争を回避できる国とは、他国から見て「あの国は簡単には落ちない」と思われる国家です。巧みに戦争を遂行できる国が、固い決意をもって防御的に振る舞うとき、初めて戦争を回避することができたのです。

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集団的自衛権の起源と、戦争の克服

 しばらく前、「集団的自衛権」という言葉がテレビや新聞でよく見られました。そろそろ静かになってきたので、いつもの通り政治的な主張はさておいて、基本と起源を抑えつつ「集団的自衛権と平和の関係」について書いてみます。

 集団的自衛権に賛成の人は、日本の安全のために必要なんだというし、反対の人は逆だ危険だといいます。両方とも「日本は平和で安全な国であってほしい」という目的意識では共通していますね。だけど、どうやって平和と安全を確保するかという手段の点で意見の対立があるようです。

 これは現代日本に限らない悩みです。昔から世界中の人が平和をつくるより良い方法を考え、やってみて、失敗し、また考え続けてきました。その過程で誕生したアイデアの一つが「集団的自衛権」です。

 この記事では集団的自衛権の誕生の経緯を振り返ることで、人類が平和の作り方についてどういう試行錯誤をしてきたかを解説します。これからどうすべきかを考えるには、これまでどうだったかを振り返る必要があるからです。

集団的自衛権とは何か

 国際社会において、国家が軍隊を使って他国を攻撃することは禁止されています。でも、他国に攻撃された時に軍隊を使って戦い、自国を守るのは認められています。これが個別的自衛権です。自分を守るために戦うのはOK。これはまあ、何となく分かる気がします。

 同じように、自国と密接な関係をもつ国が攻撃されたときに、「助けてくれ!」という要請に応えて侵略国と戦う権利。これが集団的自衛権です。なにそれ?

 「分かりにくい」と思うのは、現代の日本から見てるせいです。最初にコレを考えた人たちが何に悩み、何を恐れ、何のために集団的自衛権というアイデアを発明したのかを見てみましょう。

集団的自衛権はいつ、どこで誕生したのか?

 集団的自衛権が誕生したのは1945年4月から6月のこと。サンフランシスコ会議で採択された「国連憲章」に明記されたのが始まりです。

 その頃、日本では凄惨な沖縄戦の真っ最中。日本はまだまだ戦争を続けるつもりでした。同じ頃、アメリカでは国際会議が開かれ「第二次世界大戦は終わりそうだけど、これからどうしよっか?」と50ヶ国余が話し合っていました。

 一つ前の会議で作られた「ダンバートン・オークス提案」をもとに、サンフランシスコ会議で話し合ってできたのが「国連憲章」。その第51条で「個別的及び集団的自衛権は各国の固有の権利だ」と書いています。集団的自衛権というアイデアがこの世に生まれた瞬間です。

集団的自衛権は中南米を守るために作られた

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 集団的自衛権は、ラテンアメリカ諸国の運動によって国連憲章に加筆されました。会議の叩き台であるダンバートンオークス提案の段階では書かれていなかったのです。

 国連憲章では、正確にいうと「この憲章のいかなる規定も…個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と書いています。「国連憲章の規定は、ラテンアメリカ諸国の邪魔するのではないか?」という心配があったので、そんな心配は無用ですよ、と保証したかったのです。

 ラテンアメリカ諸国がは「国連憲章はチャペルテペック協定を無効化するのではないか?」と心配しました。この協定は会議の直前に締結されたもので、アメリカ大陸の国々で軍事的に協力して身を守ることにしよう、というものです。

 アメリカやソ連のような軍事大国なら、戦争になっても1国で自分の身を守れるでしょう。ところが中南米の国々はまだ貧しい軍事小国ばかりでしたから、大国に攻められたら、単独ではひとたまりもない。地域で身を寄せ合って共に戦う必要がありました。国連憲章はそれを邪魔しませんよ、と一筆書いて貰いたかったのです。

 会議に参加したコロンビア代表団のジェラス=カマルゴ外相は「集団的自衛権という言葉は、その起源 において、米州の地域的取極のような地域的安全保障制度を温存することと同義だった」と言っています。(国連とアメリカ (岩波新書)p99)

 集団的自衛権が国連憲章に明記されたのはこういうわけなのですが、ダンバートン・オークス提案も、ラテンアメリカ諸国の抵抗も、いずれもが、それまで人類が平和のために試み行ってきた数多い失敗が踏まえたものです。

同盟による平和

 戦争が起こっていない状態(消極的平和)を平和と定義するならば、平和達成の方法を人類は数多く試してきました。その最も古典的な方法が軍事同盟による平和です。利害が一致する国が同盟を組み、同盟の軍事力でもって外敵を抑止し、戦争を未然に防ぎます。現代でもよく使われるロジックです。

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 A国はD国との間に領土問題を抱え、近年ますます対立が深まっています。Aは軍事力に乏しい平和主義の国ですが、Dは発展いちじるしい野心的な軍事大国だと見られています。Aの弱さにつけ込み、Dが攻め込んでくるかもしれません。

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 Aは我が身を守るため、Bと同盟してDに対抗します。DはAに攻め込むと、Bからも反撃を受けるので、戦争をためらいます。Aは同盟によってDを抑止することができます。

 このようにして軍事小国でも身を寄せ合うことで大国に対抗すれば、特定の大国が横暴に振る舞うことはできません。仮に戦争をしても、対抗同盟によって反撃されるので、大勝利を収めることはできそうにないので、仕方が無いから平和が保たれるでしょう。

ささやかな成功 同盟による抑止

 19世紀のヨーロッパはこんな感じで、わりあい平和であり、戦争が起こっても小規模で済みました。

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 軍隊とフルートを愛したフリードリヒ大王は、こう言っています。「原則として同盟が交戦諸国間に力の平等な関係を作り出すので、現在、君主が成功を重ねてさえ、獲得を望みうるのは、せいぜい国境の小さな町かちょっとした領土に過ぎない。それは戦争の出費につりあわない」(古典外交の成熟と崩壊p38)

 バクチのような戦争を強行したフリードリヒ大王すら、こう思わせる。これが勢力均衡(バランス・オブ・パワー)モデル、同盟による平和です。

同盟が世界大戦を招いた

 ところが1914年には、同盟こそが大戦争のトリガーになりました。

 先ほどのA国とD国の話に戻りましょう。AはBと同盟してD国の脅威に対抗しますが、D国やそれに近しい国々から見れば、AB同盟こそ重大な脅威だと感じるでしょう。今度はDを中心とした同盟が生まれます。

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2つの同盟が対立して国際関係が固定化すると、とんでもないことになります。全ての国がどっちかの同盟に入っているので、中立の立場から対立を「まあまあ」と宥める仲介役がおらず、相互不信が解消されません。

 AからGまでの7ヶ国のうち、どこか2ヶ国の間で戦争が起こったとき。残る5ヶ国も同盟に従って参戦すると、普通ならただの2国間戦争で済むところが同盟対同盟の大戦争になってしまいます。

 「戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦」で書いたようにちょっとした事件が戦争に、戦争が大戦争へと拡大し、人類史上初の「世界大戦」が起こってしまいました。

 戦争を防ぐための同盟が、かえって国際関係に相互不信を起こし、戦争を拡大させてしまいました。「同盟の軍事力で平和を保とう」という人類の試行はそもそも間違っていたのではないか、と当時の人々は考えました。

平和主義と国際機構による平和

 今こそ別の方法を試してみる時でした。戦争の違法化です。

 大戦の後、1928年に発効された不戦条約は、戦争の違法化をある程度達成しました。つまり「国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし…国家の政策の手段としての戦争を放棄」し、平和的手段で紛争を解決することを各国が宣言したのです。

 また、世界大戦の反省から、当時のヨーロッパでは平和主義が台頭しました。フランスの軍人であり、後に大統領になるシャルル・ド・ゴールは著書でこう書きました。

・昔の兵士の役割は実に広範なものであった。しかし、現代ではその役割は縮小の一途を辿り、現代世界は軍隊なしに成立し得るといった幻想を抱いている。

・一般フランス人は、国際法や条約が戦争を防止してくれるものという信念をひとりひとりの中に育んでいる。

・前代未聞の戦乱の後、諸国民はかつてないほど戦争を憎悪している

剣の刃

戦争や軍備を憎悪し、その代わり国際法や条約で平和を守ろうという平和主義の台頭です。例えば、イギリスの野党は再軍備に反対してこう主張しています。

「わが国の安全および世界の平和は、軍事力への依存によっては獲得することができない」

(1936年3月 イギリス政府の再軍備計画に反対した議会労働党の決議案)(三〇年代イギリス外交戦略―帝国防衛と宥和の論理 p299)

 現代でどこかの政党が決議しても違和感のない、立派な宣言です。戦争の悲惨から生まれた平和主義が欧州を席巻し、戦争を無くそうとしました。

 戦争違法化の流れは、第二次大戦後も継続し、国連憲章をもって一応の完成を見ました。この流れを受け、多くの憲法で戦争の放棄が明記されました。その中に日本国憲法も含まれます。憲法でいう戦争の放棄や平和主義は日本に独特のものではなく、戦争違法化を少しずつ進めてきた人類史的な潮流、その一支流をなすものです。

 これを誤解して「世界に類をみない平和憲法がある日本は平和国家で優れている」という捉え方をすると「日本は特別な神国で、アジア唯一の文明国として未開国を啓蒙するんだ」というのと異質同型なナショナリズムに回収される恐れがあります。

 自国が他国より優れているとする思想は「自国には他国を指導する権利がある」という独善主義に陥りがちです。それは「いかなる国にも他国を侵す権利などない」という思想の対極にあるものです。戦争の放棄や平和主義に価値が認められるのは、それがどこかの国の専売特許では「無い」からこそなのです。

 ともあれ、このような潮流によって人類は戦争を違法化し、ひとまずは国際連盟による平和が追求されました。

同盟の機能不全と抑止力の破綻

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 平和を求める声は、ヒトラーの耳にも届いていました。ただし、異なった響きをもって。

有名例としては, 1933年にオクスフォード大学の弁論クラフであるオクスフォード・ユニオンで行われた討論をあげることができる。

第一次世界大戦で2000 万人もの犠牲者が出たことから,半数以上の学生は,今後は二度と王や国家のためには戦うべきでないという命題に賛成した。

この討論を聞いていたのは, 学生たちだけではなかった。アドルフ・ヒトラーも聞いていたのである。

彼は民主主義諸国は軟弱だ,どうせ反撃してくるおそれはないのだから押せるだけ押してやれ,と考えた。((国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史p30)

ヒトラーは、軍事力を使った恫喝で領土を拡張しても、イギリスやフランスは反撃してこないだろう、と高をくくっていました。実際、ドイツの度重なる領土要求に対して、英仏は軍事制裁を行わず、代わりに小国をヒトラーに差し出す始末。英仏はドイツ領内に殴り込む余力を失っていたし、ドイツがソ連の脅威への壁になってくれるだろうという虫のいい期待感もありました。

 ヒトラーのバクチ的な軍事外交は成功を重ねます。その最終段階で英仏はついに「もしドイツがポーランドに攻め込めば、英仏はポーランド側に立って参戦する」と言って、戦争を抑止しようとしました。しかし、ヒトラーはこれを信じなかったので、第二次世界大戦が起こりました。

 戦争を嫌い、平和を求める意志が十分でも、それを実現するための軍事力を欠いた時、抑止力は失われて戦争が起こります。

国連の集団安全保障による平和

  第二次世界大戦のあと、人類はさらに別の手段を試すことにしました。国際連盟による平和は失敗したけれど、アイデアを改良することにしたのです。ごく簡単にいえば「国連軍が世界の平和を守る」ということです。

 まず全ての国の「武力の行使」を禁止します。「戦争」ではなく「武力の行使」を禁止したのは、不戦条約のあとも日本などが「これは戦争ではなく事変だ」と強弁して侵略に邁進したからです。

 もしルールを破って武力を行使する侵略国が出現すれば、それ以外の国々が連合して軍隊を組織し「強制措置」と呼ばれる武力制裁を行います。

 第二次大戦の前にも、侵略国への制裁は認められていました。しかし経済制裁が主であった上、制裁は各国が個別に実施することになっていたので、手抜きをする国がでて足並みが揃いませんでした。この反省から、多くの国が結束して武力制裁しなけば、侵略国にストップを欠けるのは難しいと考えられました。

 この構想が実現すれば「もし自国がどこかの国から侵略を受けても、国連軍がやってきて守ってくれる!」ということになります。…本当に?

「国連が守ってくれるから、自国の軍事力や同盟には頼らなくていい」と、少なくともラテンアメリカ諸国は考えませんでした。

国連は機能しなかった

 ラテンアメリカ諸国が国連軍を信用しなかったのは2つの理由があります。1つは拒否権、もう1つは時間の余裕です。

 侵略国に対する軍事的強制措置、いわゆる「国連軍」を編成するには、国連安全保障理事会が「この国は侵略国だ、憲章違反だ!」と認定して、強制措置の発動を決定せねばなりません。

 しかし「拒否権」をもつ米国、ロシア、中国ら常任理事国のうち、1ヶ国でも反対すればその決議は流れます。このため侵略を受けても、必ず国連軍が助けに来てくれるとは限らないのです。

 しかも、もし強制措置が発動されたとしても、戦争が始まってから国連軍が到着するまでにはタイムラグがあります。安保理が事態を認定し、決定し、各国が兵力を準備し、派遣する…。その間に、侵略を受けた国は全土を占領されたり、市民を虐殺されたりするかもしれません。よって、国連軍に期待するとしても、その到来までは自力で国を守らないといけません。

 ラテンアメリカ諸国が国連憲章に「ちょっと待ってくれ!」と言ったのはこのためです。「武力の行使の禁止」が、地域的同盟にもとづく自衛すら禁止するものなら、小国は危険な状態におかれると恐れたのです。自分は攻撃されていなくても同盟国を助けようとしても「待て、国連憲章は武力行使を禁止しているぞ」と禁止されたら、小国たちは一国、また一国と侵略国に呑み込まれてしまうでしょう。

 実際、拒否権の乱発によって国連の集団安全保障は機能不全に陥ったので、彼らの心配は正しかったといえるでしょう。(もっとも、国連軍ならぬ同盟軍なら確実に来てくれる、というわけでもないのですが)

集団的自衛権の誕生

 こうしてラテンアメリカ諸国の運動により、「武力行使の禁止」が合意された後にも、同盟という古典的な政策を存続させるため、集団的自衛権というアイデアが発明されました。同盟国のための武力行使は、国連憲章の禁止の対象外である、なぜならそれは自衛の範囲だから、というわけです。

集団的自衛権の功罪

 集団的自衛権の誕生と同盟の存続は、世界の平和に一役勝ったのでしょうか。それとも戦争の無い世界を遠ざけたのでしょうか。どちらの答えもイエスです。

 集団的自衛権が固有の権利として認められたことで、それを根拠として多くの同盟や集団防衛条約が結ばれました。中でも最大規模を極めた2つが北大西洋条約(49年)とワルシャワ条約(55年)です。この2つの条約はいずれも集団的自衛権を根拠として条文に記しています。

 両条約にもとづく同盟軍、NATO軍とワルシャワ条約機構(WTO/WP)軍が、ヨーロッパで睨み合っていたのが冷戦時代です。もし両陣営のいずれかの国の間で戦争がおき、エスカレートすれば、第三次世界大戦が起こるはずでした。同盟の存続は、大規模な軍事的対立も存続させたのです。

