リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

ある冬の戦争の始まり

モスクワにとって、それは安全の問題です。徐々に強大化している西方の敵対勢力がその地域に進出すれば、居ながらにしてロシア人の主要都市を脅かすことができます。

だからその国を緩衝地帯、あるいは衛星国に変えてしまわねばならないのです。相手は小国。軍事力の優位はモスクワにあります。国境に大軍をはりつけ、それを背景にした交渉を行えば、緩衝地帯をもぎ取れるでしょう。

しかし、もし交渉相手がどうしても首を縦に振らない時には? その首は切り落とされるのがお似合いです。

1939年の冬に戦争が始まり、ソビエト連邦がフィンランドを侵略したのは、大略そのような理由でした。

戦争放棄の国際法を無視し、他国の主権を踏みにじる侵略。それをソビエト連邦はどのように正当化し、国際社会はどう反応したのでしょう。

戦争原因 緩衝地帯たるべきカレリア地峡

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カレリア地峡

ロシアとフィンランドの国境にある、海と湖に挟まれた陸地がカレリア地峡です。この地域はロシアの主要部から近く、ここがフィンランドの手にあるとき、ロシアの指導者たちは常に脅威を感じていました。

「セント・ペテルスブルグの貴婦人たちは、フィンランドの国境がかくもわれわれの首都近く走る限り、安眠することはできない」とピョートル大帝はヴィイープリ(ヴィボルグ)およびカレリア占領の説明として書いた。

ルイス・フィッシャー「平和から戦争への道―スターリン外交の25年―」p638

また、ロシアの主要部は海に近く、イギリスなどの海軍がフィンランド湾に乗り込んでくれば海からも脅威を受けます。ロシア帝国がソビエト連邦に替わっても、このような地勢の状況は不変です。

1919年にもソ連は、北方からフィンランドの白軍、西南からユデニチ軍、海上からイギリス艦隊が迫って、首都レニングラードが危険に瀕した経験をもっていた。フィンランドはカレリア地峡に要塞をきずいたが、そのためレニングラードはあたかも銃をつきつけられたかのように感じられた。この要塞の長距離砲はたった32キロしか離れていない同市を容易に砲撃できるといわれた。

ゲオルク・フォン・ラウホ「ソヴェト・ロシア史」p273

西方をみれば、ナチス・ドイツが周辺国から次々と領土を奪い、既にポーランドに侵攻し、さらに東方へ拡大しつつありました。ドイツとは不可侵条約を結べたとはいえ、すでに戦争が始まった欧州において、防波堤を確保することは急務だ、というのがモスクワにとっての真実でした。緩衝地帯だか衛星国だかにされる国の国民の意志は、問題とはされませんでした。

軍事力を背景とした交渉

そこでソ連は、フィンランドとの国境に大軍を終結させ、領土要求を突きつけました。カレリア地峡の国境を数十キロ北にずらすこと。フィンランド湾の入り口にあるハンコ岬周辺を租借し、ソ連軍の基地を置くこと等。実現すれば、レニングラードにとって陸・海両方の防波堤となります。

タダとは言いません。引き換えに、それに倍する面積のソ連領を割譲するから、交換しようぜ、というのです。

しかし、面積の中身をみれば、これは対等な取引とはいえませんでした。フィンランドが差し出す数十キロ圏には、フィンランドが独立以来、営々と築いてきた対ソヴィエト防御陣地の多くが含まれています。ここを差し出せば、フィンランドの国土はソビエト軍に対して無防備です。さらに、呑みがたいのはハンコ岬の租借でした。この地はフィンランドの首都ヘルシンキへの足掛かりにもなります。そんなところにソ連軍を駐屯させるのは危険極まりないことです。

それに対し、ソビエトが差し出すといった広大な土地は未開の地で、経済的にも軍事的にも価値が低いものです。容易に呑める条件ではありませんでした。

フィンランドはわずかしか妥協せず、数十キロではなく十キロ、ハンコ岬ではなくその近くの島々なら譲ってもいい、という、国力差にしては強い姿勢にでます。

その程度の妥協では、ソ連にとっては不十分でした。交渉が決裂すれば、ソ・フィン国境に集結したソ連の大軍が今にも攻め込んでくるかもしれません。

平和を愛し、戦争を放棄した国際社会

軍事力を背景とした、このような威嚇は、当時の世界ですら時代遅れ、国際社会の法と秩序を無視するものでした。人類は第一次世界大戦の反省から、二度と戦争を起こしてはならない、という決意を既に形にしていました。不戦条約と国際連盟です。

1928年に調印、29年に発効された不戦条約は、戦争を放棄し、国家間の問題は必ず平和的に解決するよう定めています。国際連盟規約は、加盟国の間で紛争が起こったときは、戦争をするのではなく、これを仲裁裁判や連盟理事会の審査により、平和的に解決するよう定めています。

戦争は違法となり、放棄され、時代遅れのものになっていたのです。ソ連も国際連盟に加盟していましたから、本当にフィンランドに侵攻すれば国際法違反、諸外国の反発は必至です。おまけにソ連とフィンランドは不可侵条約も結んでいます。これをどうしたものでしょうか?

でっちあげの偽旗攻撃 マイニラ事件

国際社会への言い訳もさることながら、国内の意思統一のためにも、ソ連は何か都合のいい事件を欲していました。戦争には大義名分と口実が欲しいものです。

日本も中国を侵略する際、その口実に張作霖爆殺事件や柳条湖事件を起こしました。中国軍が攻撃してきたので、中国にいる日本人居留民を保護するためにやむを得ず軍隊を送る、という体裁を作りたがったのです。

ソ連が先にフィンランドを攻撃すれば侵略でしょう。でも、最初に撃ったのがフィンランド軍なら。ソ連は、やむをえず自衛のために反撃したと言い張れます。侵略国が相手からの攻撃をでっちあげる、このような手口を偽旗(false flag)といいます。

11月26日、ソ連の外相モロトフは、フィンランド側にこう伝えました。

カレリア地峡のマイニラ(Mainila)近郊でフィンランド領から砲撃をうけ、死者四名、傷者九名をだした。国境におけるフィンランド軍の増結はレーニングラードにたいする脅威のみでなくソビエト連邦にたいする敵対行為である、かような事件が再びおこらないためにフィンランド軍が国境線から20-25キロメートル撤退すること

尾上正夫「ソビエト外交史Ⅲ ―スターリンの臨戦外交政策―」p53

軍事力で圧倒的に不利なフィンランド側からこのような挑発行為を行うでしょうか? 事件があったとされた時刻、フィンランド軍は、ロシア側から砲撃らしき音を聞いたのみでした。

話し合いの余地なし

翌27日、フィンランドは戦争を避けるため、できるだけ公平な提案を返しました。自軍だけではなく、ソ連軍も国境から撤退し、事件については調査委員会を組織するよう申し出たのです。

平和的な話し合いの提案は、しかし、既に戦争を決意している相手には通じません。ソ連から返事は、不可侵条約の破棄でした。

ソビエト軍隊に犯罪的砲撃を加えたにもかかわらず、その軍隊の撤退を拒否したことは、フィンランド政府が依然ソビエト連邦に対する敵対的行為を固執し、不侵略条約を順守する意思なく、レーニングラードを不断の脅威のもとにおこうとする意思を明らかにするものである。ソビエト政府はかかる不侵略条約の侵犯を看過することはできない。
したがってソビエト政府は、今日以後ソ芬(フィン)間に締結された不侵略条約から生ずる一切の義務から解除されたものと考える。

尾上正夫「ソビエト外交史Ⅲ ―スターリンの臨戦外交政策―」p53

フィンランド軍が先制攻撃をし、不可侵条約を先に破った、という体裁です。ソ連はこれを口実に、フィンランドから外交代表を引き上げ、国交断絶を宣言します。

国交断絶に慌てたフィンランドは、国境からの一方的撤退を丸のみした譲歩案を提示します。

しかしソ連はこれを無視。11月30日、フィンランド首都ヘルシンキをソ連の爆撃機が襲いました。冬戦争の始まりです。

全面侵攻

冬戦争の背景はカレリア地峡等の一部地域をめぐる対立でしたから、ソ連軍の侵攻は係争地のみの限定侵攻だったのでしょうか? 

いいえ。モスクワは、そんな生っちょろいことはしません。カレリアのみならず、係争地ではない部分を含む広大な国境からの全面攻撃を開始しました。

一部地域だけ奪うというのは、開戦前の戦争目的です。その後、ソ連は国際社会の批判を覚悟で戦争に打って出るというリスクをとっています。とったリスクに見合うだけ、より大きいリターンを望むのが当然というもの。

そこで、戦争からより多くを得て、国家間の武力行使を違法とする国際法に対する言い訳にもなる、そんな方便を作り出しました。

傀儡国家の承認と同盟

12月1日、もう1つフィンランドが誕生しました。フィンランドの共産党員であり、長らくソ連に亡命していたクーシネンを首班とする「フィンランド民主共和国」が樹立を宣言。ソビエトはこれを国家承認し、直ちに相互友好条約を締結したと発表します。

フィンランドの人民が自らつくった正当な政府が、助けを求めているのです。ソ連はこれに応え、不当な政府を倒し、正しいフィンランド政府を擁護するために解放戦争を戦うと称しました。

開戦に慌てた本来のフィンランド政府は、開戦前のソ連の要求を丸のみする譲歩案をもって交渉を試みますが、話し合い自体を拒否されます。

「かような政府との交渉は問題となりえない。ソビエト政府は、すでにソビエト政府と相互援助・友好条約を締結したフィンランド民主共和国のみをみとめている

尾上正夫「ソビエト外交史Ⅲ ―スターリンの臨戦外交政策―」p58

相互友好条約には、フィンランドがソ連以外と同盟しない、ソ連軍の駐留を認める等を定めています。傀儡政府を立て、完全な属国化を目指していることは明白でした。

明らかな侵略戦争、国際法を踏みにじる行為に対し、国際社会はどのように対応したでしょうか? 

国際組織と国際社会の幻想

フィンランドはソ連による侵略を国際連盟に提訴、連盟総会が招集されますが、各国の対応には温度差がありました。

まず、当事者のソ連は総会への出席を拒否します。戦争などしてない、いまは平和だ、呼ばれる筋合いナシ、と言うのです。

ソ連は、フィンランドと戦争状態にはなく、また、フィンランド国民に対して戦争による恫喝を加えてもいない。ソ連は、12月2日にソ連と友好条約を締結したフィンランド民主共和国と、平和な関係を維持している。

百瀬宏「東・北欧外交史序説」p260-261

ソ連抜きで行われた連盟総会で、国際社会は一致団結して平和を擁護、侵略戦争を批判したでしょうか? そこには温度差がありました。

平和への熱意は、戦場からの距離に比例しました。ソ連と直に国境を接しているか、フィンランドに近くて戦争に巻き込まれそうな国は及び腰です。巻き添えを食ってはたまらないからです。

遠方のラテンアメリカ諸国は強硬にソ連を弾劾した。スカンジナヴィア諸国はソ連を批判するより、フィンランドを援助する方が現実的だとして穏健論を唱えた。ソ連と国境を接しているイランやアフガニスタンは、議場に姿をみせなかった。

百瀬宏「東・北欧外交史序説」p261

結局はラテンアメリカ諸国の強硬な主張により、国際連盟からソ連を除名することが決まりました。だからといって、ソ連軍の侵攻が止まることはありませんでした。

第一次世界大戦後、戦争の違法化と国際連盟の設立は人類史上の画期でした。しかし、それだけで世界の平和を守れることはできませんでした。国際社会の法的な改善のみによって平和を守れるという考えは、残念ながら幻想主義(ユートピアニズム)に過ぎないことが明らかになりました。

地球上の一、二の国民を力への欲求から解放しても、他の国民のそれがそのままならば、それは無益かつ自己破壊的でさえある。力への欲求から逃れた人は他の人の力の犠牲になるだけである。

ハンス・J・モーゲンソー「国際政治: 権力と平和 上」p37

ソ連の力の完全な犠牲者となることを避けるため、フィンランドは圧倒的に不利な戦争を戦うしかありませんでした。

フィンランド側の幻想

開戦前、フィンランドの政軍首脳は強硬派と譲歩派に分かれていました。

大幅な譲歩を主張していた要人の中には、フィンランド軍の最高位を占めるマンネルハイム将軍も含まれていました。マンネルハイムは開戦前、強硬論を主張する首相をいさめ、大幅に譲歩してでも戦争を回避すべきだと主張していした。

「我々は必ず合意に達しなければならない。軍隊は戦うことはできない。

自分を守れない国は、外国の援助を期待することもできない」

植村英一「グスタフ・マンネルヘイム p.147

戦前、戦中の日本のことを考えれば、軍人が対外譲歩を説くとは奇妙な気がします。しかし独立前はロシアで長い軍歴を積んだマンネルハイムは、建国まもない自国軍とソ連軍には大差があると考えていました。戦えば負ける、と冷静に予想していたのです。

これに対し強硬派の首相、国防相らは、楽観的な見通しを持っていました。万が一戦争になっても、そうやすやすとは負けないだろうし、国際社会が放っておくわけがないし、そのように考えればソ連だってまさか戦争に踏み切る可能性は低いだろう、と思っていました。ならば、毅然とした態度で交渉に臨めば、ソ連から妥協を引き出せるだろう、と考えていたのです。

首相や国防相ほど強硬ではなかったものの、マンネルヘイムよりはやや強い立場をとっていた政治家タンネルは、開戦後にこう述べています。

「われわれは間違っていた。戦争にはならないと思っていたのだ。

 それがいまや戦争になった。わがほうは弱く、敵は強い。」

百瀬宏「東・北欧外交史序説」p238

このような楽観主義の背後には、独立以来のフィンランドの基本的な国家姿勢がありました。やっとロシア人の支配から解放されて独立を果たした以上、今後はロシアに従属せず、中立国として自立路線を歩みたいと考えていました。

しかし、フィンランドが自立を考えても、ソ連とフィンランドの地理的関係が変わったわけではないのです。ソ連との交渉を担当したフィンランドの駐スウェーデン公使パーシキヴィは、交渉の中でソ連の姿勢を感じ、大幅な譲歩による戦争回避を説いて、こう述べています。

われわれは20年間というもの幻想にひたって生きて来たのだ。

(1917年の独立以来)われわれは、自由に自分の運命を決めることができると思ってきた。われわれは中立とスカンディナヴィア接近をわが国の対外政策の方針として選んできた。

だが、いまや真実が現れてきている。わが国の地理的位置がわれわれをロシアに結びつけているのだ。だがそれは、それほどおぞましいことであろうか。
百瀬宏「東・北欧外交史序説」p235

隣接する大国と小国の基本姿勢が一致せず、一致しないままにおくことを地理が許さないとき、その戦争を止めることは国際社会にはできませんでした。

大国ソ連はその軍事力によって、自らの勝手な考えをフィンランドに押し付けることができました。

フィンランド側は、独立以来の反ロシア・ナショナリズムと中立政策への志向から、楽観主義に陥ってソ連の決意を見誤りました。

国際紛争を武力によって解決するのは違法だ、とする国際社会の制度は、有無を言わさない軍事力を止めることはできませんでした。

冬戦争の結果、フィンランドは奇跡のような奮戦をみせ、独立を何とか保ちました。その代償は約6万6千人の死傷者。このうち死者は25250人であり、39歳以下の成人男性の3.5パーセントが、わずか100日余りの間に戦死しています。そして国内第三の都市ヴィープリを含め、国土の約10分の1を失い、そこに住んでいたフィンランド人は故郷を失いました。

さらに悲劇的なことに、この痛みの復仇を求め、更なる継続戦争へ陥っていくことになります。

 

ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)解説シリーズまとめ

第四次中東戦争の流れ

この戦いは両国の間にある「シナイ半島」を巡って行われました。一つ前の戦争、第三次中東戦争で完勝したイスラエルは、シナイ半島を支配していました。国土が狭いイスラエルに取って、自国を安全に守るためにはシナイ半島を領有し、盾とする必要があったのです。しかしエジプトに取って、これは許されない屈辱でした。シナイ半島はエジプトの正当な領土だと考えていたからです。

そこでエジプトは大軍を用意し、スエズ運河の東岸に渡ってシナイ半島に上陸。イスラエルを奇襲攻撃します。イスラエルはエジプト軍の動きについて正確な情報を掴んでいましたが、その解釈を完全にミスしたので、戦争が起こるとは思っていませんでした。「まさか、戦争になんかなるはずがない」と思い込んでいたのです。 

 奇襲を許したイスラエル軍は、早速反撃に出ます。強力な戦車部隊を差し向けたのです。ところが、これを予期していたエジプト軍が多数の対戦車兵器を揃え、防御を固めていました。イスラエルの戦車部隊は、歩兵や砲兵の援護を欠いていたので、散々に負けてしまいます。
 イスラエル軍のもう一つの柱、中東最強の戦闘機部隊は、アラブ軍を圧倒していました。シナイ半島どころか、敵国エジプト領にさえ進出することができました。しかし、そんなイスラエル空軍ですが、この戦争で重要なポイントとなったスエズ運河付近の狭いエリアにだけは、近寄ることもできませんでした。

スエズ運河の西岸に多数の対空ミサイルや対空砲が集中し、守りを固めていたため、近寄ればイスラエルの戦闘機も次々に撃墜されてしまいました。空は広く、空の戦いは流動的なものなので、多くの空で勝ったからといって、それだけで戦争に勝つことはできないのです。

そこで、態勢を立て直したイスラエル陸軍が反撃に出ます。緒戦で完敗した原因は「戦車だけで活動して、対戦車兵器にやられた」というものでした。歩兵に守られていない戦車は脆弱です。しかし戦車に守られていない歩兵も同じように脆弱です。そこで、歩兵と戦車をバランスよく組み合わせ、反撃準備を整えました。

準備を整えたイスラエル陸軍は、スエズ運河の西岸に渡ってエジプト領に突入するストロング・ハート作戦を発動。エジプト軍の対空ミサイル群を一掃します。これで空軍も活動できるようになりました。

スエズの東岸では、帰り道を無くしたエジプト陸軍の第3軍がシナイ半島で周りをイスラエル軍に完全に包囲されて孤立。全滅するか、降伏するかしかありません。第3軍が壊滅すれば、エジプト軍はせっかく取り返せそうだったシナイ半島から追い出されます。

 しかし、ここで待ったがかかります。これ以上、戦場でイスラエルが勝利すると、かえってまずいことになると思われたからです。

戦争は、相手の軍や国を叩きのめせば終わるのではありません。お互いに納得できる形を見出し、昨日までの敵と手を結んだ時にこそ、戦争が終結するのです。そのためには、エジプト軍が健在なまま、サダトが勝利を主張できる間に、停戦する必要がありました。

エジプトは戦場では負けましたが、シナイ半島に軍が残っていたことで「勝利した」と主張し、サダトは英雄になりました。イスラエルは戦場では勝ちましたが、緒戦の惨敗から国民の支持を失い、ゴルダ・メイア首相は辞任します。

勝利を主張したサダトは、絶大な権威を得て、そして初めてイスラエルとの和平を模索することができました。戦争を決意し、「100万人の犠牲を出しても」という固い決意で開戦し、兵士たちの血を流した英雄サダトだからこそ、国民に対してこう言う資格がありました。

 ちっぽけな領土よりも、平和の方がずっと大切だ。もう戦争はやめよう。 

参考文献

 

ヨムキプール戦争全史

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ゴランの激戦―第四次中東戦争

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中東戦争全史

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砂漠の戦車戦―第4次中東戦争〈上〉

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砂漠の戦車戦―第4次中東戦争 (下)

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戦争はどのように平和をもたらすのか? ヨム・キプール戦争6

 第四次中東戦争は、エジプトを中心とするアラブ軍と、イスラエルとの戦争です。戦争はエジプト軍の奇襲作戦が大成功したところから始まりました。しかしイスラエル陸軍の反撃が成功すると、エジプト軍は一転して壊滅の危機に晒されます。

それなのにイスラエルの反撃には政治的な「待った」がかかります。このまま反撃すれば完勝できるのに、なぜでしょうか?

この記事では、第四次中東戦争から、戦争の終結について考えていきます。

関連する過去記事のまとめはこちらです。

 

エジプト軍を包囲したが、トドメをさすのは禁止

イスラエルの反撃作戦が成功したことで、シナイ半島東岸では、エジプト陸軍第3軍が孤立していました。第3軍はシナイ半島を奪還するため、スエズ運河を東に渡ってきました。しかしイスラエル陸軍がエジプトの防衛線を突破し、逆にスエズ運河を西に渡ったため、第3軍は退路を絶たれてしまったのです。

食料や弾薬の補給は途絶え、援軍のあてもありません。孤軍で戦ってもイスラエル軍に勝てる見込みはナシ。このまま防御を固めても、食料さえ事欠くようになっては、どうにもなりません。

ところが、イスラエル軍はそんなエジプト軍を攻撃しませんでした。アメリカからストップがかかったのです。第3軍は何とか全滅を免れ、それどころか空中から食料を投下してもらえたので、敵のど真ん中で細々と食いつなぐことができました。

アメリカの思惑

アメリカはイスラエルの同盟国です。一時は負けそうになったイスラエルを何とか支援してくれました。それなのに、イスラエルが勝とうとすると、それを止めたのです。それは、外交を主管する国務長官のキッシンジャーが、こう考えたからです。

エジプト、イスラエル双方はそれぞれ交渉のカードを持っている。イスラエルは第三軍を包囲しさらに西岸に進出しており、エジプトも東岸に橋頭堡を有している。つまり、双方とも取引材料を手にしているから、交渉の望みはある。

(p273  「図解中東戦争」 ハイム・ヘルツォーグ)

もしこのまま行けば、イスラエル軍は第3軍を殲滅し、エジプトの首都に肉薄するでしょう。

イスラエル軍機甲部隊の前に立ちはだかるべき部隊はほとんどなく、カイロへの道は空家同然である。(砂漠の戦車戦 下」p246)

そうすればイスラエルの完勝になりますが・・・それではシナイ半島に平和が訪れないでしょう。完勝したイスラエルは、エジプトに対し何一つ譲歩しないだろうからです。するとエジプトの恨みは残り、また力を蓄え、いつか第五次中東戦争を挑むでしょう。

このような考えから、アメリカはイスラエルに圧力をかけて進軍をストップさせ、停戦を受け入れさせました。イスラエルのゴルダ・メイア首相は、目の前にあった勝利を無理やり我慢させられたため、「敵と戦う方が、味方と戦うより易しい」と嘆息しています。 

しかしここで、敢えて戦場での勝利を逃したことが、イスラエルとエジプトの和平への足がかりになり、イスラエルにも長期的な利益をもたらします。 

戦争解決のPINモデル

とはいえ、殺しあっていた相手と、どうやって交渉し、納得がいく落とし所を見つければいいのでしょう? 戦争が始まる前に散々話し合ってもラチがあかなかったのに。

紛争研究では、争点を「立場(Position)」から「利害(Interest)」へ、そして「ニーズ(Needs)」へと移していくことで、妥結が可能になるというモデルがあります。このモデルに当てはめて、第四次中東戦争を見てみましょう。

イスラエル建国以降、エジプトは一貫して、イスラエルという国の存在を認めませんでした。「どこが国境線か?」という以前に、イスラエルという国の存在自体を否定していたのです。イスラエルの存在を認めるか?という大きな「立場(Position)」の違いがありました。

しかし、エジプトの指導者サダトは、この主張の非現実性に気づいていました。そんなこと言ったって、三度も中東戦争をやって、イスラエルは確固たる領土を築きました。その上、密かに核兵器まで持っています。今更「イスラエル滅ぶべし」と思っても、そんなの無理です。

だからサダトは、初戦で勝利した後も、エルサレムまで攻め込もうとはしませんでした。全面戦争を避け、あくまでもシナイ半島の領有権を巡る制限戦争をやるつもりでした。この時点で、密かに「立場(Position)」の問題は解決しつつありました。

次はシナイ半島を巡る「利害(Interest)」の問題です。イスラエルにとってシナイ半島は、本土防衛のための防壁として重要でした。エジプトにとっては、長年の領土をイスラエルに奪われたままでは我慢がならず、そんな状態で共存なんてできない相談でした。

そこで「イスラエルはシナイ半島をエジプトに返す。エジプトはシナイ半島を領有するが、そこに軍隊を置かず、非武装化する」という妥協が成立します。失地回復というエジプトの大義名分と、本土防衛を確かにするというイスラエルの安全保障が、共に満たされるのです。

その保証人として国連PKOがシナイ半島に展開することで、双方の利益が共に達成されます。相手を攻めようとすればPKOに参加している世界中の軍隊を蹴散らさないと行けないから、流石に相手国もそんなことはしないだろう、とお互いに安心できます。

こうして両国が共存できれば、お互いにとって重要な中東の安定化というニーズ(Needs)が満たされます。お互いに貿易や観光をすれば、経済的利益が上がり、豊かになることができます。

イスラエルは、シナイ半島を失いますが、その代わりアラブの盟主だったエジプトから国家承認を取り付けることができ、長期的にはこれまでよりずっと安全になります。

エジプトは「あのイスラエル軍を破って、シナイ半島を実力で奪還し、勝利した」という名誉を得ます。不倶戴天のイスラエルと普通に共存したら、自国の権威が失墜してしまいますが、戦争に勝った(と主張した)上での名誉ある和平ならば、何とか格好がつきます。

こうして両者の「イスラエルの国家承認に関する立場」が一致し、シナイ半島を巡る失地回復と安全保障という「利害」が解決され、戦争を繰り返すことなく共存するという双方の「ニーズ」が満たされ、平和への道が開かれました。

それは、PKOの長い長い駐留を必須とする不安定な平和、疑心暗鬼の間に成立した妥協でした。それでも、戦争が始まる前によりはマシな平和が、かろうじて成立したのです。

血まみれの握手

イスラエル軍は最終的には優勢だったものの、奇襲を許した失態は国民から強く批判されました。国民から「おばあさん」のように慕われていたゴルダ・メイア首相もでしたが、彼女を批判するデモ隊が掲げたプラカードにはこう書かれていました。

「おばあさん、あなたの国防大臣は能無し! あなたの孫が3000人も死んだ!」

こうして、ゴルダ・メイア首相はやがて政権を失います。一方、彼女はエジプトのサダト大統領をこう評しました。

「彼は英雄になるでしょう。何しろ、私たちに立ち向かったのですから」 (ゴルダ・メイア)

まさに、サダトはそうなる必要がありました。もう少しでエジプト首都カイロまでイスラエル軍に襲われそうでした。しかしその寸前に停戦に合意したことで、サダトは英雄になります。「イスラエルに戦争を挑み、シナイ半島を取り返した」と言う格好がつき、サダトは巨大な権威を手にしました。

サダトが最初から「イスラエルと共存したい」なんて言い出していたら、一夜にして権力を失っていたでしょう。アラブにとってイスラエルは憎んでも憎みたりない大敵なのです。

戦争を挑み、辛くも勝利を得て、そうして初めて、サダトはイスラエルに、このように語りかける資格を手に入れたのです。

「私の言葉を真剣に受け止めなければなりません。私が戦争と言ったら、それは本気でした。私がいま和平の話をすれば、それは本気であるということです。…話し合おうではありませんか」(サダト)

「100万の犠牲を出しても」と声明して戦争を開始したサダトは、戦後、イスラエルとの和平を模索するなか、自国民に対してはこう言っています。

ちっぽけな領土よりも、平和の方がずっと大切だ。もう戦争はやめよう。(Peace is much more precious than a piece of land… let there be no more wars.)(サダト 1978年3月8日カイロでの演説)

サダトはイスラエルを訪問した初のエジプト大統領となります。そしてイスラエルとの間に歴史的な平和条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞。その数年後に暗殺されます。第四次中東戦争の戦勝記念パレードを観閲しているさなかのことでした。

戦争は平和のために戦われる

戦争は、多くの場合、何らかの争点を巡って始まります。戦争は敵と殺すためではなく、敵国に自国の意志を強要するためにあります。自国の意志を通したあとはどうするのか? もちろん、昨日までの敵と手を結び、共存するのです。

現代を代表する戦略家の一人、コリングレイはこう述べています。

戦争は平和を達成するために戦われるものである・・・しかもそれが「どんな平和でもよい」ということではなく、「戦争を戦っても手に入れたいような平和」なのだ。

戦争とは、言葉ではなく銃と血を持ってするコミュニケーションの一種であり、相手との新しい関係を構築する過程なのです。

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ヨム・キプール戦争で戦死したイスラエル軍兵士の墓碑 photo by David Lisbona
参考文献
ヨムキプール戦争全史

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砂漠の戦車戦―第4次中東戦争 (下)

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〈図説〉中東戦争全史 (Rekishi gunzo series―Modern warfare)

 
歴史群像アーカイブ volume 14―FILING BOOK 中東戦争 (歴史群像シリーズ 歴史群像アーカイブ VOL. 14)

歴史群像アーカイブ volume 14―FILING BOOK 中東戦争 (歴史群像シリーズ 歴史群像アーカイブ VOL. 14)

 
ゴランの激戦―第四次中東戦争

ゴランの激戦―第四次中東戦争

 
図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで

図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで

 

真珠湾と原爆について思うこと

永井陽之助の著書の中に、こんな懐古の一節があります。アメリカでの体験談です。

ある一般市民の会で、たまたま私がヒロシマの原爆投下に言及したとき、間髪をいれず、「パール・ハーバーはどうした」という反撥がかえってきた。

この経験は、私一人だけのものではない。繊維産業から自動車にいたる日米経済摩擦でどれほどパール・ハーバーの語が米国の議員・ビジネス指導者の口からもれたことか。

(「歴史と戦略 (中公文庫 な 68-2)」p20)

卑怯な日本、非人道的な日本。その象徴がパール・ハーバーでした。奇襲攻撃を受けた側にとって、これは自然な記憶の仕方かもしれません。

多くの日本人にとって不可思議なことは、それが原爆投下と交換できることのように語られてきたことです。永井は、著書の中でこう続けています。

長崎への原爆投下の数日後、トルーマン大統領自身、友人にあてた私信で、「私ほど原爆投下で心を乱されたものはいない。しかし、私は真珠湾の奇襲や、戦時捕虜の殺害で同様に大きく心を乱されてきた。

日本人が理解するとおもわれる唯一の言葉は、かれらをやっつける例のもの(原爆のこと)しかない。けだものを扱うには、けだものとして遇するしかない。残念ながら、これは真実だ」と書いて、暗にヒロシマ・ナガサキにたいする原爆投下を、真珠湾の奇襲で正当化しようとしている。

(中略)

われわれがヒロシマ・ナガサキを永遠に忘れないように、かれらのパール・ハーバーを永遠に忘れない。アメリカ人の深層心理において、パール・ハーバーはヒロシマに匹敵する重みをもつ「象徴」となっている。(「歴史と戦略 (中公文庫 な 68-2)」p20-21)

軍事施設を攻撃目標とする奇襲先制攻撃と、民間人を主な攻撃目標とした大量破壊兵器の使用は、さまざまな観点からみて質の異なることです。多くの日本人からすると、パール・ハーバーを持ち出して原爆投下の人道に対するような論法は、受け入れがたいものでした。

とはいえ、そのような認識の相違は、半世紀に渡り言い合っても、決着がつくものではありません。人類が国境を越えてたやすく分かり合えるとすれば、戦争はとっくに根絶されているでしょう。

分かり合えない理由は山ほどあり、理屈をつけるなら、対立する両者に理屈がつくものだから、無理に白黒つけようとすれば、血みどろの殺し合いを永遠に続けるしかありません。

それでも分かり合える点があり得るとすれば、意見がことなる両者の間にも、それぞれ大事なものがあるということです。戦う目的、争う理由は違っても、戦争によって負った痛みは共通です。

日露戦争において日本が勝利を収めた際、乃木希典将軍はこう述べたそうです。

「わが海軍は大勝を得ました。しかしわれわれは、敵がその運命において大不幸を見たことを常に忘れてはなりますまい。また、われわれは、わが勝利の祝杯をあげる時、敵が苦悩の時期にあることを忘れないようにしたいものであります。われわれは、彼らが不当に強いられた動機で死についた立派な敵であることを認めてやらねばなりません。次にわれわれはわが軍の戦死した勇士達に敬意を表し、そして敵軍の戦死者に対する同情をもって杯を乾すことにしましょう

翻って現代、戦争には至らないまでも、国家間の対立は数多くあります。双方は確かに利害において、思想において相容れないとしても、他者なのだからそれはそれで当たり前です。なのに自分こそ正義、相手こそ悪のように言い合い、相手がそのように考えること自体を否定するようになります。

対立の過程で、相手を悪党にし、自分を善玉のように論じるのは、有効な戦術です。国際世論の同情を我が身に惹きつけ、批判を対立国に向ければ、有利に立てるという世論戦です。

しかし、注意すべきことは、そのような論争のための戦術に、自ら騙されないことです。国民が我が国こそ正義と思い、対立する国は悪と思えば、その間に妥協の余地がなくなります。

相手が道理の通じないけだものだと思えば、けだもののように扱ってしまうでしょう。その頃には、みんな忘れているのです。他者をけだもの扱いする者が、最も野蛮な者だということを。

そして決定的な衝突が起こってしまえば、それを和解にこぎ着けるには、今度は何十年が必要なのでしょうか。過去の悲劇を和解にこぎ着ける困難さを思えば、未来の悲劇を未然に防ぐために、現在を語るときの姿勢や言葉には、常に慎重でありたいものです。

 

参考 

歴史と戦略 (中公文庫 な 68-2)

歴史と戦略 (中公文庫 な 68-2)