 「これは侵略ではなく集団的自衛権の発動だ」と、武力行使を正当化する例も多くみられました。ソ連によるハンガリー動乱、チェコ動乱への介入やアフガニスタン侵攻。米国によるニカラグアへの介入やベトナム戦争。そのほかリビアによるチャドへの武力行使などです。

 このような危険な世界において、各国は軍事同盟によって大戦争に巻き込まれる恐怖を持ちながら、軍事同盟によって戦争が抑止される希望のゆえに、同盟に身を委ねざるを得ませんでした。

  集団的自衛権を認めることで、世界の危険は温存されました。危険な世界で身を守るには、集団的自衛権が必要でした。これは抜けられない循環です。

21世紀、人類は進歩せず、世界はまだ危険

 集団的自衛権を廃止、つまりあらゆる軍事同盟を解消して、かわりに集団安全保障で世界を平和にすることは、まだできていません。抑止力が機能しない地域では、拒否権を持つ大国やその友邦国が隣国を侵略できます。

 2014年、ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵入しました。クリミアを実質的に占領した状態で、住民の投票を行い、ウクライナからクリミアを奪い取りました。かつてヒトラーのドイツ軍も、「オーストリア政府の要請だ」といって同国に侵入し、オーストリアを併合したのと似ています。

 世界は現在も、安全ではありません。武力に裏打ちされた、機能する同盟関係がなければ、国際の平和は保ち難いのです。しかしその一方、集団的自衛権が侵略の口実になったり、同盟関係こそが戦争を拡大させることも起り得ます。

 どの道にもリスクはあり、ゼロにはできないのです。

戦争克服への道

 100パーセントの答えは無いということ、そこから始めなければなりません。

 平和を愛して軍事力を忌避する人々は、第二次世界大戦を起こすでしょう。抑止を重視して軍事力に依存する人々は、第一次世界大戦を起こすでしょう。 

 「ダレス・バック」の名前の元になったことでも知られるジョン・フォスター・ダレスは、サンフランシスコ会議の後、国連憲章の批准をめぐり、上院の公聴会をこう締めくくりました。

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世界は、無政府状態からよく練り上げられた政治的秩序状態へと、一歩だけでは移ることはできない。

何歩も、それもふらつきながら進まねばならないのだ。これまでにもあったように、歩みを誤ることもあるだろう。(中略)

永遠平和というものは、おそらく試行錯誤のみによってしか得られないものなのかもしれない。しかし、ともかくも試行せぬことには、決して得られることもないのだ。

 (ジョン・フォスター・ダレス 1945年 上院外交委員会)

ダレスはアメリカを国連憲章に批准させ、国連の時代を導きました。一方で冷戦時には日米安全保障条約などの軍事同盟の構築に尽力しました。

 過去の失敗を繰り返すのは愚かなことです。だからといって、不確実な未来に飛びつくのも軽率だと、やはり過去の失敗が教えています。だとすれば、とりあえず、その中間に道を拓いていくしかないでしょう。

 過去を反省し、未来に夢を見ず、現在の複雑さに耐えて、一歩一歩進むことです。それがいつの日か戦争の克服を見るための、人類の長い旅なのです。

この記事への反響

オリンピックと侵略とーウクライナ危機にみる世界の仕組み

ソチ・オリンピックにおいて、バイアスロン女子リレーでワリ・セメレンコ選手らのチームが金メダルに輝きました。だけど、彼女たちの国のオリンピック委員会の会長のコメントは「今は祝杯を挙げるようなときではない。」 彼らの国、ウクライナは動乱の渦中にあり、多くの犠牲者が出たばかりだったからです。さらには今、ウクライナという国家は分裂の危機にあります。 ウクライナのクリミア半島にロシア軍と思われる兵士が現れ、民間空港を一時占領するなど、暗躍しています。ウクライナのアワコフ内相は「これは軍事侵攻であり、占領だ。あらゆる国際条約に違反し、主権国家に対する直接的な挑発だ」とロシアを非難しました そこに見えるのは、21世紀になっても変わることのない、国益と暴力の世界です。

古典的な勢力圏を争い

グローバル化が進み、物流やインターネットで世界の市民がつながった今日では、国境や国家の意味が昔にくらべて希薄になりました。にも関わらず、ウクライナをめぐるロシアとEUの対立は、世界がいまだに根っこの部分では変わっていないことを思い出させます。いまだに国際社会の主要なプレイヤーは国家であり、その利益を最終的に擁護するものは軍事力だということを。 ロシアの意図について、軍事アナリスト小泉悠氏は端的にこう書かれています。

ウクライナの帰趨はロシアにとって死活的とも言える重要性を有する。クリミアの戦略的価値に限らず、人種的にも宗教的にもロシアに近く(というよりもウクライナこそがルーシの源流と考えられる)、政治・経済的にも重要なパートナー(たとえばウクライナは欧州向け天然ガスの通過国のひとつであり、工業面でも協力が盛ん)であるウクライナが自国の影響圏を離脱してしまう事態はなんとしても避けたい。(引用元

経済発展のためEUに入ろうとしたウクライナを、ロシア寄りの国として維持することはロシアにとって死活的な国益(vital interest)です。大国がある国を自国の勢力圏にとどめるため、経済力や軍事力を駆使する。古典的な勢力圏争いの構図です。 争いの焦点は、新政権が立ったウクライナの首都キエフから、南端のクリミア半島に移りつつあります。

クリミア半島の軍事的な重要性

f:id:zyesuta:20140813171038j:plain(ノボスチ紙より引用)

クリミアは、ウクライナで唯一ロシア系住民が大半を占める地域です。ウクライナの一部とはいえ、その民族性や歴史から自治共和国の地位を保ってきました。親ロシアの前政権が倒れて以降、クリミアは新政権に反発を強めています。また、クリミア半島は軍事的な要地でもあります。

 クリミア半島のセバストポリはロシアの租借地であり、ロシア海軍の黒海艦隊の母港です。この軍港を所有しているからこそ、ロシアは黒海、そして地中海へと艦隊を送り出すことができます。軍事力を送り出すということは、その地域に発言力をもてるということです。

例えば中東のシリア内戦に対してフランスとアメリカが軍事介入を検討したとき。ロシアはすかさず艦隊をシリアの沖合に派遣して、アメリカ艦隊と睨み合いました。シリアの政権は親ロシアなので米仏の軍事介入で政権が交代し、反ロシアになったら困るからです。この際、派遣されたロシア艦隊の主力となったのが、黒海艦隊です。

このようなロシアの強い反対により、アメリカは軍事介入を躊躇。やる気だけはあるが単独介入する軍事力は無いフランスも、アメリカが日和ったことにより断念。結局、シリア介入問題は外交上の手打ちがはかられ、ロシアは外交的に大勝利しました。

ロシアの外交手腕の冴えもさることながら、その背景となったのがセバストポリから展開される軍事力です。同港はロシアがその地域で大国として振る舞うための足場なのです。こんな要地を手放すわけがありません。例え軍事力を使っても。

国籍不詳の軍隊がセバストポリで活動開始

f:id:zyesuta:20140813171205j:plain(BBC)

BBCの報道によると、ウクライナ新政権は「ロシア軍がセバストポリで民間空港を占領した」と言っています。(BBC 2/28)空港を一時占拠していた国籍不詳の武力集団は、その後撤収したようです。他にもウクライナ海軍司令部を包囲した等、セバストポリのロシア軍がクリミア半島の要地をピンポイントに制圧しようとしているような動きが報じられています。

 

ロシアの通信社の報道では、ロシア政府はそれは「うちの軍隊じゃない」と言っています。(引用元:ロシア紙)しかし軍隊が宙から湧いて出ることはありません。装備・規模・規律などがまともな部隊ならば、民族主義の民兵だとは考えがたいところ。治安部隊が民兵に衣替えしたのでもなければ、ロシア軍と見るのが自然でしょう。

 

とはいえロシアとしては、建前上は「軍隊を派遣して一帯を占拠した」とは言えないでしょう。他国領内の空港などを軍隊で一時制圧するなんて、ウクライナの内相が言うように「軍事侵攻であり、占領」としか言いようがありません。(時事通信14/3/1「ウクライナ「ロシア軍事侵攻」非難」

 

ロシアはそれ以外にも、ウクライナに近い軍管区で大規模な演習を開始しています。演習中の軍隊は、実弾さえ持たせてやれば、早期に実戦に投入できます。演習場に向かうところ、進路をクリミアに変えればいいのです。もしウクライナ新政権がクリミアの分離主義を弾圧するなら、ロシアはクリミアの人々を「ロシア人」に認定し、「迫害された人々の人権を守れ」と人道的介入の名目で大軍を送り込める、ということです。

 

「我が国は軍事力を行使してでも、ウクライナを、セバストポリを手放さない。手を出してきたら、どうなるか分かってんだろうな?」という姿勢を、実力で雄弁に示しています。

21世紀、世界はまだ国益と軍事力で動いている

オリンピックが行われ、来月7日にはパラリンピックが開催されるソチ。軍事力を用いた国益の擁護、ダイレクトにいえば侵略行為が行われているセバストポリ。2つの都市の距離は700kmほど。東京ー岡山間くらいです。日常と動乱、平和と侵略の距離は、意外なほど近いようです。

 

国際政治学におけるリアリズム学派の巨人モーゲンソーは「政治的リアリズムが国際政治という風景を通って行く場合に、道案内の助けとなるおもな道標は、力によって定義される利益の概念である」と述べています。「国益を力によって守る」というのは国家の最も基本的な行動パターンであり、帝国主義全盛の19世紀も、グローバル化の21世紀も、基本的には変わりません。

 

ただ、昔は露骨にやっていたのを、今は表面上をとりつくろってやるだけです。それはそれで偉大な進歩とはいえ、いっこうに戦争はなくならないし、国家は武力を用いて自国の利益をはかることを止めません。

 

なぜなら、武力の行使にかわる解決手段がこの世に出現していないからです。 ハンナ・アーレントが書いているように「今日まで戦争が残っている主な理由は人類の内心の死への志向でもなく、抑制しがたい攻撃本能でもなく、……ただただ国家間の最終裁決者として戦争の代わりになるものが未だに政治の舞台に現れないという事実」(暴力について 1973 p95)によります。

 

だから名目を取り繕いつつ、帝国主義の時代のように、国益を守るために時として軍事力が使われます。 21世紀になっても、世界は国益と軍事力で動いています。

 

ふだんは平和色のカーペットが表面を覆っているから、誰も意識しないけれど。ひとたび動乱の嵐が来れば、布切れは簡単に吹き飛んで、利益をめぐる暴力の地表が表れます。この世界が本来どういう場所であるか、たまには思い出す必要があるのでしょう。

なぜなら嵐は、遠くで吹くとは限らないのですから。

北東アジアの2つの爆弾

 北東アジア・太平洋地域には、武力紛争の恐れが大きい場所が2つあります。今回はこれらと日本の関連についてです。

 1つは朝鮮半島。北朝鮮と韓国との紛争です。昨年2010年の3月には韓国軍の哨戒軍「天安」が北朝鮮によって撃沈され、12月には延坪島への砲撃事件がありました。戦争は歴史の中だけの出来事ではなく、いまもって現実の脅威であることが、砲火によって明らかになったといえるでしょう。

 もう1つが台湾海峡。中国と台湾との紛争です。こちらは朝鮮半島とは対照的に、今は小康状態にあります。しかし戦争の脅威がなくなったわけではありません。中国軍は台湾に侵攻する能力を高めています。また台湾側は中国と友好関係をとりもちつつも、万一に備えて中国本土まで届く新しい巡航ミサイル「雄風2E」の製造に入りました(WSJ 2010/12/10)。

 朝鮮半島と台湾海峡で、それぞれ韓国と台湾の側に立って介入する能力をもち、それによって戦争を抑止しているのがアメリカです。昨年の普天間問題で注目された沖縄の海兵隊も、この文脈で存在します。参議院の外交防衛委員会の議事録によれば、こうです。

(在沖海兵隊)三一MEUの想定される任務は、朝鮮半島危機、台湾海峡への抑止と初動対応……などが考えられるわけであります。

……ロードマップが作成される過程での在日米軍再編協議では、三一MEUを本土や国外に移設したケースなど、いろんなシミュレーションがなされておりました。そこで出てきた最大のかぎは、三一MEUが紛争地域まで展開する際の所要時間でありました。


三一MEUは、沖縄から台湾、朝鮮海峡へは一日で展開できます。ところが、日本本土の富士へ例えば移動した場合には、朝鮮半島には二日、台湾には三日掛かります。……朝鮮半島有事や台湾海峡有事の際の邦人救出作戦、他国の軍隊が宮古、石垣、尖閣などの先島諸島に上陸を試みようとする場合には、一日、二日の遅れが致命傷となるわけであります。


したがいまして、三一MEUが県外移転された場合抑止効果は著しく低下することになるため、三一MEUは日本の抑止力維持のために沖縄に駐留する必要があるわけであります。

参議院会議録情報 第171回国会 外交防衛委員会 第11号

 朝鮮半島と台湾海峡の2つの爆弾をめぐり、もしも戦争になった時のために、できれば自国に都合の良い形で戦争を抑止するために、関係各国は備えています。わけても半島と海峡の両方に介入できるアメリカは、地域の安定に大きな役割を果たしています。

参考:
WSJ 2010/12/10 台湾、中国本土到達の巡航ミサイル大量製造開始)
台湾が長距離ミサイルで北京を狙う理由 〜台湾の防衛戦略
普天間移設、および軍事は政治の道具だということの意味
普天間および在沖米軍について韓国紙の論評

日本との関係・・・”隣家の火事”

 そのアメリカに拠点を提供し、協力することで周辺の戦争を未然に防ごうと意図しているのが日本です。朝鮮半島や台湾海峡は日本にとって眼と鼻の先です。ここで戦争があっては無関係な「対岸の火事」ではすまず、例えて言えば「隣家の火事」です。隣の家で火事があっては、他人のことだからと眺めてはいられません。砲撃事件くらいのボヤならまだしも、本格的に燃え上がれば、必ずや隣まで火の粉が飛んできて、我が家へ延焼をおこします。

○朝鮮半島有事

 朝鮮半島で戦争が勃発すれば、韓国の「後方」にあたる日本は無関係ではいられません。前回の朝鮮戦争のとき、韓国に攻め込んだ北朝鮮は、首都ソウルを瞬く間に占領し、いま一歩のところで韓国全土を攻め取るところでした。それが勝利を逃したのは、アメリカを中心とする16カ国からなる国連軍が韓国を支えたためです。その国連軍の展開拠点となり、物資の供給にも資して、韓国を支えた17番目の国が日本です。日本は密かに掃海部隊も送り、国連軍の側に立って朝鮮戦争に関与しています。

 そこで2回目の朝鮮戦争があるとして、今度こそ日本が後方として有効に機能しないよう、マヒさせたいと北朝鮮が考えるのは自然というものです。そのため特殊部隊の一部や工作員、あるいは弾道ミサイルによって、混乱発生目当てでの攻撃が考えられるでしょう。また、その戦後にも北朝鮮の治安回復や復興支援、そして難民の流入などで日本が大迷惑を被るでしょう。

○台湾海峡有事

 中台間で戦争が勃発すれば、台湾海峡とバシー海峡の航行の安全が脅かされます。両海峡に大きく依存する日本経済にとって大きな打撃です。それに加え、台湾戦争のその勝敗を分ける「天王山」は日本の領土領海かもしれません。