 

 

ネバー・アゲイン・レゾルーション(二度と繰り返さない決意)

手痛い失敗経験はその後の行動に大きく影響します。そして「二度とこんなことは繰り返すまい」と思うのですが、そんな決意が報われるとは限らないのが、この世のままならないところです。個人であれ国家であれ。

 

リアリズムに従えば、日本は軍事大国になるはずだった

高度経済成長を遂げた日本は、その経済力を本格的に軍事力に転化し、ふたたび軍事大国となって、核武装も検討し、アメリカから独自の行動をとりはじめるだろう、と見られていました。
 
そのように観測していたのは、リアリズム学派の国際政治学者たちです。国際政治学のリアリズムは、ざっくり言うと、国家は軍事力を中心とする力を高めることに執着する等、力に重きを置いた仮定に基づく見方です。
 
なお、口語でいうリアリズム、現実をありのままに捉えているかどうかとか等とは殆ど関係がありません(国際政治学徒だってカントくらいは聞きかじっているのですし)。だからリアリズムという言い方に違和感があるなら、パワー・ポリティクス学派とでも読み替えて理解すればいいでしょう。
 
このような見方からすると、世界二位(当時)の経済力を得た日本は、さらに自国の影響力を高めるため、軍事力も世界二位…とはいかずとも、大幅に増強するのが自然です。そうすればソ連の脅威にもある程度まで自力で対応できて安全が高まるし、アメリカとの同盟に依存せず、好きな行動を取れる余地が大きく広がります。リアリズムの大家の一人であるケネス・ウォルツは、80年代に、日本が核武装に走る可能性までも指摘していました。
 
しかし、実際にはそうはなりませんでした。日本はその経済力を、ごく控え目にしか軍事力に向けなかったので、建設した軍事力は質的にはそれなりでも、量的にはごく小規模なものでした。その中身も特徴的で、自国が戦場化したときのことしか考えない、国土での防衛に特化したものでした。
 
こうして日本は巨大な経済力と軍事力を併せ持って他国に大きな影響を与える国、すなわち大国には、敢えてなりませんでした。経済大国とは、経済以外は大国ではない、ということです。
 

ネバー・アゲイン・レゾリューション

日本がこのような選択をした理由は、国内要因にものとめないと、説明がつきません。リアリストのいうような力の論理よりも、歴史体験から生まれた規範の方が強かったのです。
たとえば、日本が太平洋戦争から学んだ一つが国家目標達成の手段として軍事力や軍事組織に頼らない、ということであり、これをD・ボブロウは、戦後日本の「二度と繰り返さない決意(ネバーアゲインレゾリューション)」の一つと呼んでいる。(安全保障の国際政治学 p322)
このため日本は軍事力に基づく影響力や政策の自由度、自力で得られる安全などを諦めるかわりに、力をもつことの誘惑や危険からある程度自由でいられました。
 

二度と繰り返してはならない(何を?)

戦争の歴史から、二度と繰り返してはならない、という思いを抱くのは日本だけではありません。中国もそうです。しかし、どんな教訓を得るかは、国によって異なります。
 
毛沢東は,1949年の中国人民政治協商会読第1回全体会議における開幕の演説で「......どのような帝国主義者にも再び我々の国土を侵略させてはならない......我々は強大な空軍と海軍を保有しなければならない(......不允許任何帝国主義者再来我們的国土.....而且有一個強大的空軍和一個強大的海軍)」と指摘し,1953年には「わが国の海岸線は長大であり,帝国主義は中国に海軍がないことを侮り,百年以上にわたり帝国主義は我が国を侵略してきた。その多くは海上から来たものである(我們国家的海岸線視長,帝国主義就是欺負我僧没有海軍,一百多年免帝国主義侵略我臥大都是従海上乗的)」と軍艦の上で演説しました。
 
中国には、アヘン戦争以来、延々と列強に植民地化され、日本にまで侵略を受けた悲惨な記憶があります。二度とそんなことを繰り返さないよう、侵略者に負けない強大な軍備を持とう、と決意しました。
 
現在、強大化した中国は惜しみなく軍備に金を使い、国土防衛から攻守兼備、沿岸防御から外洋進出に進んでいます。小規模な武力衝突を繰り返し、勢力を拡大してきました。そのことが近隣国に大きな脅威を与えています。
 

狼と羊、羹と膾

共通のできごとから「二度と繰り返すまい」と決意したとしても、国によって得た教訓は異なります。
 
いじめた側といじめられた側では、同じ出来事もずいぶん違った記憶になる道理です。侵略をして反省した側は「二度とあんなことはすまい」と消極的になり、侵略された側は「二度とあんなことはされまい」と積極的になるわけです。
 
そのために、国際政治の歴史の中では、あるときは羊のように餌食にされた国が、後には一変して狼のように振る舞い、そのことがかえって敵を増やしたりします。その逆だってあり得るでしょう。
 
高坂正堯は「歴史から学ぶことは必要だが、しかし、難しい。というのは、単純な類推は、多くの場合、正しい教訓を与えないからである」と書いています。
 
歴史の教訓とはソフトウェアであり、動作条件が備わっています。ある時代の環境から得られた教訓は、現代の環境にそのまま当てはめても、正常に機能しないのです。
 
歴史に学ぶということは、過去の出来事を「二度と繰り返すまいと決意」するだけでなく、その前提と条件をよく分析し、現代に適用するための知的努力をすることです。
 
さもないと、熱いスープで火傷したからといって冷たい酢の物を吹いて冷まそうとしたり、狼を恐れるあまり自らが狼と化してしまったりするでしょう。
 

参考文献  

 

安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版

安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版

マサダ―ヘロデスの宮殿と熱心党最後の拠点 (1975年)

マサダ―ヘロデスの宮殿と熱心党最後の拠点 (1975年)

安保反対と経済の勝利

政府の安全保障政策に反対し、知識人や学生を中心に大きな反対運動が起きました。国会前ではデモが行われ、今回の条約は日本を戦争に巻き込む、憲法違反のものだと主張しました。

…という、1960年のお話について、積ん読を少し片付けたので、その中で気になった点を紹介します。

安保改定

  1960年1月、岸信介総理大臣はアメリカを訪問し、新安保条約に調印しました。安保改定です。これによって日本が戦争に巻き込まれる危険が増す等、猛烈な反対運動が巻き起こりました。

 安保条約の改定を進める岸内閣及び自民党に、それに反対する野党社会党と学生運動を始めとする大衆たちが対抗しました。

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怒れる知識人

 安保改定は、単に外交・防衛政策の転換であるのみならず、日本の民主主義にとっても危機であるという意見が強くありました。条約の中身だけでなく、改定を急ぐ岸首相の政治手法が強引に過ぎるという印象を持たれていました。

大衆の怒りの矛先は岸の強権的な政治手法にあって、彼ら大衆の怒りを代弁していたのは…知識人層だった。

その典型が竹内好である。岸の強行採決に抗議して都立大人文学部の教授を辞した彼は「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。そこに安保をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものが論争することは無益である」と主要した。(全学連と全共闘)

憲法と安保

 また、安保改定が憲法がどう整合するのか、するわけがない、という観点からの反対もありました。そもそも憲法と自衛隊が整合しているのかという点で、いまだ鋭い対立があったためです。

 60年3月、中立論の旗手であった坂本義和は雑誌「世界」掲載の論考「新しい国際状況の確認を」でこう論じています。

日本の現在の再軍備は、再軍備の究極目的として掲げられている日本の立憲民主政の擁護という目標そのものと矛盾しており、この再軍備は、われわれが守るべき基本的価値としてのデモクラシーを内部から腐食しています。

……憲法を無視して行われてきた事実上の再軍備は、日本の憲法と民主政に対し、二つの点で重大な害毒を流してきました。

すなわち、それは、一方では、憲法ないし立憲政に対する国民の不信や無関心を増大し、その判明において、軍隊自身、ともすれば国民の公僕というよりは、いわば私生児のような自意識を持たざるを得ない破目に立たされています。

(坂本義和「新しい国際状況の確認を」)

外交・防衛政策の目的は日本の民主政を守ることにあるはずだが、憲法ないし立憲政への国民の不信や無関心を増しながらそのような政策を進めるとすれば、それは本末転倒だ、ということです。

このような学者、知識人の援護もあってか、安保反対運動は盛り上がります。

過激派の野望

 一方で、安保反対運動の中には「立憲民主政を守る」どころか、これを破壊しようとした過激派が多数存在しました。彼らは安保反対運動を煽り、騒乱状態を引き起こし、その混乱の中で革命のきっかけを見出そうとしました。

 過激派組織ブントに参加していた小川登氏は、こう語っています。

「60年安保ちゅうのは学生が中心ですけどね。革命をやろうとほんまに思ったですわね」…

「ほんまにやろうと思っていた。労働者を味方につけてね。権力を奪取するところまではいかなかったけれど、岸内閣を倒すことはできたわけですね。日常と革命とがあったら真ん中まで来ているという感じで、それなりに必死だったですよ」(全学連と全共闘)

 彼のような人々は、革命を起こして自ら権力を奪取することが目的であって、平和や民主主義はむしろ破壊すべきものでした。

経済の勝利

6月18日には何十万の人が国会を包囲していましたが、翌19日に新安保条約は参議院の議決がないまま自然成立しました。

 総辞職した岸にかわり、池田勇人による新内閣が成立。同年11月の総選挙では、300議席、64パーセントを獲得して勝利しました。

 この選挙結果について、先に引用した坂本義和の論敵であった高坂正堯は、こう論じています。

例を新安保条約にとろう。

あの二百時間を越える国会の討議、百万人を越すデモのわずか五カ月後に行われた総選挙において、安保条約という外交の基本路線に対して国民が行った審判について、まったく正反対の判断が下された。

自民党はあの選挙結果をもって、安保条約が承認されたと主張し、社会党は中立政策を支持する勢力が強まった、とまるで正反対のことを言っている。

この場合、社会党の主張は少々おかしい。…いずれにしても、政府の外交政策を国民の大多数が支持したことは、政策決定上大きな意味を持っている。

しかし、一方自民党の側も、あの選挙において得た支持が、その対外政策に対しての支持なのかどうかを、よく考えてみる必要がありはしないだろうか。選挙戦のさなかに中立論争が激しく展開されたという事実からすれば、自民党へ投ぜられた票は、安保条約についての判断を経たものということができるだろう。

しかし、それにもかかわらず、自民党への支持はその低姿勢、所得倍増などの経済政策への支持であり、池田首相の見事なペース変換が勝因であるという議論が成立するのは、それが真実を含んでいるからであり、とくに、自民党のアキレス健をついているからなのである。

…安保騒動後の、いわば自民党の危機において、争点を経済政策にもっていったことは重要な意味をもっている。たしかに自民党は票を集めることができる。しかし、それは外交政策そのものに対する支持を得ることはできないのではないだろうか。

(高坂正堯「外交政策の不在と外交論議の不毛」)

外交・安全保障論議がいくら盛り上がっても、選挙は安保では動かないのです。国民は経済を良くしてくれそうな党を選び、経済を悪くしそうな党を避けます。安保論争後の総選挙で自民党は勝利しました。それは安保賛成が安保反対に勝ったというよりも、経済政策が安保論争に勝ったのです。

外交論議の不毛

高坂はこれを「外交政策の不在と外交論議の不毛」として批判しています。一部の人々によって外交・防衛政策は推進されるのですが、国民的な議論はあまり成熟していきません。そのため、確固たるコンセンサスに支えられた外交政策は生まれません。

 議論の進め方にその理由がある、と高坂は言います。

いつも外交政策をめぐる論議は、重要というよりはむしろ衆人の注意を集める問題点について、一方はある面を、他方は全然別の面を強調したまま、議論はいっこうに高まらない、ということになった。そのうちに、問題点はすりかわってしまい、あるときは途方もなく抽象化され、壮大化され、あるときは今度のように行き詰まり、矮小化されてしまう。(高坂正堯「外交政策の不在と外交論議の不毛」)

 多くの人の関心を呼ぶには、問題を途方もなく大げさに言い、一足飛びに極端な結論をだして、人を驚かせるのが早道です。または逆に、問題を途方もなく一般化し、すり替える手もあるでしょう。

 もし民主主義の危機というものがあるとすれば、むしろこの点にこそあるでしょう。

 なお、安保反対の熱狂がどこかへ去った後、日本は高度経済成長の道を歩みました。新安保条約はその繁栄の影で、日本の平和と安全の礎となり、今に至っています。

高坂正尭著作集〈第1巻〉海洋国家日本の構想

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全学連と全共闘 (平凡社新書)

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この記事への反響 

この道はいつか来た道 〜クリミア併合とエチオピア併合

2015年3月、日本の元首相の鳩山由紀夫氏がクリミア半島を訪問しました。NHKはこう伝えています。

ロシア国営テレビは鳩山氏の一連の訪問を連日詳しく伝え、この会見についても、現地時間の午後(日本時間11日夜)の全国ニュースで取り上げました。
このなかで、「鳩山氏が、『クリミアの住民投票が民主的な手続きで行われ、住民の意思を反映していることを確信した』と述べた」と伝えました。(ロシアTV「鳩山氏がロシアに理解」と報道 NHKニュース15.3.11)

クリミアに関するニュースを思うとき、私はエチオピアを思い出します。この2つの地域と国には共通点があります。国際社会の現状を変革しようとする国が武力を背景に国境線を変更し、そしてその一撃が、世界の秩序を揺るがせた、という共通点です。

 この記事では、そもそも国家がある土地を領有できる仕組み、国境をめぐる戦争を人類がどう克服しようとし、そして失敗してきたかを振り返ります。その上でクリミア併合を考えれば、何が見えてくるでしょうか。 

あなたの国を作る6つの方法

 国家がある地域を「ここはオレ達の領土だ」という権利は、どこから生まれるのでしょう? 伝統的な国際法では、その権利の発生源(領域権原)を6つほど認めています。先占、添付、征服、割譲、併合、時効です。

その1「先占(せんせん)」は、どの国も領有していない無主の土地にのりこんで、誰より先に支配することです。

その2「添付」とは、メールに画像をくっつけることではなくて、勝手に領土が増えること。海底火山の噴火で新しい島ができたり、川が土砂を流すうちに海が自然に埋め立てられたりするのがこれです。

その3は征服。相手国の領土に軍隊を送って占領し、領有の意志をもって支配することです。

その4と5、割譲と併合。2カ国が交渉し「この地域を譲渡する」と合意するのが割譲。さらに進んで「全地域を譲渡する、お宅の一部になる」というのが併合。

その6「時効」は、他国の領土であっても、長期間、平穏かつ実効的に支配を続けたことで「あそこは(事実上)あの国の領土だよね」と認知されることです。(ただし、ほとんど認められません)

あなたが自分の国を作りたければ、例えばこうしましょう。

はるか沖合いにどの国にも属さない無人島をみつけて建国を宣言(先占)

島が自然に隆起して領土が広がる(添付)

強い軍隊を作って他国に攻め込み、一部占領(征服)

武力を背景に「ここも寄越せ」と交渉して分捕る(割譲)

その調子で全部とることに合意させる(併合)

長年に渡ってオラが国だと言い続けて認知される(時効)

かくして、あなたの国は立派な帝国主義国、国際社会の一等国となれるでしょう。ただし、19世紀ならね。

武力による国境変更の禁止

19世紀の昔、列強と呼ばれる大国たちは、戦争の勝ち負けで領土をとったりとられたりしていました。しかし、20世紀になると考えを変えます。機関銃や毒ガスといった近代兵器で第一次世界大戦争をやり、あまりに悲惨な現実に直面すると、人類は「もうこんな時代には戦争なんかできない、しちゃいけない」と思いました。

そこで1928年に「不戦条約」が成立。「国際紛争解決のために戦争に訴えてはならない」「平和的手段による以外の紛争解決を求めない」というこの条約に、当時の世界のほとんどの国が加盟しました。

こうして、かつて見られたように、戦争なりその脅しなりで国土を拡張することは禁止されました。武力を行使した「征服」、武力を背景にした「割譲」「併合」が禁止されたのです。

では、戦争のかわりに、何をもって揉め事に白黒つけるのか? それが国際連盟です。連盟は仲裁裁判の場を設け、紛争を平和的に解決します。裁判に従わず、武力を用いようとする国には、国際連盟加盟国が一致して制裁を行う、という仕組みです。

20世紀初頭、人類は世界平和への大きな一歩を踏み出したといえるでしょう。ただし、二歩目で転倒しました。

エチオピア併合

イタリアは長いあいだ、エチオピア併合を計画していました。イタリアの植民地であるエルトリア(名前が似ていてややこしいですね!)に近いから素朴に領土拡張欲をそそられます。それに、19世紀にエチオピアを植民地にしようとして攻め込み、ヨーロッパ人には珍しくアフリカ人と戦って負けたことは、イタリアのファシスト達にとって屈辱の記憶でした。

そこでイタリアは1935年10月、軍隊をだしてエチオピア侵略を開始しました。その件で開かれた国際連盟は特別会議で、イタリアへの経済制裁を決めました。イタリアとの輸出入の多くの部分を禁止したのです。

ですが、制裁は最初から骨抜きでした。チャーチルのいう「それ無くしては戦争がつづけられないという石油(チャーチル著「第二次世界大戦」)」が、禁輸品目から除外されていました。

フランスとイギリスが、イタリアに甘かったからです。フランスの外相ラヴァルと、イギリス外相ホーアは12月に会談し、エチオピアの半分を国際連盟の統治とし、もう半分をイタリア統治区にするという和解案を考えました(ホーア・ラヴァル案)。不戦条約を破り、連盟規約を踏みにじった侵略国イタリア、その侵略の成果を公認してやろうというのです。

この案は新聞にスクープされたために一時頓挫します。しかしその翌年3月、ドイツのヒトラーが、非武装地帯のラインラントに軍隊を派遣。ドイツの脅威にうろたえた英仏は、イタリアどころではなくなりました。

そうこうするうちに5月。イタリアはエチオピアの戦いに勝利。エチオピア皇帝は国外に脱出。イタリアはエチオピア併合を宣言。7月までには経済制裁も解除されます。

こうしてエチオピア併合は国際社会に黙認されてしまいます。これを容認したことが、欧州征服の野望に燃えるヒトラーを誘惑し、ついに第二次世界大戦につながります。

戦争を招いたラヴァル外交の平和主義と楽観主義

f:id:zyesuta:20150312002839j:plainラヴァル外相

なぜ英仏はこうも侵略国イタリアに甘かったのでしょう? 親イタリア、親ファシズムで知られたフランスの外相ラヴァルは、経済制裁から石油を除いた理由を、後にこう証言しています。

「もし石油制裁が適用されるならば、イギリス・フランスとイタリアの間に戦争が起きたであろう。それは1935年の世界戦争となる。…私は戦争に反対である。私は暴力に反対である。さらに私は人間の生命を尊重する」(齋藤孝著「第二次世界大戦前史研究」p123-124)

この平和主義的な言葉と裏腹に、実際にはラヴァルの外交は戦争を招きました。イタリアとの戦争を恐れ、イタリアの侵略を容認したことが、ヒトラーへの誘惑となりました。不戦条約があろうが、国際連盟に批判されようが、要は英仏と直接交渉して懐柔すれば、何をやっても許されるようだ、と。

ラヴァルは楽天主義でもありました。イタリアと和解すれば、イタリアは対ドイツ包囲網(ストレーザ戦線)に復帰してくれるだろうし、そうすればドイツとも和解が成立する、と甘く考えていたのです。

しかし結果的にはイタリアの独裁者ムッソリーニから「ラヴァルはファシズムを理解する唯一の政治家だ」と、褒められているのか馬鹿にされているのか分からない評を受けながら、いいように転がされてしまいました。

 結局彼はイタリアを止められず、ドイツも止められず、ついに彼の国フランスがドイツに征服されてしまいます。

戦争を嫌い、相手の言い分にも理解を示し、和解すれば常に平和が訪れるほど、世の中は都合よくできていないのです。 なお、その後のラヴァルはドイツの属国となったフランスで副首相をつとめますが、ドイツの敗戦後、裁判で国家反逆罪となり、処刑されます。

国連憲章の時代と、国境の不可侵

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ラヴァルが処刑された1945年、国際社会は国際連合憲章をつくり、今度こそ武力の行使を禁止。戦争を行わない世界、武力で国境線を変更しない世界を再び作り上げるべく、努力を再開しました。

多くの戦争があったものの「国境線を武力で変更しない」「国際紛争では、先に軍隊を出した方が悪者、侵略国」というコンセンサスは何とかできあがりました。

1970年には国連総会で採択された「友好関係宣言」で、世界各国はこう宣言しました。

国の領域は、武力による威嚇又は武力の行使の結果生ずる、他の国による取得の対象とされてはならない。(友好関係宣言 1970)

こうして「征服」や武力を用いた「併合」は、国際法上の根拠としては否認されました。

その後、1990年にイラクはクウェートを侵略し、全土を「征服」して「併合」を宣言します。イラクの独裁者フセインは、時代錯誤にも、国連加盟国であるクウェートを世界から消滅させられると考えたのです。

国連安保理はイラクによるクウェート併合宣言は無効だと、ただちに宣言し返しました。そして国連に授権された多国籍軍が組織され、イラク軍と戦って追い払い、クウェートの独立を回復しました。

ここにおいて、国連を中心とした国際安全保障の秩序が、一時的に復活しました。

クリミア併合

f:id:zyesuta:20140813171205j:plain(写真引用元:BBC)

 しかし、エチオピア併合から79年後の2014年。ウクライナ領のクリミア半島に、国籍を隠したロシア兵が多数侵入。親ロシア派の住民を背景に、クリミアを実質的に占領した上で住民投票を実施。プーチン大統領はロシア連邦へのクリミア併合を宣言しました。

 クリミア共和国がウクライナから独立し、ロシア連邦に編入、という形です。ロシア軍による「征服」なら侵略だし、「割譲」ならウクライナ政府の同意が必要です。しかしクリミアの人民が自分の意志でウクライナから独立するのは自由だし、独立したクリミアが1つの主体として自らロシア連邦に帰属したいと申し出るなら、ウクライナ政府の意志は問われない、という体裁です。

 もっとも、事実上は軍事占領してから住民投票をしたり、分離主義者に武器を援助して内戦を煽ったりするのは、古典的な侵略の方便ではあり、まともな国が認めるはずもありません。

 多くの国がロシアへの経済制裁を行い、そこそこ効果をあげていますが、ロシアの意志を変えるには至っていません。勢いにのるロシアは、東部ウクライナにおいてドネツク共和国、ルハンスク共和国を称する親ロシア派勢力を支援し、ウクライナで果てしない内戦を起こしています。

 東部の親ロシア派にすら勝ち得ないウクライナ政府軍では、クリミア奪還など夢のまた夢です。ヨーロッパやアメリカも、ロシアを批判しつつも、ウクライナに軍隊を送るつもりは全くありません。

 クリミア併合を近い将来において覆すことは不可能でしょう。区々たる岩礁の争いを除くならば、ロシアは冷戦終結後、初めて武力を背景にして大々的な領土拡張に成功した大国となりました。いや、古めかしく「列強」と呼ぶべきでしょうか? 21世紀の世界秩序が解体し、世界史のカレンダーが局地的には19世紀まで逆流しつつある可能性を思うならば。

解体する世界秩序と戦略的辺彊

 リチャード・ハースはこの状況をして、クリミアだけの問題ではなく、世界秩序の問題になりうると指摘しています。(過去記事「解体する世界秩序」)

国際社会には「力で他国の領土を奪うことは許されない」とする一定のコンセンサスが曲がりなりにも存在した。

1990年にクウェートを侵略したサダム・フセインを押し返すために広範な国際的連帯が組織されたのも、こうした原則とルールが国際社会に受け入れられていたからだ。

しかしその後、力による国境線の変更は認めないというコンセンサスも揺らぎ始めた。事実、2014年春にクリミアを編入したロシアは、かつてのイラクのようには国際社会から批判されなかった。

今後、論争のある空域、海域、領土をめぐって中国が力による現状変更を目的とする行動に出ても、国際社会がどのように反応するか分からない状況にある。リチャードハース「The Unraveling」 フォーリンアフェアーズリポート2014年11月号 p7)

 エチオピア併合のあとにドイツによる欧州侵略が生じたように、クリミア併合はウクライナだけではなく、世界の他の地域でも、現状への不満と野心を抱く国を勇気づけはしないでしょうか? 

 例えば、中国は近年著しく軍備を拡張するとともに、東シナ海・南シナ海で離島の領有権を強く主張しています。この政策の裏付けになっているといわれるのが徐光裕提督が1987年に発表した「戦略的辺彊」論です。

徐光裕が発表したこの理論は、軍事力によって国境が動かせることを説いています。…軍事力に優れた国は、平時の国境よりも広い範囲を軍事的に守ることができるでしょう。この時、地理的な国境より外側にあり、戦略的な国境の内側にある範囲を『戦略的辺彊』と徐は名づけます。…軍事力で実際に支配できる範囲を国境の外にまでドンドンと広げ、『戦略的辺彊』を長期間にわたって保つならば、やがてそこまで地理的国境を拡大することができる、と徐は論じます。(過去記事「中国の離島侵攻プランと『戦略的辺彊』」)

蟻の一穴。だとすれば誰が次のエチオピアになるのか?

洪水を阻む大きな堤防が、時として、アリが掘り抜いた小さな穴から崩れてしまう、という例えがあります。ごく小さな蟻の一穴も、そこに膨大な水が続くと、大洪水の始まりになります。

人類は数十年をかけ、大きな堤防を築いてきました。それは「武力で国境を変更してはならない」と固く刻まれた規範です。クリミア併合がそれに穴をあけたとすれば、やがてその1点から水が漏れ出し、濁流となって、全てを押し流してしまうかもしれません。

再び遡って1936年、イタリアがエチオピア併合を宣言し、国際社会がそれを事実上追認したとき、国際連盟のハイチ代表はこう語っています。

「大国か小国か、強国か弱国か、近隣の国か遠方の国か、また白人の国か非白人の国かを問わず、いつの日か我々も、誰かにエチオピアにされるかもしれないということを、決して忘れないようにしよう(ジョセフ・ナイ「国際紛争 理論と歴史 第7版」p124」

ドイツにとってのエチオピア、オーストリアとチェコスロバキアがヒトラーの餌食になったのは、その2年後から。第二次世界大戦が起こったのは、さらに1年後のことでした。

敵国破れて謀臣亡ぶ− シラー著「ヴァレンシュタイン」

シラーの戯曲「ヴァレンシュタイン」を読みました。戯曲というのは、舞台演劇の台本のこと。小説と違い、セリフの他は状況説明のト書きだけで書かれていて、地の文というものがありません。この作品は歴史劇で、三十年戦争時代のドイツに実在した将軍ヴァレンシュタインのエピソードをもとに創作されたものです。

蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる

中国の故事成語にこういうのがあります。「飛ぶ鳥をみんな射てしまうと、いくら良い弓でも蔵の中にしまわれてしまう。ウサギをみんな狩りつくしてしまえば、用済みの猟犬は煮て食べられてしまう」と。

手強い獲物、外敵といったものがいる場合には、強い軍隊を率いる有能な将軍が国の頼りです。しかし外敵をやっつけた後には、君主にとって、その有能な部下こそが最大の危険要素となります。

今度は君主たる自分を倒してとってかわるのではないか。部下自身にそのつもりがなくても、まわりの者が焚きつけるのではないか。そんな目で見ていると、部下のあらゆる行動が「怪しい」と思えてくる。部下は部下で「さては俺を排除するつもりか」と感じ、自分の身を守るために軍隊を集めるなどの備えをせざるをえません。それを見た君主は「それみたことか、やはり反乱を企んでいる!」と確信し、行動にうってでます。

セリフで見る三十年戦争のはじまり

このようにして能臣を殺した君主、殺された部下は数知れません。西洋において典型的な例といえるのが「ボヘミアの傭兵隊長」と呼ばれる男、ヴァレンシュタインです。ヴァレンシュタインは三十年戦争において活躍しました。

三十年戦争はいまのドイツ、当時の神聖ローマ帝国で行われた戦争です。今風にいえば、帝国内で内戦をやっていたところに、周辺国が我も我もと軍事介入してきて、泥沼の長期戦になった、という感じです。

三十年もひとつ国内で戦争をしていたものですから、街は焼かれる、畑は奪われる、人はさらわれたり殺されたする。故郷を追われた人は食い詰めるから、傭兵にでもならなって、奪ったり殺したりする側にまわらないと食べていけない。こうして悪循環が生まれ、国中がめちゃくちゃになりました。

このおぞましい悪循環を、ヴァレンシュタイン旗下の将軍の一人イゾラーニは、作中でこう言っています。

イゾラーニ 戦争が戦争を育てるのです。百姓たちが破産すれば、皇帝はますますたくさんの兵士を集められますよ。(p93)

何でこんな戦争が起こったのでしょう? はじまりは、ハプスブルグ家のフェルディナンド2世が神聖ローマ皇帝となり、帝国内のカトリック化と帝権の強化を強力に推し進めたことです。ルドルフ2世がだした、プロテスタントにも信仰の自由を認める勅許を取り消したことで、大きな反発を招きました。

これに対しボヘミアのプロテスタント達は、フリードリヒ伯爵を王位に擁立して、分離独立をはかりました。しかしフリードリヒは皇帝軍に敗れ、他国に逃亡します。シラーはこれをボヘミアの名もない市民の口をかりて、こう語らせています。

ワイン係主任  これは、わたくしたちがルドルフ皇帝に無理やり書かせた、ボヘミア人のための特許状です。羊皮紙に書かれた、何ものにも代えがたい貴重な文書で、新教徒に対しても、旧教徒に対するのと同様、自由に鐘を鳴らし、公然と賛美歌を歌う権利を保障するものです。ところが、フェルディナンド2世皇帝の治世が始まってからというもの、それも終わりを告げ、プファルツのフリードリヒ伯爵が主権と領土を失ったあのプラハの会戦以来、わたくしたち新教徒は、説教壇も祭壇も持たず、わが同胞は故郷に背を向けることを余儀なくされたのにひきかえ、例の特許状は、皇帝みずからハサミでずたずたに切り刻んでしまいました。(p205)

こうして三十年戦争の前半は、カトリックの有利、皇帝の勝利で終わりました。戦勝の勢いにのって、皇帝はますます思い切った帝権の強化に乗り出します。

両英雄の対決

危機感をもった周辺諸国は、ドイツに強大なカトリックの帝権が成立するのを妨害するため、次々と軍事介入を実施します。

わけても恐ろしく強かったのが、スウェーデン王グスタフ・アドルフ。軍事改革と猛訓練によって、強力な軍隊を率いていました。グスタフ・アドルフは、ドイツに侵入して皇帝側の名将ティリーを破ると、主要な都市を次々と陥落させます。

ティリー亡き後、皇帝が頼みにせざるを得なかったのがヴァレンシュタインです。成り上がり者の彼は、比類ない大軍を組織して、皇帝の敵を次々に打ち破った実績がありました。1万、2万といった規模が軍の相場であるところに、10万を超える大軍を仕立て上げるアイデアと能力を持っていました。領地を経営して富ませるのもうまかったといいますから、何であれ組織というものを作ったり、動かしたりするのに長じていたのでしょう。

舞台の第1部で、名もなき狙撃兵はフリートラント公ことヴァレンシュタインについて、こう語ります。

フリートラント公は、八年だか九年前、皇帝陛下のために一大軍団を編成なさった折・・・最初は一万二千だけでいいって話だった。ところがヴァレンシュタインさまはこう仰った。「そんな軍団じゃ養い切れません。でも、私なら六万人を集めましょう。そして、その六万人を餓死させない自信があります」ってな。俺たちがヴァレンシュタイン党になったのはこうした経緯さ。(p59)

魔法のような手腕で大軍を仕立て、みごとに運営してしまうヴァレンシュタインは、皇帝にとって最後の頼みの綱でした。当時を回顧し、作中のヴァレンシュタインはこう言っています。

ヴァレンシュタイン  かつてわしは、たった一人でも、貴様ら(皇帝陣営)には一軍団にも匹敵していたのだ。貴様らの軍団は、スウェーデン軍を前にして壊滅状態だったじゃないか。レヒでは、貴様らの最後の頼みだったティリの奴が戦死した。例のスウェーデン王グスタフ2世は、怒涛のごとくバイエルンを席巻し、皇帝は、ヴィーンの宮廷に籠って震えあがるしか策はなかった。兵隊どもを雇うには金が要った。何しろ、群衆というものは欲でしか動かんものだからな。そして、困った時の神頼みというやつで、またわしに眼が向いた・・・空っぽだった陣営に人間を集めるよう頼まれたわけさ。わしはそれをやり遂げた。再び太鼓が連打され、わしの名は戦の神の名のごとく世界中をかけめぐった。(p365-366)

嫌疑と権勢

ヴァレンシュタインはグスタフ・アドルフの攻勢をよく防ぎ、ついに恐るべき敵手を戦死させます。しかしその後、皇帝の家臣クヴェステンベルクはヴァレンシュタインへの懸念をあらわにします。

クヴェステンベルク  われわれは、あの暴君に軍の指揮権を委ね、あの男にこれほどの権力をもたせてしまったわけだが、われわれの眼はいったいどこについていたのだろう? あの悪の化身のような男にとっては、誘惑が強すぎたのだ。だが、もっとまっとうな男でも、こういう誘惑には屈してしまったかもしれんがな。・・・軍というこの恐るべき道具が、あらゆる人間の中でもいちばん向こう見ずな男に、盲目的に服従し、ひれ伏しているのだ。(p101-102)