 96年の「台湾海峡ミサイル危機」のとき、中国は武力で台湾を脅迫しました。しかしアメリカが空母を急派したことで封じ込まれました。

 そこで現在の中国軍が狙っているといわれるのが「接近阻止・領域拒否(A2AD)」戦略です。アメリカ軍が台湾付近に到着してしまえば、中国軍では勝利が困難です。よって台湾よりも遠くで足止めをしてやればいい、という狙いだとみられています。(下図イメージ)

イメージ(CSBA)


 そのとき、中国からみると日本は非常にタチの悪い位置に存在します。中国からみると、日本と韓国の米軍基地によって半ば包囲されている形です。

(同)

 かつまた、中国の艦隊がアメリカ軍を阻止するために外洋に出ようとしたとき、日本の南西諸島をスキ間を通りぬけねばなりません。もしも日本が(通称)宮古海峡の封鎖などで中国艦隊の進出を妨害したならば、中国にとってはやっかいなことです。逆に中国側が日本の八重島諸島などを一時的にでも占領して飛行場を押さえでもすれば、台湾の側面から脅威を加えられるかもしれません。

 さらには敵の情報入手を邪魔するという観点からも、日本の南西諸島は重要になります。ランド研究所のレポート「竜の巣に入る(Entering the Dragon's Lair)」では、中国の接近拒否戦略のかなめの一つが、敵の情報や連絡を寸断することにあると指摘しています。また、航空優勢をえる最良の方法は、敵の空軍基地を叩くことだという中国側の認識を紹介しています。そのためミサイルの他、特殊部隊や工作員による襲撃をおこなう可能性があると論じています。台湾海峡有事において重要になる軍民の滑走路、自衛隊のレーダーサイトや通信基地が点在しているのは、鹿児島県から沖縄県にかけての島々です。

中台紛争の勝敗を決するだろう接近阻止戦略、その舞台となる空間に、日本の南西諸島が横たわっています。

晴れた日に傘を作るということ

 こういったわけで、日本は朝鮮半島、台湾海峡の2つの有事について、いずれも無関係ではいられません。それには色々な理由がありますが、わけても最大のものは日本列島の位置です。これは変えようがないことです。

 そこで日本としては、世界の平和はもちろんながら、まずは我が身の安泰のためにもそういった隣家の火事(周辺事態)を抑止したい。しかし日本自身が他国に武力介入することは制約があって不可能です。そこで主にはアメリカにやらせて、拠点の提供や後方支援でそれを後押しする形をとっています。

 この日本の方向性が定まったのは90年代の日米安全保障共同宣言と、周辺事態法の制定です。それらの動きは、北朝鮮核危機と、台湾海峡ミサイル危機という2つの事件を踏まえています。90年代に朝鮮半島と台湾海峡の両方で戦争が起こりかけた結果、日本がそれらの戦争を無視できないこと、ならば防ぐ方に加担する他ないことが明らかになったのでした。

 2011年現在、2つの爆弾のうち、朝鮮半島は不穏ながら、少なくとも台湾海峡の方は落ち着いています。朝鮮半島情勢は引き続き予断を許しませんが、今すぐに中国と台湾が紛争に陥ることは考えがたいでしょう。

 ですが今日は晴れている空も、明日には雨を降らせることがあります。2010年の朝鮮半島は、北朝鮮の軍事攻撃によって韓国の軍民に死者がでる事態となりました。ですがその10年前、2000年ごろには南北首脳会談があって、これからは南北の平和友好が実現できるかと思われたものです。

 いま平和だからといって、5年先、10年先もそうだとは限らないのです。そして軍事力の整備は20年、30年といった期間がかかります。すれば、今が平和でも関係各国が備えに怠りないのは、むしろ当然というべきでしょう。それが晴れた日に傘を作るということであり、安全保障の努力だからです。

記事中で紹介したレポート

Entering the Dragon's Lair: Chinese Antiaccess Strategies and Their Implications For the United States
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経済で戦争は防げるか――『The Costs of Conflict』

The Costs Of Conflict: The Impact On China Of A Future War

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 本書、「紛争の代価(THE COSTS OF CONFLICT)」は、台湾有事について主にコストの側面から分析した論文集です。戦争のコスト、つまり貿易の一時途絶や、国際社会からの孤立といった代価を払ってでも、中国は台湾侵攻に踏み切るのでしょうか? それとも、経済的な相互依存が著しく進んだ今日、台湾有事が起こりうるなど時代遅れの幻想に過ぎないのでしょうか。

 本書の結論は明快です。

中国は台湾に武力を行使しないだろうと広く信じられている。……その見方の一つは「中国は経済的に失うものが多すぎて、台湾をめぐる戦争のリスクを冒せない」という前提に基づいている。


……クエスチョンは「中国はどんな経済的帰結を招こうがお構いなしに、一定の条件下では台湾に武力を行使するか?」である。フリードマンによれば、答えは「間違いなく、行使する」だ。本書の筆者たちを含め、多くの専門家たちがこの判断に同意するだろう。


……国家安全保障上の重要目標である台湾の統一を、もし必要とあらば軍事力で達成する、という中国の主張を「単なる大風呂敷に過ぎない」と却下するのは、極めつきに愚かなことだろう。


A widely held belief is that China will not use force against Taiwan....The basis for the former proposition is the assumption that China has too much to lose economically to risk a conflict over Taiwan....Indeed, the follow up question is:“Would China under certain circumstances use military force against Taiwan no matter what the economic consequences?” The answer, according to Friedman, is“absolutely.” Many analysts, including the contributors to this volume, would concur with this judgment....Thus, it would be extremely unwise to dismiss China’s insistence that unification with Taiwan is a key national security objective to be achieved by force, if necessary, as merely hot air.

("THE COSTS OF CONFLICT" p1〜3)

 いったい、なぜでしょうか? 台湾に侵攻しても、中国は意外と経済的損失を受けないのでしょうか。それとも、大きな損失を受けるけれど、中国自身はそれに気づいていないのでしょうか。あるいは、恐るべき経済的損失を甘んじて受け入れ、それでもなお台湾を侵略すべき理由が存在するというのでしょうか?

 本書の主要部を順に見ていきましょう。

中国は台湾有事のコストをどう認識しているか?

 台湾に侵攻した場合、どのような損失を受けると中国は認識しているのでしょうか? 長年中国の安全保障問題を研究しているFinkelsteinは、本書の第2章「CHINESE PERCEPTIONS OF THE COSTS OF A CONFLICT(紛争の代価についての中国の認識)」において、こう論じています。

 確からしいのは、中国の指導者たちが台湾有事について、こう判断していることです。


台湾との戦争は、アメリカとの武力紛争を意味する(p13)


 中国が台湾に攻め込めば、アメリカが台湾を助けるため軍隊を送って来るだろう――と、中国は判断している。それは確実だ、とFinkelsteinは説きます。

  台湾、正式には中華民国は、かつてアメリカの同盟国であり、断交後の現在も事実上の同盟関係にあります。ゆえに、台湾有事の際にアメリカは実際に台湾を救援すべく軍を送って来るだろう、と中国は読んでいるわけです。中国現代国際関係研究所の主任分析官だったYan Xuetongは、こう分析しています。

もし台湾海峡で危機が起これば、アメリカが軍事的に関与してくることは確実だ。……関与してこない可能性は、存在しない。問題は、それがどの程度の関与かということのみである。

if a crisis breaks out in the Taiwan Strait, it is certain that the United States will become militarily involved. ...the possibility of them not getting involved does not exist; the only question is the degree of involvement.
(同書p15)


 台湾侵攻がアメリカとの戦争を自動的に引き起こすことになるとすれば、中国にとって軍事的にかなりの損失を覚悟せねばならないし、勝利はかなり困難でしょう。もし中国が勝利できるとすれば迅速に台湾を占領し、アメリカに介入を諦めさせることです。しかし、仮にそうできたとしても、国際的な孤立は免れないでしょう。

 台湾侵攻は経済的にも中国に大ダメージを与えるし、当の中国もそれをよく自覚している、といいます。戦争が長期にわたれば、沿岸の豊かな都市が攻撃を受けるし、外国からの援助や投資、貿易に大ダメージを与えるでしょう。こういった経済的な損失が甚大なことは火を見るより明らかで、もちろん中国もそれをよく認識しています。

 そういったコスト認識は中国が台湾侵攻を決意するハードルを上げている、とFinkelstein他の著者たちは書いています。まあ、そりゃあそうです。

 それにも関わらず、なぜ本書「紛争の代価(THE COSTS OF CONFLICT)」の論者たちは、中国がある条件下では間違いなく台湾に侵攻する、と分析しているのでしょう? 経済的に大きな損失を甘受し、さらにはアメリカとの戦争をも覚悟して、それでもなお、ある条件下で中国が台湾に攻め込むというのは、何を求めてのことでしょうか。

経済的に大損をしても戦争に打って出る国家は、何を求めているのか

 経済的に大損することを覚悟で戦争に打って出た国といえば、他ならぬ日本もその一つです

1940年(昭和15年)当時の貿易統計によれば、日本は80%の燃料物資、90%以上のガソリン、66%の工作機械類、75%のくず鉄をアメリカから輸入していました。さらに、石油の年間消費量は約448万キロ・リットルでしたが、その輸入量の78%はアメリカに依存していました。


……産業必需物資の7割もの輸入を依存する相手に対し、日本の方から戦争を仕掛ければ、輸入が止まり、たちまち原材料や石油エネルギーが不足して国内産業は行き詰まり、継戦能力を失うことは明白です。もしここで、本当に経済相互依存が戦争を抑止しえるのなら、対中戦争を中止してアメリカとの関係正常化を模索するはずですが、日本は対米戦争に踏み切りました。

経済相互依存を根拠に中国脅威論を否定する愚 - 海国防衛ジャーナル

 上記の引用元では他にも複数の例があげられています。なぜ国家は経済的に大損をしても、戦争に踏み切ることがあるのでしょう? 

 お金、経済だけに価値を認めて合理的に行動するなら、戦争をする国家はほとんどいなくなるでしょう。しかし経済、お金だけが価値あるものではないし、国家は営利企業ではありません。人はパンのみに生きるに非ず、国家は経済のみを求めるに非ず、です。

 経済だけでは戦争を無くせない理由をざっくり一言でまとめれば「国家にとって、世の中にはお金よりも大事なものがあるから」です。比喩的に個人の例でいうと、多くの人にとってお金より大事なものは命です。もちろん、命を多少の危険にさらしてでもお金を手に入れたい、という人はいるでしょう。

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 でも、そんな人たちも「命を確実に失うとしても、お金が欲しい」とは考えないでしょう。命を失ってしまえば、いくらお金を持っていても、使えないのだから無意味です。(遺族にお金を遺すため、というのはここでは考えないことにします)個人がお金をもとめて合理的に行動するとしても、生死の境にあって名医ブラックジャックを目の前にしたら「金ならありったけ払うから、命を助けてくれ」と言うのは普通な判断ではないでしょうか。

 国家もまた、経済的に大損をすることが分かっていても、よりも大事なものを守るためなら戦争に打って出ることがあります。経済より大事なものはその国によって様々ですが、最も代表的なものは個人と同じで「生き残り」です。

 「このまま待っていたら自国が崩壊してしまう、あるいは確実に敗北する状況に追い込まれてしまう。しかし、もし今、戦争を始めたならば、勝利して生き残れる可能性はある、というケースです。例えば以前にこのブログの記事でとりあげた第一次世界大戦時のドイツ。いま戦争を開始しないと防衛計画が破綻してしまう、という状態になりました。すれば、確実に負ける状況に追い込まれる前に、いま戦争を始めるしかない――と思われました。太平洋戦争にうってでた日本についても、座して死を待つよりは、むしろ一か八か打って出るべきだ――と判断しました。

戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦 - 【移転済】リアリズムと防衛を学ぶ
 
 そんな時、国家は経済的な損失を甘受しても、生き残りを目指すために戦争に打って出ます。いいかえればお金を失っても命を守ろうとすることがあります。(もっとも、そうやって一か八か開戦した国はだいたいロクな目に遭わないのですが)

 なお生き残り以外にも、時として経済より大事なものは主権、何らかの原則や理念、権力、プライドなど色々あります。また、不合理な判断が行われることもあります。とはいえ、ここでは最も分かりやすいであろう例として、生き残りのために経済的に損をしても開戦するケースをあげました。

台湾無くして中国無し

 本書「紛争の代価」において、ある条件下では、経済的な大損を承知の上で、中国は台湾に侵攻するであろう、と論じられているのも、同じような理屈です。台湾侵攻には、経済的な大損を覚悟してでも手に入れねばならない価値が生じる場合があります。その価値とは中国にとっての「生き残り」、いいかえると「現体制の存続」です。

 著者の一人であるヨッフェは、中国が台湾の独立を認められない背景を、こう論じています。

第一に、そして最も重要なのは、感情的なナショナリズムである。それは台湾統一を中国の主権、国家の名誉、威信を具現するものと位置づけ、統一実現を国際社会において中国が本来の地位を回復するために絶対譲れない条件と見なしている。


The first and most important is an emotional nationalism that posits reunification with Taiwan as the elemental embodiment of China’s sovereignty, national honor, and prestige, and views its achievement as a non-negotiable condition for the restoration of China’s rightful place in the international arena.
「THE COSTS OF CONFLIST」 p115

 軍事的にであれ外交的にであれ、とにかく台湾併合なくして、中国は中国でありえない、というナショナリスティックな認識です。この感覚はちょっと分かりにくいものがあるかもしれませんが、現中国にとって台湾は欠かせないものです。中国はその憲法の序文にまでこう刻んでいます。

台湾は、中華人民共和国の神聖な領土の一部である。祖国統一の大業を完成することは、台湾の同胞を含む、全中国人民の神聖な責務である。
(台湾是中华人民共和国的神〓领土的一部分。完成统一祖国的大业是包括台湾同胞在内的全中国人民的神〓职责。)


中华人民共和国宪

 台湾が中国から分離独立を許した場合、中国はもはや自らが定義する中国ではいられません。もし中国政府が台湾を併合できないことが明らかになれば、共産党はその正当性を保てず、現体制が崩壊する恐れが大です。よって生き残りのため、中国は戦争をしてでも台湾独立を阻止せねばなりません。

 もし成功の見込みがあるのであれば、短期戦で台湾を軍事的に併合するか、あるいはそれが可能であるという脅しでもって外交で併合に持ち込もうとするだろうと考えられます。もし台湾がかつてのチベットのように弱体な軍備しか持たないならば、とうの昔に武力侵攻をうけて併合されているでしょう。

 2005年3月に中国が制定した「反国家分裂法」の第8条は「分離独立勢力が……台湾の中国からの分離という事実を引き起こした場合」などには、北京は「非平和的手段」を行使することが出来る、いいかえると武力侵攻してOK、と規定しています。これによって中国政府は自らを追い込み、国内に対しては正当性を強め、台湾をふくむ国外に対しては「独立するなら戦争だ」という明確なメッセージを発信したといえます。

 

中国が戦争にうってでるレッドライン

 しかし台湾軍の防衛力と、アメリカとの同盟が、そんな中国を抑止してきました。現時点での観測によれば、中国自身も性急に台湾を併合できるとは考えていないとみられています。本書のほか、近年の分析でも同様です。

台湾に対する中国の現在の戦略は、近い将来での解決の追求というより、むしろ台北による法的独立への如何なる動きをも防止することであるように見える。


ペンタゴン報告書:中華人民共和国の軍事力 2009年版
」p9

 しかしそんな現状にあっても、いくつかの条件下では、断固として台湾侵攻に踏み切るでしょう。その条件、中国にとっての「レッドライン」は、以下のように分析されています。