ヴァレンシュタインがこのように嫌疑を受けたのは、大軍を維持するために彼が実施した軍税制度が領主たちに不評であった等の実際的な理由もあるでしょうが、同時に、強すぎる指揮権を手放さなかった彼の態度も見過ごせません。彼より位の高い貴族や高官が何と言おうが、やりたいようにやらせてもらう、という態度を貫きました。

ヴァレンシュタイン 私がこれまで司令職を引き受けてきたについては、絶対の条件があった。そしてその第一は、誰一人、たとえ陛下であろうとも、こと軍にかんしては、私の不利になるようなことは言ってはならんということった。私の名誉と命を賭けて、この私が結果責任を負わねばならんとすれば、私はフリーハンドを持たねばならん。何があのスウェーデン王のグスタフを、この地上における抗う者なき無敵の男にしたか? それはつまり、あいつが自分の軍隊に王者として君臨していたからに他ならん。ところで、王者らしい王者は、自分と比肩し得る者によってしか打ち倒された例がない。(p154)

指揮系統に横槍がはいらず、前線の将軍にすべてが委ねられているのだから、軍事的には合理的です。しかしこうして、恐るべき侵略軍を率いる王者グスタフに対抗したヴァレンシュタインは、やはり恐るべき大軍に強固な指揮権をもつ、もう一人の王者のような権力者になりおおせました。皇帝は、恐るべき怪物をやっつけようとして、自分の手元にもう一匹の怪物を育ててしまったように感じたでしょう。

没落

ヴァレンシュタインがどこまで栄達を望んでいたのか、本当に皇帝に謀反を起こそうとしていたのかは定かではありませんが、野心に不足していなかったことだけは確です。作中のヴァレンシュタイン夫人は、夫のことをこう評しています。

公爵夫人 ・・・あなたという人は、いつも建てることだけを考えていらして、それが雲まで届いてもまだ建てることをやめず、眼もくらむほど揺れている建物は狭い敷地では支えきれないってこと、ちっともお考えになりませんのね。(p345)

この言葉どおり、ヴァレンシュタインは足元をすくわれます。

この史劇は、ヴァレンシュタインの権勢が絶頂に達しつつも皇帝と仲違いをし始めた時点にはじまり、皇帝の陰謀によって彼の部下たちが次々に裏切りをたくらむ中盤を経て、ついにヴァレンシュタインが暗殺されるところで終わります。

 ヴァレンシュタインの人生の最盛期は、宿敵たるグスタフ・アドルフと戦っていたころだったでしょう。その時期を描けば、両英雄が智勇を尽くして決戦する勇壮な話になったでしょう。ですがこの史劇で描かれているのは、最盛期を過ぎた人生のたそがれです。権勢を手にした者が、それゆえに迷いを見せ、嫉妬を受け、ついに地位から転落する流れの中に、英雄も逃れられない人間の妙味というものがあるように思え、面白く読めました。

中立国スイスはどうやって第二次世界大戦を回避したか?「将軍アンリ・ギザン」

国家緊急権の発動

 これにより、通常の憲法秩序が一部停止され、議会の反対を気にせず、必要な政策を断行する権利が政府に与えられました。

スイスは民主主義の国です。民主主義国家において、平時には普通選挙で選ばれた議員が、議会にあって政府を監視し、勝手なことをしないようにストッパーをかけています。そして議会と政府はともに憲法の枠内でしか権力を行使できないようにしています。

 しかし有事には、議会の議論を待たず、時には憲法の規定さえ超越した強権による非常の政策が必要なこともある、という考えから、このスイスのように、憲法秩序すら越えた大権を一時的に政府や軍に与えることを、国家緊急権といいます。

 非常の時には非常の政策が必要だと、スイスの議会は考えたのです。国家緊急権は民主主義の手続きの一部を停止することになりますが、国が亡んでナチスドイツに併合されてしまえば、一部どころか民主主義の全部が失われてしまったでしょう。

戦うスイスの民主主義

 一方で、国家緊急権を発動すると、日頃のストッパーを解除された政府が暴走する危険もあります。スイス国民はこの危険にうまく対処しました。

一九四〇年十二月、国防強化のため「徴兵適齢前の青少年に対する予備軍事教練を義務化する法律案」が政府によって議会に提出され通過した。この法案は、戦時中にもかかわらず国民投票にかけられた。その結果…否決されてしまった。

理由は、予備軍事教練が当面必要であれば、戦時下政府に委任してある権限で実行すればよい、連邦の法律として恒久的な法律で定めるのは、非常時に便乗した自由の破壊につながるおそれがあると、主権者である国民の大部分が判断したからであった。

…スイスの人は、戦時中といえども決して自由を忘れなかった証拠であった。(p141)

戦争という非常時には、非常の政策が必要なこともあるでしょう。しかし、非常の政策は、非常時に限定のものです。自由で民主的な国家を守るための戦時態勢によって、自由や民主主義が恒久的に損なわれることがあっては、本末転倒です。

スイスの人々は、非常時にあっては政府に憲法秩序すら越えた強権を与えつつも、与えた強権が非常時だからといって濫用されないよう監視することで、二重の賢明さを示しました。

将軍選出と総動員

 こうして全人口の一割以上が、戦争に備えて武器とり、あるいは配置につきました。といって、もちろん、スイスから他国へ侵攻しようとしたのではありません。

なぜ戦争をしないのに、戦争準備が必要だったのか

 ドイツとフランスは、国境線に要塞を築いて、睨み合っていました。その要塞線の南側にあるのがスイスです。つまり、ドイツ軍がスイスに侵攻すれば、フランスの要塞「マジノ線」を迂回してカンタンに攻め込めます。フランスから見ても同様です。

 スイスは独仏の両軍にとって格好の「通路」でした。実際、先の第一次世界大戦では、ベルギーらの国々が、ドイツ軍に「通路」として利用するためだけに攻め込まれ、戦場となっています。

このスイスの地理的位置と、地形上の特性を考えると…スイスの中立に少しでも不安を感じたならば、両者とも先を争ってその領有を図ることは、火を見るより明らかであった。…中立国の領土不可侵の権利は、自らの領土防衛の義務のうえに立って主張できるのである。決して、一片の条約上の文字だけに、頼れるものではない。

…ギザン将軍は、まず第一に、その抵抗の意志と力を示して、スイスの中立を交戦するドイツとイギリス・フランスの両陣営に信用させることが必要であると考えた。(p53)

 もしスイスが軍事力を強化せす、戦時体制をとらないで「戦争ならよそでやってください。うちは、関わる気はないんで…」と、口だけで中立を守ろうとしたら、どうでしょうか。

 ドイツ軍は考えるでしょう。「スイス自身には中立を保つ意志があるかもしれない。でもあんなに無防備では、フランス軍が侵入しようと思えば、カンタンにそれを許してしまうではないか。もしそうなれば我が軍は、敵に背後へ回られてしまう。それぐらいなら、むしろ先に我が軍がスイスに攻め込んで、自国の安全を守るべきだ」と。フランス軍も同じように考え、スイスを攻めないと自分が危うくなると恐れるでしょう。

 つまりはスイスは「どっちかの国が我が国を通路にしようとしても、撥ね付けるだけの軍事力がスイスにはある。よってスイスは確かに中立を守ることができる」と、見せつけてやらねばならなかったのです。

ギザン将軍、領土の一部を見捨てる

スイス軍は、アルプスの山や川といった地形を利用して、「リーマット線」と呼ぶ防衛線をはり「北方防御」の態勢をとります。北からのドイツの侵攻に備えたのです。

しかし、防御に適した地形で戦うということは、それより国境よりの地方は戦わずして見捨てるということです。リーマット線よりドイツ側、チューリッヒらの諸州を防衛できないことは明白でした。

国境線の真上で戦って、領土を完全に守ろうと思えば、敵を圧倒するだけの軍事力が必要です。しかし、小国のスイスにはそんなものはありません。であるなら、国の独立を守るため、一時的には国境沿いの町や村を放棄する作戦をたてるのも、やむを得ないことでした。

他国の領土に入ることなく、専守防衛の防衛戦略をとるということは、外国を刺激することも少ないかわりに、いざ戦時のときは自国の国土を戦場にする覚悟が必要なのです。専守防衛とは本土決戦のことです。その場合、防御に適さない、国境近くの地域が一時的に見捨てられるのは、軍事力に劣る国にとって致し方のない選択です。

なにせ、戦車を活用したドイツ軍は、またたくまにポーランドを征服して、圧倒的な強さを見せつけていました。スイス軍にとって、国土の全てを守る余裕など考えられないことでした。

圧倒的なドイツ軍に立ち向かう秘策

当時最新鋭の作戦でやってくるドイツ軍に対して、ギザン将軍はどう迎え撃つつもりだったのでしょう。

ドイツ軍の戦法はのちに「電撃戦」と呼ばれます。敵の防御線の一点に爆撃をあびせ、戦車部隊で穴をあけます。そして機動力に優れた戦車部隊と、自動車にのってそれに追随する歩兵で突破部を拡張します。そこから敵の後方に素早くまわりこんで、敵軍を混乱させ、あっという間に打ち破ってしまうのです。

これを防ぐには、突破してきた敵軍を大量の大砲で撃ちまくってストップさせ、こちらも大量の戦車をもって、敵の突出部を刈り取ってしまうことです。が、小国スイス軍にそんな重武装は用意できません。もし平野で戦えば、ドイツ軍お得意の戦法に手もなくやられてしまうでしょう。

そこで、アルプスの天険を要塞として立てこもることです。爆撃で混乱させようにも、スイス兵がアリのように山地の地下陣地にもぐりこめば、爆弾はむなしく土を叩くばかりです。戦車で突破しようにも、険しい山岳ではその快速が発揮できないでしょう。

生命を捧げる覚悟をせよ

とはいえ、このような防御作戦がうまくいくためには、地形だけでは駄目です。優勢な敵に迫られながら、いつまでも粘って守りつづける、兵士たちの精神力が必要です。

ギザン将軍は全軍にこう訓示しています。

(五月十五日の訓示)

最近の戦例は…一部の破綻から防御線に間隙ができ、敵はこのすきまに侵入してこれを拡張して、そこを突破口としてさらに前方に突進するのを戦法としている。

私は、兵士諸君に、与えられた地点、配置されたその場所で、果敢な抵抗を続け、兵士としての高邁な義務を遂行することを望む。…

狙撃部隊は、兵力において凌駕され、あるいは四周を包囲されようとも、弾薬のつきるまでその陣地で戦い、次には白兵戦で戦うのだ。…一発の弾丸がまだある限り、白兵がまだ使用できる限り、兵士は降伏してはならない。

最後に私は、兵士諸君に、私が君たちに期待していることを知らせる。これが、諸君のただ一つ考えることである。”諸君の義務の存するところ、その場所に、諸君の生命を捧げる覚悟をせよ”と」(p86−87)

 

(六月十三日の訓示)

祖国のための戦いには、生命を捧げても惜しくはないというべきである。

…諸君たちは誰でも、空からの攻撃を受けたからといって、任務の遂行を回避することは許されない。…急降下爆撃機の攻撃の下で、じっと我慢し、それぞれの義務を最後まで遂行することができなければならないし、またそうしなければならない。

敵の装甲車の攻撃を受け、あるいは側面や背後に回られても、諸君は一人もその位置を捨てることは許されない。

絶望的な状況に陥って、外への道はもはや一本もなくなったときは、ビールス河畔のセント・ヤコブの千五百の勇敢な兵士たちのことを考えよ。彼らの英雄的な死は、我々の祖国を救った。そして、その不朽の名誉は、スイスのある限り消えることはない」(p87−89)

 要するに「自分の持ち場をひたすら守れ。爆撃機がこようが、戦車がこようが、絶対に逃げるな。持ち場を守って死ぬまで戦え」ということです。なんだかえらく軍国主義的というか、精神力に依存した戦い方のようですが、しかし考えてみれば合理的な考え方です。

  この訓示のとおり、兵士たちが山岳に築いたそれぞれの陣地を動かに守りつづけ、たとえ一部が突破されても、後方の味方が片付けてくれると信じて粘ってくれれば、どうでしょう。ドイツ軍はいつものように突破部を拡張しようとして果たせず、少数だけ突出した部隊をスイスの予備部隊が撃破して、戦線に開いた穴を修復できるはずです。

 「持ち場を守って死ぬまで戦え」というのは、この場合、敵味方の優劣や戦法を考え、最も合理的な防戦準備を整えて、その最後の仕上げとして言っているのです。

非情の「とりで戦略」

 この防戦思想はさらに徹底され、「とりで戦略」となりました。

 ドイツがフランスを一撃で倒してしまったことで、状況が変化したためです。今やドイツ方面からの敵をリーマット線で防いでも、フランス方面からきたドイツ軍に背後を突かれてしまうでしょう。

 そこでギザン将軍は、徹底した要点防御戦略を採用します。ドイツ軍が国境を越えれば、スイスの主要な道路やトンネル、橋などをことごとく爆破します。そしてサルガンス、ゴダール、マティーニの3つの山岳要塞を重点に、全軍でアルプスの天険に立てこもるのです。

 と、言えば合理的なようですが、山岳部に立てこもるということは、それ以外は見捨てるということです。リーマット線においてはチューリッヒなどドイツ寄り地域を捨てるだけであったのが、今度はそれどころでは済みません。

この計画は…最悪の場合はスイスの宝庫である中部高原はもとより、ほとんど全ての都市、村落、農耕地、工業地を放棄することにしていた。これは五分の四のスイス国民の尊い生命とその財産を、万一の場合には、まちがいなく侵略者の蹂躙に任せることを意味していた。

しかも、それを守るのが本来の使命であるスイス陸軍は、国民不在のアルプスの山中に、生きながらえようとするのである。

ギザン将軍は、いつなんどき侵略者の暴虐にさらされるかわからない国民が、自分たちを置き去りにして山の中の避難所(彼らの眼にはきっとそう映るに違いない)に、引き上げていく軍隊を呪う声が聞こえるような気がした。(p106−7)

守るべき国土国民を置き捨てて、山の中に逃げ、ただ軍隊だけが生き延びて、いつまでも敵と戦い続ける態勢をとること。 それがスイス軍の選択でした。

拒否的抑止戦略の成功

このプランだけを見れば、スイス軍は国民を守らない、極悪非情の軍であるように見えます。しかし実は、それこそが戦争そのものを防ぐための、この場合ただ一つの方法でした。

四十年の七月十二日、ギザン将軍はこう説明しています。

スイス連邦が、この枢軸国の直接攻撃の脅威を免れることができるのは、ただ次のような場合だけである。

それは、ドイツの国防軍総司令部が、作戦準備の段階で、我々スイスに対する作戦は、うっかりすると長い期間と莫大な費用がかかることに気がつき…彼らの全体計画の遂行を阻害するのが落ちである、との結論に達したときである。

それゆえに、我々の今後の国土防衛の目的と根拠は、隣接する国々に、スイスとの戦争は長引き、多額の費用のむだ使いになる冒険であることを示すことに、終始一貫して置くべきである。我々は、戦争を回避したいと思えば、我々の皮膚ー国境ーを、できる限り高価に売ることが問題である」(p108)

この考え方は、抑止論の中でいう「拒否的抑止」にあたります。軍事力によって敵を圧倒できないまでも、敵が戦争によってその目的達成するのを拒否できる程度に力を持つことで、その意図を未然に防ぐことです。 

 この戦略はみごとに図にあたりました。ドイツ軍はスイス侵攻を何度となく検討したけれど、その都度、撤回しています。勝てるとしても、時間がかかる上、損害は大きく、しかも勝ったあとにはスイスの主要交通路はことごとく破壊されているから、得るところが少ないと計算したためです。

戦争を回避する方法

 外交的には中立、軍事的には専守防衛という条件の中で、非情なまでに徹底したスイス軍の防衛戦略が、最後まで功を奏しました。

これはただ軍だけの功績ではなく、必要な支援を与えつづけた政府、政府に非常時の大権を与えた議会、そしてそれらを支持しつつも民主主義の精神を忘れなかった国民の存在がありました。

 戦争を回避できる国とは、他国から見て「あの国は簡単には落ちない」と思われる国家です。巧みに戦争を遂行できる国が、固い決意をもって防御的に振る舞うとき、初めて戦争を回避することができたのです。

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僕らはいつも戦争の間に生きている(戦間期に関する随想)

 いま私の中で空前の戦間期ブームが到来。関連する本をぼつぼつと読んでいます。

  これが諸雑誌を猟歩して研究動向を調べているのだったら、あー勉強してんだなというところですが、さに非ずで。新書とか古い本とかを趣味的にめくって、連想を働かせているばかりです。

 こんな時のためのブログであり、思うところをエッセイ風に書き散らしてみるのが本稿。たぶん長くなる上に、厳密でも新奇でもない。書く方もそういうつもりでいるのだから、お読み下さる向きも、何かタメになるとか、ゆめゆめ期待してはいけないのです。