北京は、海峡間の関係が統一こ向かっている限り、また、紛争のコストが利益を上回ると信じている限り、武力の行使を遅らせる用意があるように思われる。……(しかし)人民解放軍の短距離弾道ミサイルの展開、高度の水陸両用戦闘能力、台湾をにらんだ近代的で先進的な長距離対空システムの配備は、北京が武力の行使を放棄する気はないことを物語っている。


武力を行使すると大陸中国が歴史的に警告してきた……「レッド・ライン」には次のものが含まれる。


・台湾独立の公式宣言
・台湾独立へ向けての定義されていない動き
・台湾内部の動揺
・台湾の核兵器取得
・統一に関する海峡間対話再開の際限のない遅延
・台湾の内政問題への外国の介入
・外国軍隊の台湾駐留


ペンタゴン報告書:中華人民共和国の軍事力 2009年版
」p47-49

 上に挙げられたような事態、わけても台湾の独立宣言や外国軍(アメリカ軍)の駐留、核武装などが発生すれば、中国はあらゆる犠牲を覚悟して台湾に侵攻するでしょう。経済的に大打撃を受けようが、アメリカと戦うことになろうが、やむをえません。なぜならば、そういった事態を看過したら、将来の台湾併合が不可能になってしまい、すなわち現体制の崩壊につながるからです。また、その覚悟を示すことによって、独立への行動を抑止することが、中国の狙いだ、とも言えるでしょう。

まとめ

 本書「THE COSTS OF THE CONFLICT」で述べられているように、中国は台湾に侵攻すれば経済的なコストが多大な損害をうけます。アメリカと戦争になるであろう、ということも中国は認識しています。

 しかし中国にとって台湾の独立は自国の死につながるため、絶対に看過できません。よって、これまでの歴史上の国家がそうしたように、経済的損失も軍事的劣勢も看過して、生き残りのために戦争に賭けることは十分に考えられます。お金よりも命、経済より生き残りの方が大事だからです。

 また、もし台湾の防備が弱体であれば武力併合するか、その可能性をカードとして外交併合に持ち込もうとするでしょう。よって台湾とアメリカは、中国から台湾を守る軍事力を持ち、台湾侵攻を抑止してきました。そのため中国自身、すぐに台湾を併合できるとは考えていません。いつかは併合するため、とりあえず今は台湾の法的独立を抑止することを狙っています。そのためにも、台湾が独立に向けて性急に動いたときに武力侵攻する軍事力を持っています。そしていつかの日のため、さらに増強しているのです。

 中国とて決して戦争を望んでいるわけではありません。しかし、いざその時には、含むとてつもない「紛争の代価」を支払い、戦争に打って出るでしょう。なんとなれば、経済的な損失よりも生き残りの方が大事であるし、生き残るために必要なら戦争をためらわないことこそが、戦争をせずに目的を達する法だからです。

お勧め文献

The Costs Of Conflict: The Impact On China Of A Future War

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原著

中国が戦争を始める―その代価をめぐって

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タイトルがえらく扇情的になっているのが気になりますが、こちらが邦訳です。こういう売り方をするから日本の対中脅威論はうさんくさく見られるのですが、商業的には仕方がないのかもしれません。

戦争の経済学
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戦争が経済的にペイすることなんて無いよ、ということを細かく論じたのがこちらで、これも面白い本です。

インフラとしての安全保障

 大和総研のウェブサイトに安全保障について述べたコラムがありました。企業の経済活動と、国家や軍事力による安全保障との関わりについて、大和総研の中里氏が書いたものです。

安全保障はもっとも基本的なインフラ

 経済活動の土台には安全保障が欠かせないが、それはあまり意識されない、と中里氏は論じています。

安全保障を含む広義のインフラは大前提として、経済学的な考察の対象外とされることがしばしば起こるが、現実の経済活動では様々な影響を及ぼす。


……安定した秩序が構築され、治安が良好であるからこそ、正常な経済活動が営まれる。このことは、世界の紛争地域では中長期の経済プロジェクトが頓挫してしまうことからも明らかであろう。


……少なくとも独立を維持できるだけの安全保障体制は構築しておくべきであり、自由で活発な経済活動もそうした安全保障というインフラの上に成立するものである。……安全保障という視座をおろそかにしてしまえば、経済発展についても先行きを見通せない。

経済における安全保障の視座 | コラム | 大和総研グループ | 中里 幸聖

 ここに述べられているように、当たり前のように行われている経済活動は、実は安全保障がうまくいって初めて成り立っているものです。経済活動には発電所や道路といった目に見えるインフラだけでなく、安全保証という目に見えないインフラも欠かせないものです。

軍隊ほど儲からないものはない。しかし…

 大昔のギリシャ人は、あるコトワザを残しています。「軍隊ほど儲からないものはない。しかし、軍隊がなければもっと儲からない」というのです。ギリシャ人たちは盛んに貿易をしたり、民主主義の発展させたりと繁栄しました。しかし巨大なペルシャ帝国が出現するとその繁栄は軍事的圧力によって度々脅かされました。無事に商売をし、自由に生きるために安全保障努力が必要なのは、紀元前の昔から現代まで変わらない事情です。
  
 なぜ安全保障にコストをかけないと平和が保てないかと言えば、この世界と人間に幾つかの根本的な欠陥があるためなのですが、これについてはまた別の記事の話題に致します。

 ともあれ、古代から現在まで「水と安全はタダではない」という事情は変わっていません。自由に生きること、思うように商売ができることは当たり前のように思えて、実はコストがかかっているのです。

「安全保障は酸素のようなもの」

 しかし私たちは普段そんなことはあまり考えません。安全は保たれているのが当たり前、という感覚になるからです。国土は平和なのが当たり前、輸出入は妨害されないのが当たり前。あまりにも基本的なところで、必要不可欠なものだから、かえって有り難味が湧かないのです。

 高名な国際政治学者のジョセフ・ナイは「安全保障は酸素のようなもの」だと述べています。もし酸素が無かったら人は生きていけません。しかし日常生活の中で「ああ、今日も酸素がある。ありがたいなあ」などと思っている人はいないでしょう。必要不可欠な酸素は、しかしあって当然のものだと思われているからです。

 人が酸素のありがたみを感じるのは、宇宙飛行士でなければ、海やプールで溺れかかって息苦しい思いした時ぐらいのもの。欠乏して初めて、それがいかに重要なものか気づきます。

 国際社会の安全保障も似たところがあります。生存や経済活動に欠かせないものですが、かえってそうであればこそ、あって当たり前だと思いがちです。

 しかしごく近年に起こったいくつかの出来事を見ても、平和と安全が決してあって当たり前のものではないと気づかされます。例えば2年前8月には南オセチア戦争があり、昨年春には北朝鮮による弾道ミサイル発射と核実験があり、今年の韓国哨戒艦の撃沈事件が起こりました。

 こういった出来事から察せられるように、世界的にみればもちろん、日本近辺においても、平和と安全は決して無条件にあるものではなく、維持に安定させる努力を必要としています。

お薦め文献

安全保障とは何か―脱・幻想の危機管理論 (平凡社新書 (004))
書評記事

続・のび太がジャイアンを抑止するには? 抑止の発展

 これは「抑止」ってそもそも何なのかを解説するシリーズの第3弾です。戦争が起こることを未然に防ぐため、世界の国々は「抑止」を行っています。抑止とは外国に「戦争を思いとどまらせる」営みです。

これまでのまとめ

 ある国が他国に戦争を仕掛けるのは、戦争によって得られる利益(経済的な利益とは限らない)が、戦争に必要なコスト(金銭のほか人命や評判など色々)よりも大きいと期待できるときです。つまり「勝てる。勝ったら得になる」と判断したときです。これについては第1話の「抑止って何だ?」で触れました。

 そこで戦争を思いとどまらせるには、戦争の利益よりもコストの方を大きくしてやることです。相手が攻めてきたら逆に反撃したり、抵抗したりできるように防衛力を整備します。そして相手に「これでは戦争をやっても勝てないか、もし勝てたとしても目的を達成できないか、目的を果たせたとしても損害の方が大きい。やるだけ損だな。やめよう」と判断させます。防衛力を備えることで相手を思いとどまらせるのです。

 これを「ドラえもん」の”のび太”がジャイアンという外国を抑止するという例で説明したのが、第2回の記事でした。ここでは抑止が3種類(懲罰、拒否、報償)にわけられることを述べました。これらの複合が「抑止」として行われています。

 今回は、前回とは別の観点から抑止の種類をみてみましょう。基本的抑止、拡大抑止、相互抑止の3つです。図にすると以下のようになります。

1つずつ見ていきましょう。

基本的抑止(Basic Deterrence) :のび太⇒ジャイアン

 前回は「のび太がジャイアンを抑止する」という1対1、かつ一方通行の関係を考えました。これを「基本的抑止」といいます。これが抑止のもっとも基本的な形です。

 「ジャイアンがのび太を抑止する」のならば基本的抑止が簡単に成立するでしょう。ジャイアンのパワーが圧倒的に強大であり、のび太はなかなか勝ち目がありません。のび太が何らかの理由(奪われたマンガを取り返したい、とか)のために「ジャイアンにケンカを仕掛けよう」と考えたとしても、思いとどまるでしょう。「でもジャイアンは強いし、殴り返されたら痛いし、負けちゃうからマンガはどうせ取り返せないだろうし、ケンカをしかけるだけムダだよ」と判断するからです。

 しかしながら、すべての国がこれを成立させられるわけではありません。弱小国であるのび太国の側が、強大なジャイアン国を抑止してわが身を守ろうとするには、並々ならぬ努力が必要です。

拡大抑止(Extended Deterrence) :のび太+ドラえもん⇒ジャイアン

 そこで、単独で大国に立ち向かうのではなくて、第三国の力を借りる、という選択肢がでてきます。そうです。ドラえもんの登場です。のび太国は第三国であるドラえもん国と同盟を結びます。同盟とは要するに「もし戦争になったら一緒に戦おう」という約束です。ジャイアンがケンカを仕掛けてきたとしたら、ドラえもんがひみつ道具を使って一緒に戦ってくれるようになります。

 これをジャイアンの側から見てみましょう。のび太一国ならば弱いので、ケンカをしかけてマンガを取り上げる、ということも簡単かもしれません。しかし「でも、のび太にはドラえもんがいるからな。ドラえもんが手助けしたら、やっかいなことになるかも…」と考えて慎重になります。「のび太・ドラえもん同盟軍」の合力をもってすれば、ジャイアンに対しても前回で説明した懲罰的抑止、または拒否的抑止が成立するかもしれません。

 このように外国と同盟して、外国の抑止力を借りて抑止することを「拡大抑止」といいます。ドラえもん国の抑止力は本来ドラえもん自身を守るものですが、同盟によってその有効範囲が拡大して、のび太をも守ってくれるのです。のび太・ドラえもん同盟の場合は”二国間同盟”ですけれど、実際の国際関係ではもっと多くの国が集まって”多国間同盟”を組む場合もあります。のび太、スネオやその他町内の男の子たちが大スクラムを組んで、ジャイアンに対抗する、というようなパターンです。

拡大抑止が失敗するとき

 拡大抑止の実効性について少し補足しておきます。

 マンガ「ドラえもん」において、未来からやってきたドラえもんは野比家に居候しています。のび太の部屋の押入れで寝起きしています。

 拡大抑止が成功するには、必要なことが2つあります。信頼性と即応性です。信頼性とは「のび太が殴られたら、ドラえもんは我が身の危険を顧みずに、必ず立ち上がる」という保障のことです。即応性とは「ドラえもんはのび太がやられる前に駆けつけてくれる」ということです。

 このどちらが欠けても、拡大抑止は失敗します。信頼がないと「ドラえもんはのび太を見捨てるだろう」と疑われます。即応性がないと「ドラえもんが来る前に急いでのび太をボコボコにすればいい」と思われてしまうからです。

なぜドラえもんはのび太の押入れに住んでいるのか?

 この観点からみると、ドラえもんがのび太と同居しているのは非常に合理的です。

 一緒に住む、というのは極めて強い信頼性のあかしになります。一緒に住むことによって連絡が密接になるし、どれだけ仲が良いかという証明です。何より重要なことは、ジャイアンがのび太の部屋(領土)にまで踏み込んだなら、自動的にドラえもんも危険にさらされる、ということです。したがってドラえもんは我が身を守るため、のび太とともにジャイアンに対抗せざるを得なくなるのです。

 また、同居していれば、ジャイアンがのび太の部屋(領土)に踏み込んだとき、そこには既にドラえもんが存在しているのですから、確実に間に合います。即応性も保障されるわけです。

 のび太は外に出歩いて動き回りますから、ドラえもんの助けが間に合わないことはよくあります。だから例としては不適切です。しかし国の場合、領土が空を飛んで動くということはありません。だから領土内に同盟軍を駐留させておけば、その国に敵が攻めてきたときは即座に、確実に、同盟軍と力を合わせて立ち向かうことができます。

 実際の国際関係でいえば、例えば在韓国アメリカ軍です。韓国はアメリカと同盟して、北朝鮮を抑止しています。北朝鮮が攻めてきたとき、アメリカ軍が韓国内に駐留していれば、アメリカの兵士の身が危険にさらされます。アメリカは自国の兵士を守るためにも、参戦せざるを得ないでしょう。アメリカからすれば、敢えて自国の兵士を韓国におき、韓国人と同じ危険に晒すことで、同盟の信頼性をアップさせ、即応性を持たせている、といえます。(日米同盟の場合はもう少し複雑です)

 よって在韓米軍はアメリカが韓国に与えている「自発的人質(ボランティア・ホステージ:volunteer hostage)」と呼ばれています。のび太の押入れに住んでいる「在のび太家ドラえもん軍」のように、同盟国と寝食をともにすることで、同盟の信頼性を確かにし、拡大抑止を機能させているのです。

相互抑止(Mutual Deterrence):のび太⇔ジャイアン

 これまでは「のび太がジャイアンを抑止する」という一方通行の関係で見てきました。これまで見てきた「基本的抑止」や「拡大抑止」によって、のび太がジャイアンに対抗できるようになったとします。するとジャイアンは、のび太の持つマンガを欲しいと思っても、腕ずくで奪うことは思い止まるかもしれません。これが抑止に成功した状態です。

 ところが、このときジャイアンから見れば、逆にのび太の方が脅威になっている可能性があります。ひみつ道具で強くなったのび太は、たいてい好き放題をやらかします。逆にジャイアンにケンカをしかけて、マンガを奪ったりする恐れがあります。そこで今度はジャイアンの方が、のび太を抑止しなければなりません。自分を鍛えるとか仲間を増やすとかしてのび太に対抗し、抑止を成立させようとします。

 このように互いを抑止しあうこと「相互抑止」といいます。これが両者とも上手くいくと、のび太がジャイアンを抑止し、ジャイアンがのび太を抑止している状態になります。将棋でいえば「千日手」で、どちらも身動きがとれません。

 この状態になると互いに戦争を避けようとするので、うまくすれば「仕方がない、話し合いでお互いに妥協して済ませるか」という平和的方向にいき易くなります。軍事的に優位に立った方が横暴になったり、侵略戦争をやったりする、ということを防げるのです。その反面、お互いに武器を突きつけあっているわけですから、対立と不信が絶えません。

抑止の関係とやり方

 今回は「基本的抑止」「拡大抑止」「相互抑止」の3つをみてきました。この3種類と、前回紹介した「懲罰的抑止」「拒否的抑止」「報償的抑止」はどう関係するのでしょうか? 今回の3つは国際関係の中でみて「どういう”関係性”で抑止しているか」をあらわします。前回は抑止を「どういう”やり方”抑止しているか」を説明したものです。

 「のび太がジャイアンを抑止する(のび太⇒ジャイアン)」というのが基本的抑止、つまり1対1の一方通行関係です。しかし一口に基本的抑止といっても、そのやり方は色々です。のび太が強くなってジャイアンに反撃する力を持つことで抑止する懲罰的抑止かもしれないし、あるいはケンカをしない代わりに何かをプレゼントする報償的抑止かもしれません。

 このようなわけで抑止を”やり方”で分類したのが前回であり、”関係”で分類したのが今回の3種類だといえましょう。

○前回の3つ

・懲罰的抑止.....もし〜したら、××するぞ!
・拒否的抑止.....もし〜しても、◯◯できないぞ。
・報償的抑止......もし〜することを思いとどまるなら、△△してあげよう

○今回の3つ

・基本的抑止: のび太⇒ジャイアン
・拡大抑止: のび太+ドラえもん⇒ジャイアン
・相互抑止: のび太⇔ジャイアン

同盟相手は本当にドラえもんでいいの??