戦間期のどこが面白いのか

f:id:zyesuta:20141014233402j:plain(パリ講和会議の4巨頭)

 戦間期とは、第一次世界大戦の終わりから第二次世界大戦の始まりまでの、おおよ20年間のこと。両大戦間期、Inter-war-Period、というわけです。

 「集団的自衛権の起源と戦争の克服」では、19世紀、第一次大戦、第二次大戦、そして冷戦までの流れを駆け足で追いました。人類は戦争をどう克服するかという試みを色々に試してきたのですが、そのキッカケとなったのは何と言っても第一次大戦。

 第一次、なんて付くのはむろん、後講釈。第二次が始まるまで、それは唯一のものであり、「世界戦争」とか「欧州戦争」とか呼ばれました。あるいは単に「戦争」と。なお、それ以前に同じように呼ばれたのはナポレオン戦争だそうです。

 ゆえに戦間期も、今にしてこそ「両大戦の間の期間」として振り返られますが、当時の人にそんなつもりはありませんでした。やっと訪れた「戦後」であり、もう二度と失わざるべき平和だったはずです。でも、それでも世界戦争は再演されてしまいました。

 日本の8月では、よく訳知り顔で「戦争を繰り返さないために、戦争体験を伝えていくのが大事」と言っています。それは大事な営みではあるけれど……二次大戦前の欧州には、一次大戦の地獄を見た人やその家族が、たくさん生きていました。忘れ得ぬ戦争体験を有する世代が、またも地獄を繰り返す方向に、みんなで進んでいったのです。

なぜ。そして、どのように。

その辺りに、戦間期の外交、経済、社会の諸相を見る面白さがあります。

外交ー ヴェルサイユ体制と敗者の椅子

 第二次世界大戦の種子が巻かれたのは、第一次大戦が終わったその瞬間でした。戦後の国際関係を規定したヴェルサイユ条約が、敗者ドイツに対し、あまりにも酷に過ぎました。条約を押しつけた戦勝国の側ですら、後ろめたさを感じざるを得ないほどに。

 それゆえに、条約制定から間がない、混乱中のドイツとまさに融和すべき時期には過酷に接してしまった。敗戦国ドイツと、戦勝国でありながらパリ講和会議の敗者であったイタリアでファシズムが発生。ヒトラーがドイツを制した後、まさに強硬に接すべき時期に、欧米は宥和してしまった。

 戦勝国としても、ドイツを国際連盟の常任理事国に迎えるなどして、戦後秩序に彼らを取り込むことに、無為ではありませんでしたが、十分でもありませんでした。敗者に罰を食らわせることに汲々とし、敗者にこそ、いい椅子を用意する努力を欠いていました。

 結果、ドイツらは現状変革国として、国際秩序に挑戦することになりました。いい椅子をもらえないなら、いま座っている奴らを蹴飛ばして、奪うしかないではありませんか。

ナポレオンを救おうとしたメッテルニヒ

 第一次世界大戦のひとつ前の大戦争、ナポレオン戦争にあっては、こうではありませんでした。戦後秩序をつくるために敗戦国・フランスの処遇が極めて重要でした。

 キッシンジャーの名著「回復された世界平和」は、ナポレオン戦争後の国際秩序がいかに形成されたかを描いています。オーストリアの、そして事実上は全ヨーロッパの首相であったメッテルニヒは、侵略者ナポレオンが敗北に瀕するや、彼を守るために同盟軍のパリ侵攻を遅らせています。

 単に勝利しさえすればいいのなら、ナポレオンを滅ぼすことです。ですが勝利以上のもの、戦後の秩序のことを考えれば、フランスを温存せねばなりませんでした。ナポレオンの敗北はロシア遠征の失敗から始まったのであり、戦後、最大の発言力をもつのはロシア皇帝アレクサンダーです。フランス軍を打ち破ったロシア軍は、そのまま西欧に乗り込んできました。中欧のメッテルニヒにすれば、前門の虎、後門の狼です。

 ロシアであれフランスであれ、一国がヨーロッパに号令するような事態は避けねばならない。であるなら、ナポレオンにはフランスに閉じこもってもらい、なお健在であることで、ロシアの一強支配を防いでもらうべきです。

 結局はナポレオンが和平を拒否し、フランスにブルボン朝が戻ったことで、メッテルニヒはブルボン朝を相手に講和を結びました。そしてナポレオンを裏切ったタレイランの活躍もあって、フランスは欧州の大国としての地位を保ちました。

 これにより、革命の子たるナポレオンを除いて、フランスは現状維持側の勢力として、国際秩序に復帰しました。

冷戦後の屈辱とプーチン

 冷戦という三度目の世界大戦、ナポレオン戦争から数えるなら4度目の戦いの後、敗者はどう遇されたでしょうか。メッテルニヒがしたように、国際社会の現状維持国として、満足すべき地位を与えられ、国際秩序に取り込まれたでしょうか。あるいはベルサイユ条約がしたように、懲罰を与えられたのでしょうか。

 冷戦後から、プーチンが立って、原油が騰がるまでのロシアは、恥辱にまみれていました。国内のことについては、エリツィンと彼のアドバイザーたちが楽観的に過ぎ、資本主義に切り替えれば何もかもうまくいくかのように思っていたことにも責任はあります。

 ただし、国外のことについてはどうでしょうか。冷戦後、NATOはロシアをオブザーバーとして迎えました。別して西欧諸国がロシアを迎える目には、長らく家出していた放蕩息子を迎えるような暖かさがありました。しかし、ロシアへの根源的な恐怖感は残りました。

 同じことをやっても、ロシアがやるのは不正であり、欧米がやるのは正義に叶ったことと見なされました。


6年越しぐらいでコソヴォ独立の因果応報が巡り巡ってる件について

 上記記事で述べられているように、欧米のダブルスタンダードはあまりに露骨であり、ロシアからすれば全く不正なものでした。

 また、08年の南オセチア紛争の際も、先制攻撃をかけたのはグルジアであるにも関わらず、なぜかロシアの方が悪者のように報じられ、欧米ではロシア脅威論が再燃しました。

 「クリミア編入を表明したプーチン大統領の演説」には、長年の恨みつらみ、ロシアをして現状変革国たらざるを得なくした怒りが見え隠れしています。

 結局、勝者が敗者に対してとるべき態度は2つしかないのです。隅にも置かない高待遇で仲間に取り込むか。さもなくば、二度と蘇生できないよう心臓に杭を打ち込むか。メッテルニヒがフランスに対したようにするか、ローマがカルタゴにしたようにするか、です。

 中途半端は禍根を残し、後日の火種をくすぶらせます。

経済ー世界恐慌とファシズム

 火種が育ち、燎原の火となって四囲を焼くには、適切な風を要します。戦間期の世界が、二次大戦への旋回を開始するのは、1929年の世界恐慌です。世界恐慌に端を発する不況は、そのまま資本主義の行き詰まりと拡大解釈されました。

 実際には、恐慌は資本主義のおわりなんかではなく、まともな金融財政政策によって癒すことも、回避することもできたものでした。アメリカにはローズベルト、ドイツのシャハト、日本の高橋是清といった人々が適切な政策をやれば、回復は可能なのでした。日本の例については、下記の本に詳しいです。

 現代においても、リーマンショックの後、「資本主義はもう終わりだ」というような、100年前の発想で書かれた本が恥ずかしげもなく書店に並びました。しかし実際には、バーナンキの適切な政策によって、大恐慌の再来は回避されました。誰もが歴史を学ばないわけではないのです。

 日本は不適切な政策をとり続けていたので、それより遥かに遅れましたが、前掲書の著者でもある岩田規久男教授が日銀の副総裁に就任するといった、嘘のような展開を経て、奇跡のように展望が開けつつあります。

 もっとも、大恐慌期にも、一度は立ち直りかけて失敗したことがありました。早過ぎる引き締め策が、立ち直りかけたアメリカ経済を再びガクンと失墜させました。現代のクルーグマンも、油断はするなと警鐘を発しています。

2008年の経済危機が起こったとき,ちょっとでも歴史を知ってる人なら,誰もが1930年代の再演について悪夢を見た――大不況の深さに関する悪夢だけじゃなくて,独裁と戦争にいたる政治の下方スパイラルについての悪夢もだ.

ただ,今回はちがう:金融恐慌は収束したし,産出と雇用の急落もおさまったし,現代ヨーロッパの民主政治文化は,かつての戦間期よりも強固なのを証明して見せた.よろしい,警戒解除!

――とはいかないかもよ.経済学の観点から見ると,効果的な危機対応のあとに続いたのは,緊縮策への見当違いな切り替えだった.

ポール・クルーグマン「30年代の再演:ヨーロッパは間違った教訓を学びつつある」 — 経済学101

 ファシズムの温室

  人間、うまくいかないと、他罰的になるものです。マイノリティーに、移民に、少数民族に、恨みつらみがぶつけられます。ひとにぎりの悪者に罪を被せられたら、この世はなんと過ごし易いことでしょう。

 一昔前には考えられなかったような言辞が、雑誌や街頭で見られるようになり、それをやや薄めたものが大衆化したとき。個人としては善良な人がなにげなく差別を容認し、平穏な人生を願う市民が心から戦争を支持するようになったとき、国家の進路は狂います。

 ファシズムが興隆を軸にして戦間期の後半を描いたのが斉藤孝著「ヨーロッパの一九三〇年代」です。

「決断」や「行動」への憧れ、力強い集団への埋没などといった気分が大衆をファシズム運動に駆り立てたのであった。…ファシストを本来的な性格異常者や街頭の無法者とだけ見てはならない。

 

そのような分子は確かに存在していたし、それがファシズムのファシズムである所以となっていたが、しかし、それなりに正義感のある青年や平凡な小市民も、ファシズム運動に参加したのであった。(p32)

 祖国は国外から抑圧され、自分は国内の不景気によって抑圧されている。となれば、自己を偉大な祖国と自己を一体化させることで精神的に、体制変革を期待することで物質的に、うまくいかない人生を救ってやらねばなりませんでした。ナショナリズムと体制変革運動を結ぶところに、ファシズムは帆をあげました。

 本当に必要なものは差別や戦争ではなく雇用と安定、それらの原資になる経済成長と再配分、それを可能にする適切な政策をもつ安定政権だったはずなのですが。安定できそうな政権の選択肢の中で、共産主義よりはマシに見えたのがナチスでした。

 

国際秩序の崩壊

  第一次世界大戦の痛みを経て発足した国際連盟は、30年代から試練に晒されました。イタリアが無法にもエチオピアを攻めたとき、国際社会は為すところがありませんでした。遅れて出した調停案は事実上、イタリアの侵略に報酬を与えるようなものでした。何より、調停が連盟ではなく、英仏の大国政治の立場から出されたことは、連盟で紛争を解決するという仕組みが、大国による侵略に対しては機能しないことを示していました。

  侵略をしても制止されることはなく、対した罰を受けることもないと、そう実証されてしまったのです。ならば、現状に不満を抱き、変革を志す国にとっては、やらねば損というものでした。

 いまこそヴェルサイユ体制下で散々に味わった屈辱をはらす時であり、不況で溜め込んだ市民の不満を発散するときであり、独裁政権がその力強さを内外に示すときでした。

「ウクライナを助けて!」くれない世界の現状

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 この写真はロシアの侵攻に際し、国際社会に向けて「ウクライナを助けて」とアピールするキエフの市民たちです。2014年、ロシアは「謎の武装集団」や「休暇中に個人の意志で行動している兵士たち」をウクライナに送り込み、クリミアを切り取り、東部を影響下に収めました。これは、あるいは蟻の一穴ではないでしょうか。

 戦間期の前半において、人類は国際連盟や軍縮条約により、世界平和のために色々な努力を積み重ねました。それは小規模な紛争においては、有効に働いた例もありました。

 しかし、戦間期の後半。一旦、日本やイタリアが行動をおこしたとき。新しい国際秩序は、力の裏付けを欠いていることが暴露されてしまいました。そして本命の現状変革国たるドイツが動きだしたのです。

 2014年現在、アメリカが死活的利害を有しない地域では、何をやっても大した罰を食らわないことが暴露されています。シリアでは独裁者が10万を越える人々を死においやり、レッドライン上でダンスを踊っています。ウクライナでは、軍服の国籍さえ隠したなら、レッドラインどころか国境線を踏み越えても、せいぜいが経済制裁くらいしか食らわないことが露見しました。

 力なき秩序は共有された幻想であり、それが幻想であると暴露されたとき、音も無く力を無くすものです。つまり、誰かが叫べばいいのです。「王様は裸だ!」と。

 クリミアは、あるいはその転換点ではなかったでしょうか。やがて不況や体制の動揺によって、次の戦争の主役が動き出すことを、誰か止められるでしょうか?

現在は次なる戦争への合間である

 「戦争が平和の合間に起こるのであろうか。それとも平和が戦争の合間に訪れるのであろうか」と嘆じたのは、ヴェルサイユ条約時にフランスの首相であったクレマンソーであるそうです。

 国際関係論において、(消極的)平和とは「戦争が無い状態」と定義されます。そして人類は今のところ恒久平和を実現しておりませんし、今後の数百、数千年をかけてもまだ達成困難なように思われます。

 ということは、いま私たちが享受している平和も、いつかは次なる戦争によって破られるでしょう。「いつか」を無限に設定すれば、これはほとんど確実な予言です。人には寿命があり、平和には終わりがあります。

 これを否定する者は、想像力に欠けた者だけでしょう。過去に起こったことは、形を変えて、未来に再び起こり得ます。今日の他国で起こっていることは、いつか自国に襲いかかっても不思議はありません。

 だからこそ、人は現在の平和を保ち守るために、努力を惜しむべきではないのです。以前に書いたように、例え時間や地域を限定された平和であっても、少しでも長かれ、少しでも良かれと努めることは、決して無意味ではないはずです。

 このように考えれば、私たちはいつだって戦争の間に生きています。過去の戦争と、未来の戦争の間に。その意味で現代もまた、一つの戦間期ともいえるでしょう。どうやらその辺りに、両大戦の短い合間の期間の、不思議な魅力があるようです。

集団的自衛権の起源と、戦争の克服

 しばらく前、「集団的自衛権」という言葉がテレビや新聞でよく見られました。そろそろ静かになってきたので、いつもの通り政治的な主張はさておいて、基本と起源を抑えつつ「集団的自衛権と平和の関係」について書いてみます。

 集団的自衛権に賛成の人は、日本の安全のために必要なんだというし、反対の人は逆だ危険だといいます。両方とも「日本は平和で安全な国であってほしい」という目的意識では共通していますね。だけど、どうやって平和と安全を確保するかという手段の点で意見の対立があるようです。

 これは現代日本に限らない悩みです。昔から世界中の人が平和をつくるより良い方法を考え、やってみて、失敗し、また考え続けてきました。その過程で誕生したアイデアの一つが「集団的自衛権」です。

 この記事では集団的自衛権の誕生の経緯を振り返ることで、人類が平和の作り方についてどういう試行錯誤をしてきたかを解説します。これからどうすべきかを考えるには、これまでどうだったかを振り返る必要があるからです。

集団的自衛権とは何か

 国際社会において、国家が軍隊を使って他国を攻撃することは禁止されています。でも、他国に攻撃された時に軍隊を使って戦い、自国を守るのは認められています。これが個別的自衛権です。自分を守るために戦うのはOK。これはまあ、何となく分かる気がします。

 同じように、自国と密接な関係をもつ国が攻撃されたときに、「助けてくれ!」という要請に応えて侵略国と戦う権利。これが集団的自衛権です。なにそれ?

 「分かりにくい」と思うのは、現代の日本から見てるせいです。最初にコレを考えた人たちが何に悩み、何を恐れ、何のために集団的自衛権というアイデアを発明したのかを見てみましょう。

集団的自衛権はいつ、どこで誕生したのか?