 ところで今回、拡大抑止のところで「同盟」という関係がでてきました。実際の国際社会でも、国々は力の大小を考えて他国と同盟しています。今回は「のび太がドラえもんと同盟して、ジャイアンに対抗する」という例をあげました。しかしこのとき「のび太がジャイアンと同盟する」という選択肢は無いのでしょうか? 強大なジャイアンに同盟で対抗するのではなくて、むしろジャイアンと同盟して仲間になってしまった方が得をするのではないのでしょうか? 

 ジャイアンは一番強いから、脅威でもあるけれど、味方にすれば頼もしい存在です。だからどちらを選ぶべきでしょうか? 実際の国家も、このように他国の力の大小に着目して、いろいろな行動をとります。その動きの連鎖が国際社会をつくっています。抑止論の話は今回で一区切りとして、次回はこの点をとりあげる予定です。

参考文献


抑止の種類 のび太がジャイアンを「抑止」するには? 

 今回も抑止論について少しずつ書いてまいります。前回の記事では「抑止ってなんだ?」ということを少しだけ解説しました。

抑止とは「相手国が戦争に訴えて得られる満足より、戦争に必要なコストの方が大きい」状態にすることで、戦争を思いとどまらせる行為です。今回はこの抑止について、より具体的に見ていきましょう。抑止にはいくつかのタイプがあり、それぞれ特徴があります。これを踏まえることで、国家がどのように戦争を押さえ込んでいるかがよりクリアになるでしょう。

戦争が起こる3つの理由

 今回は「ドラえもん」世界における、「のび太」国がいかにして「ジャイアン」国を抑止するか、という例えで考えてみたいと思います。マンガ「ドラえもん」において、のび太はジャイアンによくぶん殴られております。ジャイアンがのび太をぶん殴る理由はさまざまです。またあるときは「マンガを奪って自分のものにする」ためであり、またあるときは「のび太に腹が立ったから、腹いせにぶん殴る」というような気分的な理由だったりします。のび太とジャイアンをそれぞれ国家だと考えると、この「ぶん殴る」というのが戦争に相当します。

 戦争が起きる原因は3つしかない、それは「利益」か「恐怖」あるいは「名誉」だ、といったのはトゥキディデスという人です。この人は有名な歴史家で、「戦史」という本を書きました。なんと紀元前400年ごろの古代人です。しかし戦争の原因をシンプルに言い当てたことにかけて、これ以上の説明はいまだに出ていない、といっても過言ではありません。人類というのは、この面ではあんまり進歩していないのかもしれません。

 「ジャイアン」国が「のび太」国に戦争をしかける理由も、この3つのいずれか、または複合です。「マンガを取り上げる」というような”物質的利益”を得るためだったり、または「ぶん殴ってすっきりする」といった”精神的利益”を得るためのこともあります。あるいはジャイアン自慢の歌や料理を馬鹿にされた”名誉”を回復するため、ということもあるでしょう。ちょっとありそうにない話ですが、のび太に”恐怖”を感じたジャイアンが、恐れのあまり、やられる前にやってしまえとばかり殴りかかることも考えられます。

 が、個々の事情はさておいて、とりあえずそれらは全部「満足」を得るためだとざっくりまとめてしまいましょう。そういった何らかの満足を得るため、のび太国をぶん殴って、言うことを聞かせるわけです。ジャイアン国は武力に訴えることが多く、高い軍事力をもった強国です。のび太国にしばしば戦争を仕掛けてきた、としましょう。

「のび太」国の懲罰的抑止戦略

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 これに対してのび太国側は、自らのマンガからプライドまでいろいろな利益を守るため、ジャイアン国との戦争を避けたい、と考えます。できればジャイアンに「のび太をぶん殴るのは止めておこう」と考えてもらいたい。ぶん殴るのを、思いとどまってほしいのです。そこで抑止戦略を考えます。

 まずは最もベーシックな形として「懲罰的抑止(deterrence by punishment)」が考えられます。体を鍛え、勇気をだして、ジャイアンに負けない強い男の子になります。ジャイアンが無法にも殴りかかってきたならば、殴られっぱなしになるのではなくて、必死になってやり返すぞ、という姿勢を見せます。果敢に反撃してジャイアンをやっつけられるか、勝てはしないまでも、引き分けくらいにはできる程度に強くなります。

 「のび太」国も、マンガ「ドラえもん」第六巻「さようなら、ドラえもん」において、ドラえもんが未来へ帰ってしまう前夜に見せたくらいのガッツをいつも発揮したらどうでしょう。そしてジャイアンへ果敢に”抵抗”するのび太になれば、ジャイアンとしても容易にはケンカをしかけづらくなるでしょう。戦争をしかけた際に自分が受ける被害、つまりコストが上昇するからです。

 最終的にはのび太が負けてしまうとしても、ジャイアンがヘトヘトになるくらい抵抗するとすれば、疲労困憊してやっとマンガ一冊手にいてても割があわないでしょう。これが前回の記事で書いた、戦争の満足よりもコストの方が高くなった状態です。

 そうなると、ジャイアンとしてもできるだけ衝突を避ける方向に動いていくと期待できます。例えば要求を割り引いたり、穏便に交渉をしてマンガを貸してもらう方を考える公算がたかまります。あるいは要求そのものを諦めるかもしれません。

 このように「戦争になったら相手に耐え難い打撃を与える」能力をもち、それを相手に理解させ、戦争を思いとどまらせます。戦争に訴えた相手に”懲罰”を与える能力を保有。「手痛い反撃を受けるから戦争が割に合わない」と相手が考えるよう、誘導するのです。

 これが懲罰的抑止であり、すべての抑止の基本です。現実世界の多くの国は大なり小なりこのタイプの抑止力を保持しています。

拒否的抑止 「ひらりマント」とミサイル防衛

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 とはいえ、のび太がいかに体を鍛えても、ジャイアンを逆にぶっ飛ばすのはちょっと難しいかもしれません。ですが、必ずしもジャイアンに勝つ、あるいは著しいダメージを与えることができなくても、抑止は成立可能です。そのひとつが「拒否的抑止(deterrence by denial)」です。

 ジャイアンが何らかの目的をもって(例えばマンガを奪おうとして)戦争を仕掛けてくるとします。これを打ち負かすほどの力はなくても、その目的達成を不可能にすれば、抑止の成立が期待できます。ドラえもんから「ひらりマント」を借りて、ジャイアンのパンチをすべて回避してしまうのはどうでしょう。ジャイアンを倒すことはできないにしても、こちらが打ち負かされることもなくなります。あるいは、ジャイアンの目的がマンガだけであれば、「殴りかかってきたら、このマンガをどぶに捨てる」と宣言してしまうのもひとつの手です(それによってかえって怒らせないように注意する必要がありますが)。要は、ぶん殴ってきても「思い通りにはならないぞ」ということを示します。

 このように相手の目的達成を”拒否する能力”をもつ方法を「拒否的抑止」といいます。相手が戦争によって得たい「満足」が、手に入らないようにしてしまいます。すると相手は「やるだけ損だ」と判断し、戦争を思いとどまる―と期待できます。

 拒否能力の分かりやすい例としては、日本も導入している「ミサイル防衛」があげられます。相手が弾道ミサイルをちらつかせて威嚇してくるのに対して「弾道ミサイルを撃ってきても、打ち落としてしまうから、そっちの思うようにはならないぞ。だからそんなことしても無駄だぞ」という対抗措置です。

 拒否的抑止に成功した例として、このブログではかつてスイスの例を紹介しました。第二次世界大戦時、スイスはナチス・ドイツに脅威を受けていました。スイスには、ドイツに反撃をし、大ダメージを与えるような力はありません。しかし国土を守りを固め、いざ戦争になったら自分のトンネルを自分で爆破する準備をして、侵略のメリットを減らしました。これによって、ドイツ側に「スイス侵攻は得られる成果が見合わないであろう*1」(駐スイス・ドイツ公使のキュッヘル)と判断させ、侵略を思いとどまらせました。これについては過去の記事「「中立国の戦い スイス、スウェーデン、スペインの苦難の道標」 - リアリズムと防衛ブログに書いたので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。

報償的抑止 「おお、心の友よ!」

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 これまでの2つは軍事的な抑止でしたが、こんどは非軍事的な抑止です。相手に戦争を思いとどまらせるかわりに、何かプレゼントをあげます。これを報償的抑止(deterrence by compensation)といいます。

 ぶん殴るのを思いとどまってもらう代わりに、何かジャイアンにプレゼントをします。例えば…もしもマンガを奪わないでくれるなら、ジャイアン・リサイタルのチケット販売を手伝う、というのはどうでしょう。「おお、心の友よ!」と喜んで、殴るのを思いとどまってくれるかもしれません。のび太にとってより大事なマンガを守るために、別のものを相手に提供するわけです。リサイタルを手伝いをすれば、ジャイアン以外の友達からたいそう恨まれるかもしれませんが、そんな損よりもマンガを守る方が大事であれば、この方法には合理性がうまれます。

 国際関係でいえば、核兵器の開発を思いとどまらせるかわりに重油や原子力発電所を援助してあげる、というような取引です。ただこの方法は、一歩間違えるとただの土下座外交になってしまい、足元をみられる恐れがあります。「おお、リサイタルを手伝ってくれるのか、心の友よ! そんなにオレのことを思ってくれるなら、ついでにあれもしてくれ、これもしてくれ。…で、もちろんマンガもくれるよな」と図に乗られてしまうといけません。西洋のことわざでいう「ネズミにミルクをやると、次はクッキーをほしがる」という状態です。そうはならないよう、懲罰的抑止と組み合わせるなどの注意が必要です。

抑止の仕組みと種類

抑止とは相手国に戦争などの行為を「思いとどまらせる」営みです。そのために防衛力を整備するなどして、相手にとって戦争を「割に合わない」と考えさせます。抑止はもっとも基本的な懲罰的抑止のほか、拒否的、報償的の3タイプにわけられます。それぞれの意味をセリフで説明すると、次のようになります。

懲罰的抑止.....もし〜したら、××するぞ!

拒否的抑止.....もし〜しても、◯◯できないぞ。

報償的抑止......もし〜することを思いとどまるなら、△△してあげよう


 このようなメッセージを伝えて相手の判断を誘導します。相手が「やめといた方が合理的だ」と判断したならば、抑止が成功したといえるでしょう。そのために「××するぞ!」と懲罰を与えたり、「○○できないぞ」と言えるだけの拒否能力を備えます。それによって戦争や、それに類する有害な行動を未然に思いとどまらせ、自国の利益が侵害されることを予防します。

 …と、このように論理的にうまくいけばいいのですが、なかなかそうは参りません。なぜなら国力には限界が、抑止には相手があるからです。自国だけでは十分な抑止力を形成できない場合や、お互いに抑止し合うことでかえって国際的緊張が高まり戦争の蓋然性があがってしまうなど、いろいろ不都合なケースがあります

次回はその辺りに話題を移していきたいと思います。

*1:「中立国の戦い」飯山 幸伸 p140

「抑止」ってなんだ?

 防衛についての議論では「抑止」という言葉が数多くでてきます。「抑止力を保持するために」とか。ある国が戦争が戦争を起こそうとすることを、主に軍事力によって押さえつけ、防ぐのが「抑止」です。抑止とは何かについてその前提、分類などを何回かに分けてざっくり書いていきたいと思います。

戦争が起こるのはどんな時か?


 「抑止」の前に、戦争の発生について考えておきましょう。国家はどんな時に戦争を行うのでしょうか。

 戦争とはある国が、別の国に何らかの意図を強制しようとするときに起こります。戦争によって何らかの意図を達成しようとするのです。しかし戦争には高いコストがかかります。

 戦争をやることの損益は、戦争で得たものと、かかったコストの差であらわせます。これを式にすると、こんな風になります。

U(効果)=V(満足度)−C(費用)=(V1+V2+...Vn)−(C1+C2+...Cn)*1

 そして戦争の効果(U)は、満足度と費用のどちらが大きいかで決まります。商売の黒字、赤字と一緒ですね。

 ただし商売と違うのは、金銭だけでは計算できないという点です。経済的な損益だけで考えれば、戦争は常に赤字の事業です。それでも戦争が行われるのは、戦争で得られる満足の中に、威信の獲得、恐怖からの解放、国民の不満発散といった、お金で買えない価値があるからです。

 ともかく、戦争に必要なコスト(C)よりも、戦争をやって得るもの(V)の方が大きい、または戦争をしなかった場合に失うものが大きい、と考えたとき、その戦争の効果(U)はプラスだと判断され、国家は戦争にうってでると考えられます。

抑止とは「戦争を赤字にする」こと


 ということは「この戦争をやれば、コストの方が大きく、効果はマイナスになってしまう」と判断した場合、国家は戦争にうってでることに消極的になるはずです。

 従って、戦争を予防する方法は2つです。得られる満足(V)を少なくするか、失われるコスト(C)を増大させるかです。一定の軍事力を保持することによってこれを目指すのが、抑止のいとなみです。軍事力を持ち、防衛を固めることによって、相手が達成できる利益を減らし、かかるコスト(犠牲者、戦費、時間など)を増大させます。

 それによって、期待できる戦争の効果がマイナスになり「やるだけ損だ。やめとこう」と相手に判断させれば、抑止が成功すると期待できます。これが抑止の最も基本的な考え方です。

 V < C → U < 0 ≒ 抑止の成立



今日はここまでとして、次の機会には抑止の種類、危険性、前提などについて触れたいと思います。

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*1:K. knorr, On the Use of Military Power in the Nuclear Age(New Jersey, Princeton University Press,1966)pp9.

戦争の兆候に気づくのが難しい理由 ヨムキプル戦争1

 戦争が、今まさに起ころうとしていました。何十万人という敵軍が国境に迫っていたのです。にも関わらず、まさか敵軍が本当に攻めてきて、戦争になるとは、誰も思いませんでした。いったい何故でしょうか?