 集団的自衛権が誕生したのは1945年4月から6月のこと。サンフランシスコ会議で採択された「国連憲章」に明記されたのが始まりです。

 その頃、日本では凄惨な沖縄戦の真っ最中。日本はまだまだ戦争を続けるつもりでした。同じ頃、アメリカでは国際会議が開かれ「第二次世界大戦は終わりそうだけど、これからどうしよっか?」と50ヶ国余が話し合っていました。

 一つ前の会議で作られた「ダンバートン・オークス提案」をもとに、サンフランシスコ会議で話し合ってできたのが「国連憲章」。その第51条で「個別的及び集団的自衛権は各国の固有の権利だ」と書いています。集団的自衛権というアイデアがこの世に生まれた瞬間です。

集団的自衛権は中南米を守るために作られた

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 集団的自衛権は、ラテンアメリカ諸国の運動によって国連憲章に加筆されました。会議の叩き台であるダンバートンオークス提案の段階では書かれていなかったのです。

 国連憲章では、正確にいうと「この憲章のいかなる規定も…個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と書いています。「国連憲章の規定は、ラテンアメリカ諸国の邪魔するのではないか?」という心配があったので、そんな心配は無用ですよ、と保証したかったのです。

 ラテンアメリカ諸国がは「国連憲章はチャペルテペック協定を無効化するのではないか?」と心配しました。この協定は会議の直前に締結されたもので、アメリカ大陸の国々で軍事的に協力して身を守ることにしよう、というものです。

 アメリカやソ連のような軍事大国なら、戦争になっても1国で自分の身を守れるでしょう。ところが中南米の国々はまだ貧しい軍事小国ばかりでしたから、大国に攻められたら、単独ではひとたまりもない。地域で身を寄せ合って共に戦う必要がありました。国連憲章はそれを邪魔しませんよ、と一筆書いて貰いたかったのです。

 会議に参加したコロンビア代表団のジェラス=カマルゴ外相は「集団的自衛権という言葉は、その起源 において、米州の地域的取極のような地域的安全保障制度を温存することと同義だった」と言っています。(国連とアメリカ (岩波新書)p99)

 集団的自衛権が国連憲章に明記されたのはこういうわけなのですが、ダンバートン・オークス提案も、ラテンアメリカ諸国の抵抗も、いずれもが、それまで人類が平和のために試み行ってきた数多い失敗が踏まえたものです。

同盟による平和

 戦争が起こっていない状態(消極的平和)を平和と定義するならば、平和達成の方法を人類は数多く試してきました。その最も古典的な方法が軍事同盟による平和です。利害が一致する国が同盟を組み、同盟の軍事力でもって外敵を抑止し、戦争を未然に防ぎます。現代でもよく使われるロジックです。

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 A国はD国との間に領土問題を抱え、近年ますます対立が深まっています。Aは軍事力に乏しい平和主義の国ですが、Dは発展いちじるしい野心的な軍事大国だと見られています。Aの弱さにつけ込み、Dが攻め込んでくるかもしれません。

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 Aは我が身を守るため、Bと同盟してDに対抗します。DはAに攻め込むと、Bからも反撃を受けるので、戦争をためらいます。Aは同盟によってDを抑止することができます。

 このようにして軍事小国でも身を寄せ合うことで大国に対抗すれば、特定の大国が横暴に振る舞うことはできません。仮に戦争をしても、対抗同盟によって反撃されるので、大勝利を収めることはできそうにないので、仕方が無いから平和が保たれるでしょう。

ささやかな成功 同盟による抑止

 19世紀のヨーロッパはこんな感じで、わりあい平和であり、戦争が起こっても小規模で済みました。

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 軍隊とフルートを愛したフリードリヒ大王は、こう言っています。「原則として同盟が交戦諸国間に力の平等な関係を作り出すので、現在、君主が成功を重ねてさえ、獲得を望みうるのは、せいぜい国境の小さな町かちょっとした領土に過ぎない。それは戦争の出費につりあわない」(古典外交の成熟と崩壊p38)

 バクチのような戦争を強行したフリードリヒ大王すら、こう思わせる。これが勢力均衡(バランス・オブ・パワー)モデル、同盟による平和です。

同盟が世界大戦を招いた

 ところが1914年には、同盟こそが大戦争のトリガーになりました。

 先ほどのA国とD国の話に戻りましょう。AはBと同盟してD国の脅威に対抗しますが、D国やそれに近しい国々から見れば、AB同盟こそ重大な脅威だと感じるでしょう。今度はDを中心とした同盟が生まれます。

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2つの同盟が対立して国際関係が固定化すると、とんでもないことになります。全ての国がどっちかの同盟に入っているので、中立の立場から対立を「まあまあ」と宥める仲介役がおらず、相互不信が解消されません。

 AからGまでの7ヶ国のうち、どこか2ヶ国の間で戦争が起こったとき。残る5ヶ国も同盟に従って参戦すると、普通ならただの2国間戦争で済むところが同盟対同盟の大戦争になってしまいます。

 「戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦」で書いたようにちょっとした事件が戦争に、戦争が大戦争へと拡大し、人類史上初の「世界大戦」が起こってしまいました。

 戦争を防ぐための同盟が、かえって国際関係に相互不信を起こし、戦争を拡大させてしまいました。「同盟の軍事力で平和を保とう」という人類の試行はそもそも間違っていたのではないか、と当時の人々は考えました。

平和主義と国際機構による平和

 今こそ別の方法を試してみる時でした。戦争の違法化です。

 大戦の後、1928年に発効された不戦条約は、戦争の違法化をある程度達成しました。つまり「国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし…国家の政策の手段としての戦争を放棄」し、平和的手段で紛争を解決することを各国が宣言したのです。

 また、世界大戦の反省から、当時のヨーロッパでは平和主義が台頭しました。フランスの軍人であり、後に大統領になるシャルル・ド・ゴールは著書でこう書きました。

・昔の兵士の役割は実に広範なものであった。しかし、現代ではその役割は縮小の一途を辿り、現代世界は軍隊なしに成立し得るといった幻想を抱いている。

・一般フランス人は、国際法や条約が戦争を防止してくれるものという信念をひとりひとりの中に育んでいる。

・前代未聞の戦乱の後、諸国民はかつてないほど戦争を憎悪している

剣の刃

戦争や軍備を憎悪し、その代わり国際法や条約で平和を守ろうという平和主義の台頭です。例えば、イギリスの野党は再軍備に反対してこう主張しています。

「わが国の安全および世界の平和は、軍事力への依存によっては獲得することができない」

(1936年3月 イギリス政府の再軍備計画に反対した議会労働党の決議案)(三〇年代イギリス外交戦略―帝国防衛と宥和の論理 p299)

 現代でどこかの政党が決議しても違和感のない、立派な宣言です。戦争の悲惨から生まれた平和主義が欧州を席巻し、戦争を無くそうとしました。

 戦争違法化の流れは、第二次大戦後も継続し、国連憲章をもって一応の完成を見ました。この流れを受け、多くの憲法で戦争の放棄が明記されました。その中に日本国憲法も含まれます。憲法でいう戦争の放棄や平和主義は日本に独特のものではなく、戦争違法化を少しずつ進めてきた人類史的な潮流、その一支流をなすものです。

 これを誤解して「世界に類をみない平和憲法がある日本は平和国家で優れている」という捉え方をすると「日本は特別な神国で、アジア唯一の文明国として未開国を啓蒙するんだ」というのと異質同型なナショナリズムに回収される恐れがあります。

 自国が他国より優れているとする思想は「自国には他国を指導する権利がある」という独善主義に陥りがちです。それは「いかなる国にも他国を侵す権利などない」という思想の対極にあるものです。戦争の放棄や平和主義に価値が認められるのは、それがどこかの国の専売特許では「無い」からこそなのです。

 ともあれ、このような潮流によって人類は戦争を違法化し、ひとまずは国際連盟による平和が追求されました。

同盟の機能不全と抑止力の破綻

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 平和を求める声は、ヒトラーの耳にも届いていました。ただし、異なった響きをもって。

有名例としては, 1933年にオクスフォード大学の弁論クラフであるオクスフォード・ユニオンで行われた討論をあげることができる。

第一次世界大戦で2000 万人もの犠牲者が出たことから,半数以上の学生は,今後は二度と王や国家のためには戦うべきでないという命題に賛成した。

この討論を聞いていたのは, 学生たちだけではなかった。アドルフ・ヒトラーも聞いていたのである。

彼は民主主義諸国は軟弱だ,どうせ反撃してくるおそれはないのだから押せるだけ押してやれ,と考えた。((国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史p30)

ヒトラーは、軍事力を使った恫喝で領土を拡張しても、イギリスやフランスは反撃してこないだろう、と高をくくっていました。実際、ドイツの度重なる領土要求に対して、英仏は軍事制裁を行わず、代わりに小国をヒトラーに差し出す始末。英仏はドイツ領内に殴り込む余力を失っていたし、ドイツがソ連の脅威への壁になってくれるだろうという虫のいい期待感もありました。

 ヒトラーのバクチ的な軍事外交は成功を重ねます。その最終段階で英仏はついに「もしドイツがポーランドに攻め込めば、英仏はポーランド側に立って参戦する」と言って、戦争を抑止しようとしました。しかし、ヒトラーはこれを信じなかったので、第二次世界大戦が起こりました。

 戦争を嫌い、平和を求める意志が十分でも、それを実現するための軍事力を欠いた時、抑止力は失われて戦争が起こります。

国連の集団安全保障による平和

  第二次世界大戦のあと、人類はさらに別の手段を試すことにしました。国際連盟による平和は失敗したけれど、アイデアを改良することにしたのです。ごく簡単にいえば「国連軍が世界の平和を守る」ということです。

 まず全ての国の「武力の行使」を禁止します。「戦争」ではなく「武力の行使」を禁止したのは、不戦条約のあとも日本などが「これは戦争ではなく事変だ」と強弁して侵略に邁進したからです。

 もしルールを破って武力を行使する侵略国が出現すれば、それ以外の国々が連合して軍隊を組織し「強制措置」と呼ばれる武力制裁を行います。

 第二次大戦の前にも、侵略国への制裁は認められていました。しかし経済制裁が主であった上、制裁は各国が個別に実施することになっていたので、手抜きをする国がでて足並みが揃いませんでした。この反省から、多くの国が結束して武力制裁しなけば、侵略国にストップを欠けるのは難しいと考えられました。

 この構想が実現すれば「もし自国がどこかの国から侵略を受けても、国連軍がやってきて守ってくれる!」ということになります。…本当に?

「国連が守ってくれるから、自国の軍事力や同盟には頼らなくていい」と、少なくともラテンアメリカ諸国は考えませんでした。

国連は機能しなかった

 ラテンアメリカ諸国が国連軍を信用しなかったのは2つの理由があります。1つは拒否権、もう1つは時間の余裕です。

 侵略国に対する軍事的強制措置、いわゆる「国連軍」を編成するには、国連安全保障理事会が「この国は侵略国だ、憲章違反だ!」と認定して、強制措置の発動を決定せねばなりません。

 しかし「拒否権」をもつ米国、ロシア、中国ら常任理事国のうち、1ヶ国でも反対すればその決議は流れます。このため侵略を受けても、必ず国連軍が助けに来てくれるとは限らないのです。

 しかも、もし強制措置が発動されたとしても、戦争が始まってから国連軍が到着するまでにはタイムラグがあります。安保理が事態を認定し、決定し、各国が兵力を準備し、派遣する…。その間に、侵略を受けた国は全土を占領されたり、市民を虐殺されたりするかもしれません。よって、国連軍に期待するとしても、その到来までは自力で国を守らないといけません。

 ラテンアメリカ諸国が国連憲章に「ちょっと待ってくれ!」と言ったのはこのためです。「武力の行使の禁止」が、地域的同盟にもとづく自衛すら禁止するものなら、小国は危険な状態におかれると恐れたのです。自分は攻撃されていなくても同盟国を助けようとしても「待て、国連憲章は武力行使を禁止しているぞ」と禁止されたら、小国たちは一国、また一国と侵略国に呑み込まれてしまうでしょう。

 実際、拒否権の乱発によって国連の集団安全保障は機能不全に陥ったので、彼らの心配は正しかったといえるでしょう。(もっとも、国連軍ならぬ同盟軍なら確実に来てくれる、というわけでもないのですが)

集団的自衛権の誕生

 こうしてラテンアメリカ諸国の運動により、「武力行使の禁止」が合意された後にも、同盟という古典的な政策を存続させるため、集団的自衛権というアイデアが発明されました。同盟国のための武力行使は、国連憲章の禁止の対象外である、なぜならそれは自衛の範囲だから、というわけです。

集団的自衛権の功罪

 集団的自衛権の誕生と同盟の存続は、世界の平和に一役勝ったのでしょうか。それとも戦争の無い世界を遠ざけたのでしょうか。どちらの答えもイエスです。

 集団的自衛権が固有の権利として認められたことで、それを根拠として多くの同盟や集団防衛条約が結ばれました。中でも最大規模を極めた2つが北大西洋条約(49年)とワルシャワ条約(55年)です。この2つの条約はいずれも集団的自衛権を根拠として条文に記しています。

 両条約にもとづく同盟軍、NATO軍とワルシャワ条約機構(WTO/WP)軍が、ヨーロッパで睨み合っていたのが冷戦時代です。もし両陣営のいずれかの国の間で戦争がおき、エスカレートすれば、第三次世界大戦が起こるはずでした。同盟の存続は、大規模な軍事的対立も存続させたのです。

 「これは侵略ではなく集団的自衛権の発動だ」と、武力行使を正当化する例も多くみられました。ソ連によるハンガリー動乱、チェコ動乱への介入やアフガニスタン侵攻。米国によるニカラグアへの介入やベトナム戦争。そのほかリビアによるチャドへの武力行使などです。

 このような危険な世界において、各国は軍事同盟によって大戦争に巻き込まれる恐怖を持ちながら、軍事同盟によって戦争が抑止される希望のゆえに、同盟に身を委ねざるを得ませんでした。

  集団的自衛権を認めることで、世界の危険は温存されました。危険な世界で身を守るには、集団的自衛権が必要でした。これは抜けられない循環です。

21世紀、人類は進歩せず、世界はまだ危険

 集団的自衛権を廃止、つまりあらゆる軍事同盟を解消して、かわりに集団安全保障で世界を平和にすることは、まだできていません。抑止力が機能しない地域では、拒否権を持つ大国やその友邦国が隣国を侵略できます。

 2014年、ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵入しました。クリミアを実質的に占領した状態で、住民の投票を行い、ウクライナからクリミアを奪い取りました。かつてヒトラーのドイツ軍も、「オーストリア政府の要請だ」といって同国に侵入し、オーストリアを併合したのと似ています。

 世界は現在も、安全ではありません。武力に裏打ちされた、機能する同盟関係がなければ、国際の平和は保ち難いのです。しかしその一方、集団的自衛権が侵略の口実になったり、同盟関係こそが戦争を拡大させることも起り得ます。

 どの道にもリスクはあり、ゼロにはできないのです。

戦争克服への道

 100パーセントの答えは無いということ、そこから始めなければなりません。

 平和を愛して軍事力を忌避する人々は、第二次世界大戦を起こすでしょう。抑止を重視して軍事力に依存する人々は、第一次世界大戦を起こすでしょう。 

 「ダレス・バック」の名前の元になったことでも知られるジョン・フォスター・ダレスは、サンフランシスコ会議の後、国連憲章の批准をめぐり、上院の公聴会をこう締めくくりました。

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世界は、無政府状態からよく練り上げられた政治的秩序状態へと、一歩だけでは移ることはできない。

何歩も、それもふらつきながら進まねばならないのだ。これまでにもあったように、歩みを誤ることもあるだろう。(中略)

永遠平和というものは、おそらく試行錯誤のみによってしか得られないものなのかもしれない。しかし、ともかくも試行せぬことには、決して得られることもないのだ。

 (ジョン・フォスター・ダレス 1945年 上院外交委員会)

ダレスはアメリカを国連憲章に批准させ、国連の時代を導きました。一方で冷戦時には日米安全保障条約などの軍事同盟の構築に尽力しました。

 過去の失敗を繰り返すのは愚かなことです。だからといって、不確実な未来に飛びつくのも軽率だと、やはり過去の失敗が教えています。だとすれば、とりあえず、その中間に道を拓いていくしかないでしょう。

 過去を反省し、未来に夢を見ず、現在の複雑さに耐えて、一歩一歩進むことです。それがいつの日か戦争の克服を見るための、人類の長い旅なのです。

この記事への反響

島をめぐる争い '82

両国が領有権を争っている島へ、一方の市民が不法に上陸しました。

これは、30年前のおはなし。

1982年、南太西洋の島々の領有権をめぐり、イギリスとアルゼンチンが戦争をしました。フォークランド紛争と呼ばれています。

始まりは民間市民の上陸でした。その背景はアルゼンチンの経済が不調で、政権が危うかったこと。そこで、歴史的な経緯から係争中だったフォークランド諸島がクローズアップされました。国民の目をそらすためです。

アルゼンチンの民衆は、政府がやらないなら自分たちが島を取り返すんだと盛り上がります。義勇軍のような気分で、島に不法上陸したり、運動が過熱していきました。

それが政府の選択肢をせばめ、やがて戦争になりました。

その島には名前が2つ

Falklands

 その島々には2つの名前があります。イギリス人は、「フォークランド諸島」と。アルゼンチン人は、マルビナス諸島と呼びます。

 アメリカなどの国も絡む複雑な歴史のなかで、イギリスとアルゼンチンは長らく島をめぐって争いました。

 ある時はアルゼンチンの右翼がフォークランド諸島の無人島に上陸して国歌を合唱。またある時は、近くの別の諸島ですが、アルゼンチン側が実効支配を主張しようと、勝手に建造物を建設。するとイギリスは砲艦をだして砲撃、建物を破壊して実効支配を阻止。