 今回とりあげるのは「十月戦争」です。以前からお読み下さっている方は、戦車シリーズの外伝だと思って下さい。今回から全三回でお送りして、これが終わったら戦車PART3に移ります。

 なぜイスラエルは奇襲を許したのか、がテーマです。新聞やテレビといったメディアが普及し、偵察衛星が宇宙から地上を覗いている時代です。にも関わらず、大戦争が勃発するそのときまで、イスラエルはそれに気がつきませんでした。いったい何故なのでしょうか。

安息日の奇襲

f:id:zyesuta:20190213200607j:plain
 十月戦争はイスラエルとエジプト・シリア同盟軍の戦いであり、日本では「第四次中東戦争」の名で知られています。ほぼ同じレベルの近代兵器をもった国が、ガチンコで戦った戦例として、戦史上おおきな教訓を残した重要な戦いです。

 この戦いはまたの名を「ヨム・キプル戦争」といいます。ヨム・キプルとはユダヤ教の祭日です。一切の労働をせず、安息に過ごさねばならないそうです。この日は罪の贖(あがな)い、つまり罪がつぐなわれることを求めて祈りを行う日であるといいます。そのためヨム・キプルのことを日本語で「贖罪(しょくざい)の日」または「大贖罪日」と訳されます。

 またこの日はイスラム教の断食月(ラマダーン)の中にあります。イスラム教においてとても大事な期間です。よってヨム・キプル(大贖罪日)は、イスラエルのユダヤ教徒は静かにお祈りをし、エジプトやシリアのイスラム教徒は断食にこれつとめ、ともに信仰に生きるべき大事な日です。

 そんな安らかであるべき日に、それは起こりました。エジプト軍とシリア軍が、大軍をもってイスラエル領になだれ込んだのです。まったくの奇襲でした。 
 まずはこの戦争の少し前、消耗戦争についてみてみましょう。

消耗戦争と着上陸作戦

 イスラエルが独立を宣言したまさにその当日から、イスラエルとアラブ諸国は何度も戦争をしてきました。そのたびに何とかイスラエルが勝利しました。第三次中東戦争では優れた戦闘機部隊で空を制覇し、地上では戦車部隊が活躍して、わずか六日間で圧勝しました。

 その後、エジプトとイスラエルの間に「消耗戦争」と呼ばれる小競り合いが続きました。スエズ運河を挟んだ小規模な戦闘です。エジプトは運河の西側、イスラエルは東側が領土です。運河をはさんでエジプトがイスラエル領を砲撃すれば、イスラエルはその報復にエジプト領を爆撃する、といった具合です。

 エジプトを諦めさせるため、イスラエルはスエズ湾の島々に対し、上陸作戦を行いました。ヘリや船を使って数百人の兵士を着上陸させ、島のエジプト守備隊を撃破しました。そして一時的に島を占領し、要塞施設を破壊すると撤収しました。

 9月8日から11日には、スエズ湾を越えて、なんと西岸のエジプト領へ上陸作戦をやりました。イスラエル陸軍の一個大隊が、海軍の戦車揚陸挺にのり、ひそかに上陸しました。

IDF(イスラエル国防軍)はスエズ湾を越えて機甲打撃戦を行った。…我々は海軍と協同して上陸演習を何度も行い…六週間ほど毎日準備に没頭したのである。

この襲撃は成功した。攻撃隊はわずか戦車四輌、APC三輌の編成であった。敵の哨戒をくぐって我々は八時間も前進を続け、途中通過所の敵野営地を蹂躙したり、レーダー施設を破壊したり、あるいは前哨を次々と掃討したりした。*1

 上陸作戦というと、映画「プライベートライアン」冒頭で描かれたノルマンディー上陸作戦のように、何十万人規模の大作戦を思い浮かべがちです。ですがあのような上陸は例外中の例外です。

 消耗戦争でのイスラエルは、わずか数十から数百人の規模で、敵が守っていない海岸への奇襲上陸を行いました。このような少数では、敵の領土をずっと占領することはできません。しかし破壊や、撹乱のための襲撃には有効です。動かす兵力が少なく、継続的な補給もいらないので、奇襲が成功しやすくなります。

 これは日本にとっても他人事ではありません。日本も島国です。占領をめざした数万人程度による上陸作戦だけでなく、数十〜数千人以下による襲撃を狙った作戦にも、日本は備えておく必要があります。そこで近年の自衛隊は対ゲリラ・コマンド対処や、離島防衛に力を注いでいます。

 とまれ、このような消耗戦争をへて、エジプトはだんだんと不利になっていきます。そこで仕方なく停戦条約に合意します。70年の7月31日のことです。しかしこの停戦は、次の戦争への準備期間にすぎませんでした。

戦争の足音

 消耗戦争から3年後、イスラエルの国境地帯で、異常な動きが報告されていました。イスラエルは東をシリア、西をエジプトに挟まれています。この両国の軍隊が妙な動きをしていたのです。

通常、そろそろ雨期入りとなるこの時期には、シリア軍は兵を後方に下げるのである。ところが今年にかぎって、多数の部隊を前線に移動させており、今や異常な数の兵力が第一線に展開していた。*2

 このシリア軍の動きは戦争準備だったのですが、イスラエルはそうとは受け取りませんでした。ただの演習や示威行為だと考えたのです。時を同じくしてエジプト軍も同様に、さかんに演習の動きをみせていました。

 軍隊だけではありません。エジプト大統領のサダトは、たとえどれほどの犠牲を払おうともイスラエルに勝つ、と宣言していました。ですがイスラエルはこれを口先だけだと考えました。イスラエル軍のアダン将軍は、当時をこう振り返っています。

サダトがエジプトに百万の犠牲を出す覚悟ありと言った時、私は本気とは思えなかった。国内向けに必要な大言壮語ぐらいにしか考えなかったのである。百万の損害がでれば、いくら何でもエジプトは傷つくであろう。


…アラブの心理を理解できなかったのは国防軍だけではない。政治家もそしてまた、…大学のアラブ研究者すらも、戦争が迫っていることを計算しなかったし、もちろん警告を発することもなかった。*3

 このように、相手も自分と同じように考えるだろう、と思い込んでしまっていたのです。日本の近くにも盛んに「ソウルと東京を火の海にする」「報復の聖戦を行う」等と度々宣言している国があります。いつものことなので新聞やテレビでも余り報道されなくなってきた気がします。あれらは口だけのから脅しなのです。しかし常にそうだ、と私たちが思い込んでいると、彼らが本気で言っているときも「あれは本気じゃない。国内向けに必要な大言壮語だ」と誤解してしまうかもしれません。

戦争は彼らにとって自殺行為にも等しいのだ

 エジプトやシリアが戦争に踏み切ることはない、とイスラエルが考えたのには、それなりの根拠がありました。軍事力の優越です。六日間戦争の圧勝でしめしたように、イスラエルの軍事力はアラブよる優れています。つまり、こう考えられたのです。

…軍事力において格段の優越性を獲得できない限りアラブが戦争を始めることはない、と考えていた。戦争は彼らにとって自殺行為に等しいのだ。…つまり、戦争は近い将来起こらないということである。*4

 具体的には、戦闘機と戦車でイスラエルはきわめて優勢でした。とくに戦闘機、つまりは空軍の優勢は重要です。現代戦においては空を制した側が非常な優位に立つことになります。しかしこの自信が、思い込みにつながったのだ、といいます。

ヨムキプール戦争時、対応が遅れた原因を追究したアグラナット調査委員会…の見解によると……”アラブが…イスラエル空軍と対等に戦える航空戦力を整備しない限り…戦争の勃発はあり得ないとの情報部の臆断が奇襲を許したのだ”とした。*5

 たしかに常識的に考えて、空軍で負けている国が、自分から戦争を仕掛けてくるとはちょっと考えがたいです。イスラエルならばそんなギャンブルはやらないかもしれません。しかしアラブは違ったのです。

なんといっても大きかったのは、我々にアラブの心理構造が読めなかった点であろう。……アラブ諸国は多大の犠牲を払ってでも戦争を継続する決意であり、多大の犠牲があっても国家の崩壊はなくこれに耐える自身がある。ハルツーム宣言はそのように言っていたのである。*6

 所詮、他国の考えは分からないのです。考え方が違えば、明らかに不合理と思われるようなことでも、敢えて行うことがあります。頭のよい合理主義者は、相手も自分と同じように考えるならば、まさかそんな愚挙はしないだろう、という思い込みで失敗します。

エジプトの欺瞞工作

 イスラエルが油断していたのは、彼ら自身の思い込みだけのせいではありません。エジプトが積極的にイスラエルをダマしていたのです。「エジプトは戦争なんかできる状況にない」というウソの情報をたくみに流していきました。

 そこでは新聞などのメディアが活用されました。外国の新聞にむけてインタビューや意図的なリークをエジプト政府は行いました。そこではエジプト軍がいかに準備不足の状態にあるかが強調されました。

 イスラエル側はこういった情報を収集するうちに、やはり思ったとおりだ、エジプト軍は戦争などできる状況ではないのだ、と判断しました。

正しい情報の誤った解釈

 ここに状況判断の難しさがあります。正確な情報資料をつかんでいても、その解釈を誤れば、180度違った結論を導いてしまうのです。

 実際、イスラエルは多くの情報を得ていました。アラブ軍が動いていることはつかんでいました。

アラブ側は意図を隠蔽しようとしたが、IDF(イスラエル国防軍)は充分な情報を得ていたし、エジプト、シリア両軍が戦争準備の最終段階にあることを明確に示す情報も持っていた。しかし我々はその可能性を認めようとしなかったのである。*7

 つまりは先入観に支配されていたのです。軍だけではありません。政府、議会、政党など国全体に「まさかアラブ側が、この状況で戦争を仕掛けてくるわけがない」という思い込みが蔓延していたのです。

 敵軍が集結し、戦争準備体制にあることを偵察衛星か何かでばっちりつかんでいたとしても、「まさか戦争にはなるまい」という思い込みに国が支配されていると、その解釈を完全に間違えることだってあり得るのです。イスラエルですらそうだったのです。

油断の報いは血

 結局、イスラエルが「これは戦争になる」と気づいたのは、10月6日の午前4時のことです。国防大臣と首相に届けられたのは、「今日の夕方には戦争が始まる」という報告でした。戦争勃発のわずか10時間前のことでした。

見解の違いや決断に至るまでのスローテンポぶりから判断されるように、首相はもとより国防相も、最後の土壇場になっても戦争が勃発直前であることに、とんと気づかなかったのである。*8

 これほど直前になるまで、戦争が迫っていると気づかず、油断していたのです。イスラエル軍は一応の準備をしているつもりでしたが、まさか全面的に開戦するとは予想していませんでした。そのため動員も軍の配置も不十分でした。

 一方のエジプト・シリア軍はこの日に備えて万全の準備を整えていました。そしてイスラエルは、油断という罪の報いを、国民の血によって贖うことになるのです。

エジプト軍は夢にも考えなかったような、それこそバラ色の開戦条件を得たのである。*9

 贖罪日(ヨム・キプル)の戦いが始まりました。


 次回は「戦車の限界」と題して、ヨム・キプル戦争の流れをおいながら、ここでしめされた戦訓を拾っていこうと思います。

*1:p77 砂漠の戦車戦 上

*2:砂漠の戦車戦 上 p4

*3:砂漠の戦車戦 上p115

*4:砂漠の戦車戦 p112

*5:前掲書p106

*6:前掲書 p113-114

*7:p105-106

*8:p121

*9:p124

軍隊のない国は、なぜ非武装でいられるのか?


軍隊のない国家―27の国々と人びと
前田 朗
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 年の初めの書初めは、いろはの”い”から参ります。「軍隊のない国家」についてです。

 私たち日本人は軍隊を放棄すると憲法に書きながら、軍隊ではない自衛隊をもって自らを守っています。それでも軍隊のない国家への憧れは根強いようです。昔は「非武装中立論」があり、今でも「無防備都市宣言」活動があります。

 世界に目を向ければ、意外と多く、本当に軍隊を持たない国家が実在します。それらの国は非武装、無防備で、しかも誰に侵略されるでもなく平和を保っています。これはどういうことでしょう。本当は軍隊なんていらないのでしょうか。いったい何故、「軍隊のない国家」は平和でいられるのでしょうか?


軍隊のない国家」は意外と多い

 今回の参考図書「軍隊のない国家」前田郎 著によれば、世界には27ヶ国もの国々が軍隊を持っていません。例えば以下のような国々です。

f:id:zyesuta:20100102145036p:image非武装国ミクロネシア連邦

 島国には非武装の国がたくさんあります。太平洋ならば、ミクロネシア連邦、パラオ、サモアなど。インド洋ではモーリシャス、モルディヴの二国。カリブ海ではセントルシア、グレナダらが、軍隊を持たず、なのに平和に暮らしている島国です。

 昔から戦争が絶えなかったヨーロッパにすら非武装の国があります。カジノで有名なモナコ公国、(槍兵をカウントしないなら)ローマ教皇がおわすバチカン、ほかにはサンマリノ、アンドラ、ルクセンブルグらです。パナマなど中米にも非武装国は多くあります。

 これらの国々はどうして軍隊をもたず、他国から侵略されることを恐れずに済んでいるのでしょうか?? これは一概にはいえず、国ごとに様々な理由があります。主要な理由ごとにみてみましょう。

貧乏長屋には泥棒も入らない

ルパン三世「カリオストロの城」 [Blu-ray]

 落語に「置泥(おきどろ)」という演目があります。とある泥棒が何か盗もうと思って、長屋が忍び込みます。ところがそこがえらく貧乏なところで、盗むものなど何もない。あるのは借金ばかりです。そこで泥棒は哀れに思って、盗むどころか、かえって銭を置いていく、という話です。

 泥棒は何か奪ってやろうと思うから他人様の家に押し入るのです。脅しても一銭も何もでてこない貧乏長屋へ入っていっても儲かりません。お縄をちょうだいするリスクばかりあって、大損です。

 他国を侵略したり、実際には攻めずとも武力をチラつかせて交渉する国々も、それによって何かしらの(経済的なものとは限らない)利益を得ようとして、そんなことをするのです。

 とすれば、何も得るものがない小国相手では、攻めても脅してもメリットは少ないし、評判を落としてしまってかえって損です。非武装国の大方はそんな感じです。

 人口は少なく、経済は小さく、領土は狭く、資源といえば魚とヤシの実(東南アジアのヤシ経済については割愛)、なんていう国を強請っても仕方がありません。経済のみならず色々な面からみて、誰がどう考えても(失礼ながら侵略者的な意味では)価値が低い国ならば、わざわざ備えなくてもOKなのです。

 太平洋やインド洋の小さな島国が非武装でいるのは概ねこの理由で理解していいでしょう。貧乏長屋には泥棒も入らないので、鍵なんかつけなくていいのです。


あまりにも小国過ぎて、大国に保護されるしか手がない

 先ほど書いたように、非武装国はほとんどが凄く小さい国です。そんな国では、自前の軍隊を持とうとしても、まともな規模の軍を編制できません。

f:id:zyesuta:20100102145315p:image

 例えばこれはヨーロッパの非武装国、アンドラ公国の地図です。フランスとスペインの間、山岳地域にポツンと存在しています。人口は7万5千人です。

 こんな人口と面積の国で、フランスやスペインのような大国とケンカができるわけがありません。国民の10人に1人が兵隊になったとしても7500人。フランスの一個師団にも足りません。これはもう、防衛など考えるだけムダです。



f:id:zyesuta:20100102145235p:image

 さらに分かり易いのはサンマリノです。地図の真ん中がサンマリノ国で、まわりは全部イタリアです。昔のイタリアは小さな都市や地方ごとに分離独立していました。近代になって統一されるのですが、その時に参加しなかったのがサンマリノです。

 アンドラと同じく、狭い上に人口が少なく、まともな防衛力を用意できません。これでイタリアに張り合える道理がなく、交渉材料になる程度の軍備すら用意できません。

 もしこれらの小国も、人口が500万ほどもいれば、多少は軍備をもって、地域の同盟に参加したりするでしょう。守るべきものが多ければ人任せの保護国をやっているわけにもいかないし、大国に対して物が言えるような国際的立場を築きたいからです。

 ですが人口が3万や7万、日本の市や群レベルではそうもいきません。だからすぐそばの大国に完全に身を委ねて、保護してもらっています。大国の側としても、そんな辺鄙で小さい山国を攻めたり脅したりしても意味がないものですから、いたずらをすることもありません。

 このような国々は軍隊をもっても意味がなく、また持たなかったとしても失うものも少ないために、非武装でいるのです。


軍隊をもったら瞬殺される運命

f:id:zyesuta:20100102145644j:imageパナマ運河の水門

 サンマリノやアンドラは地勢的にどうでもいい位置なので非武装でいいのですが、逆に重要な位置でありすぎて非武装にせざるをえない場合もあります。

 最も分かり易いのがパナマです。パナマ運河はアメリカの安全保障にとって死活的に重要です。パナマが意にそわない国になったら、アメリカはとても困ります。そこでかつて軍隊を出して占領しました。

アメリカは…軍隊を派遣し、500名のパナマ軍を壊滅させ、ノリエガを逮捕した。…国防軍は1989年12月の米軍侵攻によって解体された。*1

 

パナマはこれ以降、軍隊を解体したままです。非武装でも安全なのは、アメリカの裏庭だからです。アメリカにとって極めて重要であり、しかも距離が近いところにあります。よって他の国は誰もパナマに手を出せません。

 それにパナマが自前の軍隊を持つということは、アメリカに安全の全てを委ねてるのは嫌だ、というサインです。すると下手をすればまた米軍が攻めてきかねないので、妙な誤解を招かないためにも、非武装のままでいるのが合理的です。パナマのほかにも中米には非武装の国がいくつか固まっていますが、その合理性は同様にアメリカの裏庭であることによっています。

 こういった国々は、独立しているとはいえ、外交・安全保障政策ではアメリカにかなりを委ねざるをえません。太平洋の非武装の島々も同様です。

ミクロネシア、パラオ、マーシャル参加国の外交政策は、アメリカの圧倒的な影響の影にある。中国問題だけではなく、その他の国連決議についての投票行動をみてもアメリカの従者としての忠誠を示している。…国防・安全保障の責任はアメリカに委ねられている。*2


戦争になったら、非武装国はどうするのか?

 このようなわけで、非武装の国はそれなりの合理性があって非武装を選択しています。ですが戦争になったらどうするのでしょう。非武装でいれば、戦争に巻き込まれる恐れはないのでしょうか?

 もちろんそんなことはありません。例え非武装で、領土が狭く、貧しい小国であっても、戦争に必要であれば遠慮なく攻められてしまいます。非武装なので簡単に占領され、侵略者の支配下におかれたり、戦場になったりします。

 ここが長屋と国家の違うところです。賃貸暮らしである長屋の住人と違い、国家はどんなに貧しくても、国土の所有権だけは持っています。だから戦略的にその土地の位置が重要ならば、侵略を受ける可能性はあるのです。実例をみてみましょう。


非武装で中立だったのに、世界大戦に巻き込まれたルクセンブルク

f:id:zyesuta:20090910164545p:imageドイツに侵略された低地諸国

 自分では何も悪いことはしてないのに、立地が良すぎたために世界大戦に巻き込まれたのが低地諸国です。彼らは非武装ではありませんでしたが、世界大戦のときに敵対するどちらの陣営にも味方せず、中立を守っていました。にも関わらず、ドイツ軍の通り道としていい場所にあったので、あえなく侵略され、戦場となりました。

 中立で、かつ非武装だったルクセンブルクも同様です。非武装でも、中立でも、だからといって戦争の局外にいられるわけではないのです。


(ルクセンブルクは)中立国であったにもかかわらず、二度の大戦でドイツ軍に占領された。



国民は1940年から1944年までのナチス占領下、強力なレジスタンスを続け、第二次世界大戦中の戦死者数は…第三位に挙げられる。



…「アルデンヌの戦い」では、ルクセンブルグ領にもまたがって激しい戦いがくりひろげられた。…第二次大戦後、非武装永世中立路線を放棄して、ベネルクス三国同盟および欧州統合の道を歩む。

*3

 なお戦後のルクセンブルクは、欧州統合の流れの中で、小国の地位を逆用して成功しています。国が小さく、軍備も無い国は、ふつうは国際政治の主要プレーヤーになりえません。それを逆用して「ウチなら小国だから、国際機構を設置するのにちょうどいいよ」という巧みな外交を行い、国を富ますことに成功しています。欧州統合という大きな流れがあればこそできた、秀逸な国家戦略です。


味方に占領されたアイスランド

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 大西洋に浮かぶアイスランドも非武装国ですが、第二次世界大戦がはじまるとイギリスに占領されました。当時のアイスランドは最近と違い、発展してはいませんでした。ですが経済が貧しい国であっても、そこが軍事戦略的に重要であれば、戦争は避けて通ってはくれません。

…第二次大戦が始まると、ナチス・ドイツはデンマークを占領した。アイスランドもナチスに占領される恐れが生じたため、1940年、2万5千人のイギリス軍がアイスランドを占領した。*4

 アイスランドにとってイギリスは友好国です。ですがもしドイツがアイスランドを占領すれば、そこに基地をおいて、イギリス攻撃に利用するでしょう。イギリスからすれば、アイスランドを先に自分で占領してしまった方が安全です。だから軍隊を送りました。

 アイスランドはイギリスに抵抗しなかったので、占領の犠牲者は皆無でした。ですがもしドイツがアイスランドに攻めてくれば、イギリス軍とドイツ軍の戦場になったでしょう。すればルクセンブルクのように、アイスランド人にも大勢の死傷者がでたでことしょう。

 そのとき、アイスランド国自身の意志はまるで無視されます。占領・支配されて自由を奪われるのも、戦場にされるのも、すべて他国の都合で決められます。

  ルクセンブルクやアイスランドは、大戦中の一時的な占領に終ったのが不幸中の幸いでした。これが世界大戦後のチベットなどになると、非武装でいたら共産中国に攻めてこられ、虐殺には遭うわ、文化は破壊されるわ、その後現在にいたるまで自由と人権を抑圧されたままになっています。


軍隊をもたない国家は、運命を他国に任せる

 このように非武装の国は、軍隊を持たないため、戦争においては自分の意志を全く通すことができず、他国に為されるがままになってしまいます。

f:id:zyesuta:20031207112658j:image

 この写真はモナコ公国の風景です。高級なレジャー、賭け事などで有名な、お金持ち御用達の観光国です。だから経済は豊かですが、人口が少なく、土地が狭いので、経済以外では小国です。

 このモナコも、軍事力が幅をきかす情勢では、他国に支配されました。その時々で強い国に占領されたり、条約によって保護してもらったりしています。


ファシズムの時代になると、1940年イタリアがモナコを占領した。

さらに1943年、ナチスドイツの占領下に置かれた。

ナチス崩壊後、独立を取り戻したモナコは、1951年にフランスと相互援助友好条約を締結した。…モナコは軍事力を持たず、警察部隊のみを備えている。フランスによって領土の防衛を約束されている。*5

 つまりは、有事の際には川に落ちた木の葉と一緒です。自力では何もできず、時代の流れ、他国の意向に流されるままになってしまうのです。


占領を免れた国々

 大戦ではモナコ、ルクセンブルクらの非武装国が次々に占領されて戦場になり、オランダなど武装中立国も蹂躙されました。

 そんな中、ある程度戦争の局外にいられたのはスイスとスウェーデンといった一部の重武装中立の国々です。これらの国は熱心に防衛努力をすることで侵略を防ぎました。ドイツはこれらの国へも侵略をたくらんでいたのですが、低地諸国と違い立地と地形に恵まれたことも大いに幸いしました。

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 このとき、スイス軍を指揮していたアンリ・ギザン将軍はこう言っています。ドイツの侵略が迫ったとき、彼は「今、造営している新陣地が真価を発揮するなら、我々は自分たちの運命を手放すことなく、掌中にしていられるであろう」として部下を激励しました。

 自前の軍隊をもち、防衛努力をすることは、自分の運命を自分で決める力をもつということです。もちろん完全に自国が思うように生きられるわけではありません。ですが他国の思うまま蹂躙されるだけにならず、交渉力や抵抗力を手にして、ある程度の自主性をもつことはできるのです。


まとめ 軍隊を持たないことは、運命を手放すということ

 軍隊を持たない国は、非武装以外にろくな選択肢を持っていない小国であり、また小国であるがゆえに守るべきものが少ない国々です。また周辺に比較的まともな大国がいて、その保護下に入れる国ばかりです。彼らは、だから、非武装であってもそうそう悪い実態に陥らないで済むのです。

 そのような環境にない、守るべきもの、失うべきものを多く持つ国は、だから自前の防衛力をもっています。それによって国民の生命、権利、財産、国土などを守り、大国の意向や国際情勢の好きにされないためにです。

 アンリ・ギザン将軍の言葉を借りるなら、防衛力を持つということは、自らの運命をその手に守るということです。ならば非武装でいるということは、自らの運命を手放し、流れに身を委ねるということなのです。



参考

あんそく やる夫のうちに泥棒が入ったようです

軍隊を保有していない国家の一覧 - Wikipedia

■【非武装中立批判論:コスタリカの実情について】|FUNGIEREN SIE MEHR !!

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お勧め文献

軍隊のない国家―27の国々と人びと
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今回の参考文献。非武装国それぞれの法、体制、制度などを読みやすくまとめた本です。内容は事実の羅列ですから、それほど思想的に偏った本ではないと思いました。面白いデータブックです。


*1:「軍隊のない国家」 p231

*2:前掲書 p35

*3:前掲書 p151

*4:前掲書 p179

*5:前掲書 p140

人道的な戦争

対人地雷などの兵器や、捕虜の虐待は「非人道的だ」と批判され、国際条約で禁止されています。ですが、これは奇妙な話ではないでしょうか。それら以外の兵器をつかった戦争は、非人道的ではないのでしょうか? これが今回のテーマです。

戦争における”人道”の意味

 対人地雷や毒ガスが「非人道的だ」というときの”人道”というのは、普遍的な人道の話をしているのではありません。「この兵器は”国際人道法”に違反している!」という意味なのです。普遍的な人道ではなく、国際人道法の規定の話をしているのです。

 国際人道法とは、いくつかの法律の総称です。定めているのは「戦争の方法」です。例えば「投降の意志を示した敵は攻撃してはいけない」「民間人を攻撃目標としてはいけない」といったことです。

 いうなれば「戦争のルール」なのです。「非人道的だ」として批判されている兵器や行為は、いうなれば「戦争のルールに違反している!」として問題視されたのです。

国際人道法の精神

戦争のルールなのに国際”人道”法とはどういうことでしょう。

国際人道法は『戦時にも許されないものがある』という非常にシンプルで、しかし説得力のある考えから生まれた。…敵対行為に参加しないか、参加することをやめた人々の保護と戦争の手段・方法の制限を目指した多くのルールを規定したものである。*1

 このように戦争の手段を制限するで、戦争で必要以上の犠牲者が出ることを防ぐのが国際人道法の考え方です。具体的にどういった兵器や行為を規制しているのでしょうか。

なぜ対人地雷や捕虜虐待は非人道的なのか?

 国際人道法の規定は数多いので、このエントリではさわりだけを触れることにします。その中で基本となっている考え方は「戦争で攻撃していいのは、敵対意志のある敵兵だけに限る(区別原則)」 「軍事的に不必要な被害や苦痛をあたえてはいけない」といったものです。

 要するに「戦争だからといって、無意味に人を殺傷してはいけない」ということです。対人地雷や毒ガスといった一部の兵器が非人道的とみなされたのは、この考え方をそもそも守ることができない、と考えられたからです。

 例えば対人地雷や毒ガスは、”区別の原則を守れない”または”不必要な苦痛を与える”とされ、批判されました。

 対人地雷は途上国のゲリラなどが何も考えずに埋めまくったため、多くの民間人を死傷させています。まともな軍隊ならば埋設した場所と数をちゃんと記録しておいて、後で自分で除去します。しかし正規軍でないゲリラやテロ組織が無分別に使うことで無差別に被害を与えました。だから敵兵と民間人を区別せずに殺傷する、非人道的兵器とみなされました。

 毒ガスは第一次大戦で恐るべき威力を発揮し、その後の条約で禁じられました。毒ガスは兵士の生命を奪うだけでなく、後遺症を伴うことなどから、不必要に苦痛を与えるとみなせます。また一度散布してしまえば後は風に任せで、交戦中の敵も、投降の意志を示した敵も区別できません。

 行為についても、戦争を遂行する上で不要な殺傷は禁じられています。わかりやすいのは民間人や捕虜を殺傷することです。交戦中の敵兵であれば、殺傷しなければ戦争に勝てないし、こちらが死傷してしまいます。ですが害意がなく、武器ももたない民間人や捕虜を殺傷性することには、なんらの必然性もありません。だから禁じられています。

 逆にいえば、攻撃対象をきちんと区別できる兵器や、敵兵と区別した上での必要な攻撃ならば認められている、ともいえるでしょう。

なぜ他の兵器は「非人道的」と見なされないのか?

 それが「不必要な苦痛ではない」とみなされたところで、銃砲で撃たれれば人は死にます。攻撃対象を選択できるからといって、選択したら殺してしまってもいいのでしょうか。交戦意志を示している敵兵だけを撃ち殺せば、それは「人道的な戦争」とみなされるのでしょうか?

 また、国際人道法は矛盾しているという人もいます。国際人道法は戦争にルールを定めていますが、ということは「戦争が起こることを前提として考えている」ということです。それのどこが人道なんだ、というのです。

 本当に人道的なのは、戦争にルールを作ることではなく、そもそも戦争をしないことではないのでしょうか。戦争にルールを定めるのではなく、そもそもすべての戦争はルール違反だ、としてしまった方が、より多くの人の命を助けることができるのではないでしょうか?

人類はついに戦争を禁止した(60年前に)

 ところが、戦争を禁止する国際条約は既にあります。まずは不戦条約、そして国連憲章です。国連憲章は国連に加盟している全ての国が守ることになっています。そこでは「武力の行使」が禁止されています。自らを守る(自衛)の場合を除けば、戦争であれ、他の名目であれ、すべての武力行使はすでに禁止されているのです*2

 ですがご存知のとおり、国連憲章の制定から60年以上たっても、戦争はなくなっていません。将来においても、当分のあいだ、戦争を完全に無くすことは難しそうです。

現実を踏まえて理想を目指すということ

 国際人道法のアプローチは、このような世界の現実を踏まえたものです。

戦争や武力紛争を全廃させることはいまだできていない。未来にわたってもそれは不可能かもしれない。その冷徹な現実認識に立って、戦乱の中でもできる限り人命が失われるのを防ぎたい。人間の尊厳が踏みにじられることを防ぎたい。それが国際人道法の精神である。*3

 だったら、戦争を無くすよう努力するだけでは不十分です。それと同時に、不運にして戦争が起こってしまった場合のことも考えておかねばならないでしょう。

理想として考えれば、戦いのルールを作ることに努力するより、戦いそのものをなくすことに努力すべきだと言われるだろう。しかし残念ながら人類の歴史は、戦いに終わりがないことを示している。理想は理想として、現実に今ある戦いの犠牲者を救う努力が必要であろう。この現実主義こそ、国際人道法の優れた特色である。*4

「軍事合理的な人道」だけが守られる

 このような進み方は、他の部分にも色濃くあらわれています。そこで国際人道法の設置を推進した赤十字国際委員会は、こう書かれています。

軍事的観点から見ても国際人道法の尊重は合理的なものである。市民の大量殺戮、投降した軍隊の殺戮、捕虜の拷問などの行為が軍事的勝利につながったことはいまだかつて一度もない。…国際人道法上の考えを尊重することは、資源の合理的な利用にもとづいた、近代的戦略の一環なのである。
*5

 このように軍事的にも合理的でなければ、国々はルールなど無視します。なぜなら戦争の勝敗には国家の興亡、国民の命がかかっているからです。殺すか殺されるかというときに「そんなことは非道だからダメだ」といっても、聞き入れられるわけがありません。不戦条約が成立した後に第二次世界大戦が起こってしまったように、こと戦争となれば、邪魔なルールは無視されます。

 だから必要なのは、戦争の遂行を過度に邪魔せず、むしろある意味では促進すらしつつ、同時に人命を可能な限り救うルールです。国際人道法を守ることが、国家戦略においても合理的だ、とみなされる状況をつくることです。

いざとなれば暴力の衝突となり、生命の奪い合いとなる状況で、戦いのルールである国際人道法を軍人に守らせるためには、このルールを守ることが結果として戦いにも有利に作用すると軍人に納得させることが必要である。

つまり、もし一般住民を攻撃の対象として戦いを行えば…国際社会から強い非難を受ける。結果として、戦闘には勝利しても国際的な戦略を含めた戦争には敗れることになる。*6

 このような状況であれば、諸外国は国際人道法を守っていない国を批判することで、外交上の優位を手に入れます。このように道徳を利用して国益を追求することをモラルポリティークといいます。内心では非道徳的な国も、自分の世間体を守ることで国益を保つため、外見には道徳的なように振舞わざるをえません。

 このように現実の権力政治を否定するのではなく、それを踏まえた上で、その合理性に乗っかる形で少しでも人道を実現し、一人でも多くの人命を守ろうというのが国際人道法の考え方です。

なぜ核兵器は禁止されないのか

 もっとも理想的にはそうだとしても、今の国際社会で人道法の理想がすべて実現できているわけではありません。

 国際社会から強く非難されてもあまり害を受けない独裁国家や、受ける害以上の利益のために戦争をしている場合には、効果がない場合も多くあります。たとえ区別の原則を守れなかったり、不必要な苦痛を与える兵器でも、どうしても禁止が難しいものもあります。

 その代表例が核兵器です。核兵器は効果範囲がとても広いため、区別の原則を守ることができません。その上、放射線の害を残しますから、不必要な苦痛を与える兵器とみなせるでしょう。にもかかわらず、禁止はされていません。

 毒ガスが駄目なのに、なぜ核兵器はOKなのでしょうか。それは、人道的に悪であれ、国際法的に否であれ、軍事的にはどうしても否定できないだからです。国際司法裁判所の勧告でも、基本的には核は違法だよねとしながらも「国家の生存そのものが危うくされるような自衛の極限的状況においては…確定的に結論することはできない」とするほかにありませんでした。

 捕虜虐待や民間人への攻撃は、そもそも軍事的にもあまり合理性がないので、禁止されたなら国々はそれに従えます。毒ガスや生物兵器であれば、廃棄したところで、別の手段があります。しかし核兵器のように、無くしたら他に替えがきかない、と核保有国が考えている兵器については、禁止は難しいし、禁止法ができたところで空文化は必至です。

 もっとも人道の観点から核兵器を批判することで、核の使用を難しくする、という効果はおそらくあるでしょう。戦争という行為そのものを人道的に批判するのも、同様に、決して無意味ではなく、一定の効果はあるものと考えられます。

 ですが一足飛びに、人道だけを根拠にして、法律を書いた紙さえあれば、どんな兵器や戦争も禁止して世界を平和にできる、というわけでは、残念ながらないのです。

最悪の中の最善を求めるということ

 ところで、国際人道法の成立にかかわった赤十字国際委員会(ICRC)は、人道法の普及活動をさかんに行っています。法律を各国の軍人が知っていなければ、法の守られようがないからです。

 この写真はICRCのメンバーが、国際人道法のレクチャーをしているところです。青空教室で授業中、といった風情ですね。講義を受けている人たちは銃を抱えています。そんなときまで常に銃を携帯してとは、まともな国の軍隊ではありえません。常に内戦をしているような国の、兵士なのか山賊なのか曖昧なような集団ではないでしょうか。

こちらも人道法のレクチャーを受けている受講生たちなのですが、こちらはもはや兵士ですらありません。どうみても非合法の武装組織です。ハマスか何かでしょうか。

 講義をしているICRCのメンバーは、このような受講生たちが明日や明後日にもまた戦闘をやって、誰か撃ち殺すんだろうな、ということを分かった上で、「そのときにもルールがあるんだ」と話をしているのでしょう。そこで「そもそも人を殺してはいけないんだ」と説教したとすれば、それは正しいことかもしれませんが、それで戦闘が止まることは恐らくないでしょう。

 戦争にルールを設けるということは、たとえ戦争が起こったとしても、いま起こっている戦いを止められないとしても、「しかし、それでもなお」と言うことです。戦争が無くせないとしても、戦争の害を減らすことで、死傷する人を減らすことができます。完璧な理想ではないにしろ、ろくでもない現実を手直ししていくことが、多少はマシな世界をつくるための道なのです。

お勧め文献


文中で引用した本です。分かりやすく書かれているので、法には門外漢の私にも読みやすかったです。

*1:国際人道法―戦争にもルールがある 小池 政行 p85

*2:強制行動と安保理の授権の場合を除く。コメント欄でのご指摘ありがとうございました。

*3:p8 前掲書

*4:p35 前掲書

*5:p90-91 前掲書

*6:p34-35 前掲書

戦争はなぜ起こるか5  『限定された平和』

戦争はなぜ起こるか―目で見る歴史 (1982年)

戦争はなぜ起こるか―目で見る歴史 (1982年)

 「戦争はなぜ起こるのか」はテイラーという有名な史家が書いた著作です。原題は「HOW WARS BEGIN」。中身はタイトルの通り、戦争がいかに開始されるかを書いています。戦争の原因は百万通りもあるとしても、その中で「錯誤」と「不合理」が含まれないものは一つもないようです。

 拙ブログではこの著作の記述を追いながら、4つの戦争を概観してきました。今回で最終回です。折りしも今日、日本時間12月7日は太平洋戦争が始まった日です。戦争と平和に思いを馳せるのに悪くない日でもありましょう。まずはこれまでの連載を少し振り返ってみます。

政治家による戦争

フランス革命戦争

 かつて戦争と軍隊は王様や貴族のものでした。血統で選ばれた貴族ではなく、選挙で選ばれた人民の代表が政治をするようになれば戦争なんかしないであろう、と、そのように考えられたこともありました。

 ところが実際に革命が起こって、王様をギロチンで殺し、人民を代表する政治家が権力を握るようになっても、戦争はなくなりませんでした。それどころか革命政権の是非をめぐり、かつてない大戦争が起こりました。フランス革命戦争です。革命政府の政治家たちは、反動的なほかのヨーロッパ諸国に対抗し、そればかりかそれらの国々を「解放」、つまりは侵略によって体制転換してしまおうと試みました。

 しかもその戦争は、国家の体制を賭けた全面戦争となり、かつてないほど多くの国民を巻き込みました。王侯貴族のためではなく、市民一人一人の権利を守るという名目の戦争なので、一般市民までが望んで兵士となり、力の限り戦ったからです。

 政府と軍隊を、王様ではなく、議会の政治家が主導するようになっても、それによって戦争を無くすことはできませんでした。むしろ市民が権利を得るようになってから、戦争はより熾烈なものに変わってしまいました。

関連:「戦争はなぜ起こるか」 1 フランス革命戦争の場合 - リアリズムと防衛ブログ

市民による戦争

クリミア戦争

 さらに時代が下ると、今度は政治家どころか一般の市民たちが国家を戦争に押しやるようにまでなります。発達したマスメディアが戦争を後押しし、ふつうの市民が強く戦争を支持したクリミア戦争です。

 イギリス全土で抗議集会がもたれ、戦争が叫ばれた。ここにヨーロッパ史上まったく目新しいことが起きた。この時初めて、世論というものが大きな役割を演じたのである。


クリミア戦争はまさに、新聞に加勢された最初の戦争であった。…特にタイムズ紙は世論を誘導し、ロシアは単にトルコを侵害し打破しようとしているだけでなく、ヨーロッパの専制君主たらんとしている、と世論を信じ込ませていたのである。
*1

 国家が市民のものになったとき、当の市民が強く戦争を望めば、止める力は誰にもありませんでした。当時のイギリス首相は戦争に反対していました。それなのに結局は開戦に踏み切ります。首相が平和を望んでも、市民たちが熱狂的に戦争を支持したら、どうにもならなかったのです。

関連:戦争はなぜ起こるか2 マスコミと戦略が起こしたクリミア戦争 - リアリズムと防衛ブログ

軍隊による戦争

第一次大戦の兵士たち

 軍隊は国民の道具です。ですが国民が軍隊をうまく扱えないとき、軍隊は国家防衛という自らの義務を果たそうと、ほとんど自動的に動くことがあります。

 第一次世界大戦が勃発したとき、国家のすべては軍隊の計画にあわせて動かされました。その計画を作ったはずの軍隊ですら、逆に戦争計画にふりまわされていました。ほんのささいな軍事技術的な問題が、国家全体を振り回して世界大戦へ突っ込んだのです。

技術的なこと以外は何ひとつ重きをおかれていなかった。ロシアが動員するなら戦争を始めなければならぬ――それだけであった。*2

そして史上初の世界大戦が起こりました。百や千という単位ではなく、百万、千万という単位で人間が死ぬことになりました。

関連:戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦 - リアリズムと防衛ブログ

ヒトラーはなぜ進軍したのか

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 それらの戦争が開始されたとき、政府や軍隊、そして国民の頭の中にあったのは「たぶん勝てるだろう、勝てば利益を得られるか、不利益を免れることができるだろう」という楽観だったようです。

 第一次世界大戦で地獄をみた、そのわずか数十年後に起こった第二次大戦でも似たようなものです。ヒトラー率いるドイツはソ連に侵攻して、手痛い目にあいます。なぜそんな無謀な遠征を行ったのでしょう。テイラーは言います。

 記録を見れば、対ソ戦の開戦が決定された理由は明らかである。ドイツの将軍たちもヒトラーも自国の勝利にわずかの疑念も抱いていなかった。それならばなぜ進軍しないのか。実に簡単極まりないことであった。*3

 ヒトラー以外の、戦争を開始した政治家、軍隊、市民たちもまた「勝てるだろう」と思っていました。あるいは、勝つだろう、負けるだろう、などと判断できないほど軍事に無知でした。

真珠湾攻撃の日にヨーロッパで起こったこと

真珠湾に沈みゆく戦艦アリゾナ

 太平洋戦争の日本もまた、一部を除いて、国民の多くに「神国日本は必ず勝つ」という無根拠な思い込みがあったようです。また冷静に戦争計画を立てておくべき軍隊にさえ、まともな戦争終結プランはありませんでした。

そこにあったのは「ヨーロッパでドイツが勝てばアメリカは講和に応じるだろう」という恐ろしく他人任せな願望、それだけでした。そんな都合のいい見通しで始められた太平洋戦争は、真珠湾奇襲の大成功でスタートします。

 ですがまさにその日、ヨーロッパにおいては、必敗の運命が明らかにされつつありました。

一九四一年十二月七日、日本は真珠湾攻撃を決行した。…十二月七日にはソ連軍がヨーロッパの東部前線で反撃に転じていたのであるから、日本は時機を完全に誤ってしまったわけである。*4

 日本の戦争終結計画は「ドイツが勝つ」ことを前提として対米戦にうってでました。その開始たる真珠湾攻撃と同じ日に、その前提が崩壊を始めていたのです。

第三次世界大戦は起こるのだろうか?

 これまで見てきたように、国を動かしているのが政府であれ、軍であれ、国民であれ、その国が「勝てる」と判断する限り、戦争はいつでも起こりうるように思われます。

 だからほとんど国は、自前の軍隊をもっています。自国への侵略を予防するためです。これを「抑止」といいます。

 国際社会の平和、その根元は抑止によって支えられています。第二次世界大戦が終わって以降、三回目の大戦は(冷戦をそれとみなさないなら)まだ起こっていません。それは核戦力を含む軍備が世界大戦を抑止してきたためだといわれています。

 しかし、だからといって、完全に戦争を防ぐことは到底できないでしょう。実際、抑止を含むあらゆる努力は、これまで何度となく破綻してきました。テイラーは遠慮がちに、こう言ってます。

「第三次世界大戦は起こりますか」ときかれたら、「人間の行動様式が過去も未来も変わらぬものであれば、第三次世界大戦は起こるでしょう」と私は答えよう。


…個人的な考えを述べるならば、第三次世界大戦は起こりそうもないことではあるが、それでいて、やはりありうることだと思う。抑止力は、いつの日かその機能を果たさなくなるものなのだ。*5



戦争を先送りにする努力

 このテイラーの考えには「戦争は起きるときには起こるものだ」というある種の諦めがみてとれます。私も彼に賛成です。

 ですが「抑止はいつか破綻するし、その時は戦争が起こるだろう」と悲観的に考えることは、しかし、「だから戦争は防げないのだ」と投げやりになることとは違います。

 抑止はいつか破綻してしまうでしょうし、それどころか今日この時だってちゃんと機能しているかすら、はっきりとは分かりません。ですが、抑止を土台とする努力が戦争の予防に有効だということは否定しがたいことです。

 この世から戦争を無くすことはできないとしても、今日それが起こる蓋然性を引き下げることは可能なのです。たとえいつの日か戦争が起こるとしても、その日を先送りすることはできるのです。

限定された平和であっても、それを求めるということ

 もちろん、その種の努力によって世界が全て平和に保てたわけではありません。大戦は起きなくとも地域限定の戦争は頻繁に起こったし、今でも世界各地で続いています。またいつの日かはあらゆる努力が破れて、第三次世界大戦すら起こるかもしれません。人間の知恵には限界がありますから、いつの日か致命的な錯誤や不合理をおかすでしょう。


 ですが、破局が起こるのが1年後なのか、それとも100年後になるのかは大きな違いです。その間に生涯を終える数十億の人びとにとっては、ほとんど絶対的な違いだといっていいでしょう。地域や期間を限定された平和であっても、そこで暮らす人びとにとってはこの上なく貴重なものです。

 その平和は、決してユートピア的なものではありません。笑顔で握手しながら、テーブルの下では銃をもっていて、互いにそのことを承知なのです。それが国際社会の常態です。

現在、国際的な緊張というものは、人びとが想像するほど異常なものではない。実際のところ、主権国家間の正常な関係とは、相互に不信を抱き互いに対立する野心を追及することなのである。*6

 そのように不信と不安定に満ちた国際社会で、あるいはいつか破綻するのだとしても、不安定の中のバランスを絶えず希求し、戦争を果てしなく先送りしていくことが、限定された平和を維持する恐らく唯一の手段なのです。

お勧め文献

国際政治―恐怖と希望 (中公新書 (108))
高坂 正尭
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*1:p56 「戦争はなぜ起こるか」 AJPテイラー

*2:p139 同

*3:p169 同

*4:p179 同

*5:p220-221

*6:p188