 いつの世も、世界の色々な場所に、こういう島や土地はあるものです。

嵐の前の不景気

 戦争の背景は、アルゼンチン政権の不調です。
当時のアルゼンチンは軍事政権で、軍人大統領のガルチエリが指導していました。
が、経済の不調などによって国民の支持を失っていました。

軍部はすでに5年間も政権の座にあって、国民の信頼が全くといって良いほど欠けていた。その上、経済は大混乱に陥り、民衆の騒擾が起こりそうな情勢で、軍の内部にすら不満が高まっていた。軍事政権は、何か成功に結びつけるものを求めていた。

p37 「フォークランド戦争 鉄の女の誤算」

 そこで、フォークランド諸島の領有権で断固たる姿勢をとって国民の愛国心を煽り、政権への支持を高めようとしました。うまく島を取り返せば、英雄になって歴史に名を残せます。

 国民の不満は3月30日、過去六年間で最も激しい暴動となって頂点に達した。この日、マヨ広場で行われた労働組合のデモ行進が警察のむごい弾圧を受け、拘留者2000人、負傷者数百人という事態に発展したのである。


 こうした中で、マルビナス諸島をめぐる論議が、新聞にそれとなく情報を漏らす形で、積み重ねられていった。マルビナス諸島をついに奪回した功労者として歴史に名を残したいという誘惑が、指導者の心の中にふくれ上がっていった。ガルチエリ大統領にとってもこの快挙によって、彼の権力はより強固に、より永続的なものになるはずであった。
p42 前掲書

 経済の不調、国民の不満、大規模なデモと弾圧。さらに高まる反政府の機運…。こうして国内の内圧が高まったとき、為政者はその圧力を外に向けようとしたのでした。

断たれた退路

 強攻策に賛成したのは、大統領や軍部ばかりではありません。文民の外務大臣もそうでした。

コスタメンデス外相は外交上の駆けひきの一つと考えていた。被害を最小限に抑えつつ上陸することができれば、マルビナスの主権の所在をアルゼンチン側に有利に運ぶことができると考えていた。
p39 前掲書

 あくまでの外交交渉の手札の1つとして、ささやかな上陸作戦を行うつもりだったようです

 ところが、そうはいきませんでした。

ガルチエリ大統領が、官邸のバルコニーに立ち上がり、熱狂した広場の民衆に向かって、マルビナス諸島の土は侵略者に1メートルたりとも譲り渡すようなことはしない、と約束してしまったのだ。……さる外務省高官の話によると、「それまではすべてがおおむね計画通りに動いていたのに、大統領は民衆の熱気に煽られ、自分の手を縛るような約束をしてしまった」という。
p39

 こうして外務当局が考えていた、カードとしての上陸作戦ではなく、武力で島々をすべて占領・奪回する大胆な賭けを、大統領は選びました。

あちら側、こちら側

領土問題において、大衆も指導者も、しばしば「どこそこは歴史的にみてウチの国の正当な領土だ。だのに、あちらの国が不当にも...」と言います。

でも、そのとき、国境のあちら側の人たちも、こちら側を指差して、似たようなことを言っているのです。

お互い、相手が悪者だと思いたがります。時には、そうかもしれません。ですがたいていの場合、両者は、単に、お互いに他者であるに過ぎないのです。

フランスとスペインの境は、ピレネー山脈です。パスカルは「ピレネー山脈のこちら側とあちら側では、真理もまた異なろう」と言ったそうです。国境が分かつものは、領土だけではないようです。

正しさは手段に過ぎない

プロイセンの宰相ビスマルクは、悪どい外交家でした。時に、相手国の王様から送られてた電報を改ざんしたり、自国に戦争をしかけるように相手を巧みに挑発したこともありました。

相手を悪くみせ、自国を善に見せ、争いを有利に運んだのです。しかし決して、自らそれに囚われはしませんでした。

王が「戦争をしかけてきたのはオーストリアであるからして、オーストリアは罰せられてしかるべきだ」

と述べた時、ビスマルクは

「オーストリアが我われに敵対するよう仕向けたのは正しいことであり、また彼らが我われの要求に反対したのも当然のことであります」と答えている。


p96 テイラー 「戦争はなぜ起こるか」 新評論

自国が正しい、相手が悪いという信念は、多くの場合、打ち手を過度に制限してしまい、自らを悪手に追い込みがちです。

正しさは演出すべきもので、自ら信じすぎるのは考えものです。

この種の冷めた感覚を無くしたとき、大衆は極端に走り、指導者は思わぬ悪手に出てしまいます。

このビスマルクですら、最後には大衆の情熱を制御できず、次世代に禍根を残す結果になりました。

賽は投げられた

30年前のアルゼンチンでは、国民の不満から目を逸らし、不安定な自分の政権に求心力をもたらすため、歴史的ないさかいが掘り起こされました。

国際紛争において、世論はしばしば無力であり、時にはその頑迷さが、うかつなリーダーを誘惑します。 リーダーが人々の情熱に訴えて安易に大見得をきったとき、拍手喝采のなかで破局が約束されました。

「心配することはないよ。負けるはずは無いのだからな」と、大統領は外務当局に語ったそうです。

反攻作戦ストロングハート ―ヨム・キプール戦争の決着

 このシリーズでは1973年に起こったヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)をとりあげています。今回は戦争を決着に導いたイスラエルの反撃作戦をとりあげます。

ヨム・キプール戦争の展開

 ヨム・キプール戦争はエジプト・シリア軍による奇襲ではじまりました。イスラエルは「エジプトが攻めてくるなんてあり得ない」とたかをくくっており、戦争勃発の兆候に気付いていながら、それを見過ごします。戦争が始まると気付いたのが、開戦のわずか10時間前でした。目の前で数十万の敵軍が動いていても「何かの間違いだ」「本気ではないだろう」と都合のよく考えた結果、奇襲を受けてしまったのです。

 エジプト軍はスエズ運河を東へ渡り、イスラエルが支配しているシナイ半島になだれ込みました。イスラエルの戦車を対戦車ミサイルで、戦闘機を対空ミサイルで叩き、大ダメージを与えます。イスラエル空軍は全般的には優勢でしたが、しかし決戦場となったスエズ運河付近でだけは、一時的に航空優勢を失ってしまいます。

 しかしイスラエル陸軍は戦車と歩兵を組み合わせて、対戦車ミサイルへ対抗策をつくりあげました。そしてやがて反撃作戦が模索されます。こんどはイスラエル軍スエズ運河を西へ渡河して、エジプト領に逆襲をかけるのです。

イスラエルの構想と専守防衛、および「あしたのジョー

 逆渡河は、もともとイスラエルの構想にありました。スエズ運河という天然の防壁をもつとはいえ、守ってばかりいたのでは敵に主導権を握られ、翻弄されてしまいます。最善の防御は攻撃であり、戦闘はできるだけ敵の領土内で行うべきです。ですから敵の渡河部隊を防いだ後は、こちらから逆渡河して反撃し、敵を講和に追い込む構想でした。

我々が西岸に逆渡河し、そこで敵の主力を撃滅して初めて、戦争に決着をつけることが可能となる。…これに疑念をさしはさむ人は、文字通りひとりとしていなかった。(p116 アダン)

 なお日本の場合、海という天然の防壁をもつとはいえ、ひたすら守るだけ、という構想です。敵領土へ逆襲をかけることは禁じられています。そのため敵国は防御を心配をせず、ひたすら攻撃に集中できます。戦いは常に日本国内で行われるので、国民の生命や財産への打撃は極めて大きなものとなります。

あしたのジョー(8) (講談社漫画文庫)

 ボクシング漫画「明日のジョー」の矢吹丈の得意は「ノー・ガード戦法」です。敢えて無防備になって敵のパンチを誘います。ですがこれは罠です。敵がパンチを打ってくれば、すかさず必殺の反撃、クロス・カウンターをかけて一撃で倒す、という戦法です。

 これに対し日本の専守防衛はいわば「ガード・オンリー戦法」です。矢吹丈と違い、ガードを固めて敵のパンチは防ぎますが、しかしずっとガードしているばっかりです。敵のボディへの反撃はしません。敵が組み付いてくれば引き離すけれども、こちらから積極的に攻めてKOを狙うことはありません。それは禁じられています。

 このように守っているだけでは、敵が疲れ果てて諦めるまで延々と戦争が続いてしまいます。そこで敵を挫折させ、講和に追い込む反撃が必要なのですが、これはアメリカ軍に任せることにしています。自衛隊が盾、アメリカ軍が矛です。これが日本の防衛戦略「専守防衛」です。

 盾も矛も自分でやるイスラエルは、敵領に反撃をかけて敵の意図を挫くことで、エジプトを和平交渉に追い込まねばなりませんでした。

ストロングハート作戦

 
 イスラエルの逆渡河作戦は、エジプト軍の対空ミサイルを排除するとともに、大規模な包囲を行う大胆なものです。簡単な図にすると、こうです。エジプト軍はスエズの西岸に対空ミサイルを多数置いて航空優勢を確保し、東岸に二個軍を上陸させました。

 このエジプト二個軍の間、中央部分にわずかな隙があること、イスラエルは気付きました。そこでこの中間を突破し、西岸に上陸部隊を送ることを考えました。上陸部隊は西岸の対空ミサイルを排除し、東岸のエジプト軍の後方を遮断します。成功すれば一挙に戦局を逆転する、大作戦です。


 しかしこの作戦には大きな問題があります。西岸にはまだエジプト軍の機甲師団(戦車を中心とする重装備の大部隊)が残っています。突破・渡河作戦が成功しても、せっかく上陸した部隊はこのエジプト機甲師団によって頭を抑えられかねません。そうなると敵を包囲するどころか、渡河したイスラエル軍の方が敵中に包囲されてしまいます。そのためイスラエル軍はこの反撃をためらいました。

 なお日本の陸上自衛隊の役割はこの時の西岸にあったエジプト機甲師団に近いものがあります。外国が日本へ上陸作戦を計画する場合、陸上自衛隊が十分な戦力を持っていれば、これを打倒できるだけの大規模な上陸船団を送らねばなりません。すれば実行は難しくなり、かつ自衛隊が上陸船団を海上で捉えて打撃を与えることも可能になってきます。陸上戦力は最終的な抑止力として、上陸作戦のハードルを上げる効果を持っているのです。

砂漠の戦車戦


 イスラエルが逆渡河・反撃を検討し、しかし西岸に残っているエジプト機甲師団のために躊躇っていたまさにその時、イスラエルの情報機関モサドが重大な情報をつかみました。エジプト首都に潜んでいたスパイからの情報によれば、エジプトは西岸の機甲師団を東岸に渡河させ、攻勢をもくろんでいる、というのです。

 恐るべき危機でしたが、しかしこれを乗り切れば反撃の展望が開けます。スエズ東岸へ渡河したエジプト軍主力を撃破すれば、西岸への上陸作戦のリスクは大きく下がるからです。

 エジプト軍は400〜500両もの戦車を一挙に投入し、東岸で大規模な攻勢にでました。イスラエルに追い詰められたシリアが、エジプト政府をせっついたためです。

 対するイスラエル軍は高台の稜線で待ち構え、戦車と対戦車兵器で猛射を加えて、エジプト軍を次々に撃破していきました。わずか1日で150両〜250両の戦車が撃破されたといいます。さらにはイスラエル空軍も、対空ミサイルの傘から外に出た敵に対して対地攻撃を行います。エジプト軍の攻勢は、こうして完全に失敗しました。

 一方のイスラエル軍はこの日の戦果を受け、渡河反撃を固く決意したのです。渡河作戦は「ストロングハート」と名付けられました。

「粛々、夜河を渡る」


 イスラエルの逆渡河作戦は、15日の太陽が沈んだ直後、夜襲で始まりました。東岸エジプト軍の中央部分を、夜に乗じて突き破るのです。これに参加した将軍の一人は「何度も戦争を体験したが、この夜ほど固唾を飲む日はなかった」と後に述べました(p379 ラビノビッチ)。

 夜を徹する激戦でエジプトの防衛線に穴をあけ、運河までの道を切り開きました。そして道路を確保し、渡河橋をかけ、部隊を移動させて、ついに大規模渡河を敢行。17日夜に渡河したアダン師団長は、そのときの様子をこう書いています。

私はいささか興奮の態で、マイクをとると隷下部隊に伝えた。


”待ちにまった瞬間が遂にやっていた。我々は只今よりアフリカに渡る。目の前には素晴らしい橋がかかっている。諸士の迅速なる到着を待っているのだ”


私がそこまて言ったとき、私の膝に何か固いものが触った。ゼルダ(APC)の中からである。のぞきこむと、操縦手のムウサが私を見上げていた。

”将軍、ウイスキーを一杯いかがですか、瓶はあいています”

と彼は言った。これぞまさしく戦友である。私は瓶を高くかかげると、搭乗兵全員に聞こえるように大声で言った。


”アフリカ突入のために! 諸君、長い道のりだった。我々が敵を叩き潰すのに、長い時間はかからぬだろう。レハイム!”(レハイム=…乾杯の意)。


ウイスキー瓶は手から手へと回っていった。ゼルダの車内は意気大いにあがった。それから私は軍司令部に連絡し、いささか美文調で、余はすでにアフリカに在り、部隊粛々として夜河を渡るなどと伝えた。(p211 アダン)

 イスラエル軍は運河まで切り開いた補給線を守りつつ、次々に主力を西岸に渡していきます。これによってエジプトの対空ミサイルは撃破され、あるいは後退しました。するとイスラエル空軍がその空域に進出し、地上部隊を存分に支援できるようになりました(p229 アダン) まず陸軍が進んだ結果、空軍も進めるようになり、すると陸軍はさらに前進可能になったのです。

 イスラエルの渡河作戦は成功し、エジプトはこのままではシナイ半島へ渡河した第三軍が包囲殲滅されることを知りました。

停戦への動き

 東岸のエジプト軍は退路を遮断され、その運命は風前のともしびとなりました。完全に殲滅される前に停戦にもちこむ他、もはやエジプトに道はありません。

 また、米ソからも停戦圧力がかかります。ソ連はエジプト、アメリカはイスラエルを支援していました。もしエジプトが負けそうになればソ連はこれを支え、アメリカはそんなソ連に対抗するために直接介入を迫られ、米ソ対決になりかねないのです。それを避けるためにも、22日、ニューヨークの国連安保理で停戦決議がだされました。アメリカのキッシンジャー国務長官がソ連へ、次いでイスラエルへと飛び回って調停にまわります。

 イスラエルはエジプト・シリアの攻撃を跳ね返したところであり、エジプトはシナイ半島にまだ軍を残しています。この辺りが妥協可能なポイントだ、とキッシンジャーは考えました。

エジプト、イスラエル双方はそれぞれ交渉のカードを持っている。イスラエルは第三軍を包囲しさらに西岸に進出しており、エジプトも東岸に橋頭堡を有している。つまり、双方とも取引材料を手にしているから、交渉の望みはある。

(p273  「図解中東戦争」 ハイム・ヘルツォーグ)

 停戦交渉の焦点はエジプトの第三軍です。第三軍はイスラエル領のスエズ東岸を占領しています。しかしすでに包囲下にあり、このまま戦争が継続すれば殲滅されるに違いありません。

 第三軍が殲滅されればイスラエルの完勝、エジプトの敗退が誰の目にも明らかになります。・・・しかし、それではうまくない――と、停戦の仲介にあたるキッシンジャーは考えました。痛み分けの形で停戦にするのが最も望ましいと考えたのです。

政治の道具としての戦争

 こうした外交上の思惑が飛び交い始めた頃、戦場では未だに戦いが続き、砲弾が飛び交い、将兵が傷ついていきました。スエズ東岸で戦っていたエジプト軍のナデー軍曹は、当時の日記にこう記しています。

「私は、ベートーベンの交響曲第三番、英雄を聞いているような気持ちがする。勇気がこんこんと湧く。


今日、我々はムーサンの誕生日を祝った。二十七歳だ。そして我々は一日中……争っている。


砲弾が爆発するたびに、砲弾もろともばらばらになりたいと願う。


神が死なせて下さらぬ。


戦争ほど、この世で汚いものはない」


(ナデー軍曹の日記 「ヨムキプール戦争全史」p425-425)

戦場の形勢を支えているのはこうした将兵の名状しがたい労苦でした。交渉の席において、それはカードとしてつかわれます。まさしく戦争は、異なった仕方でする政治の継続です。戦場で流される血も汗も、ことここに至れば、政治のための道具に他ならないのでした。

 こうして主たる戦場は、砂漠から執務室へと移りました。現下の戦況を利用して、いかに都合のよい条件を勝ち取り、自国にとって望ましい戦後を形成するかという、言葉の戦いが始まりました。


「歴史のライム」 中国はドイツ帝国の轍を踏むか?

 今回は論文の紹介です。「History Rhymes:The German Precedent for Chinese Seapower」は、現代中国とドイツ帝国の比較論です。著者のJames R.HolmesとTOshi Yoshiharaはアメリカの軍大学の研究者です。

この論文はアメリカの対外政策研究財団「Foreign Policy Research Institute」がだしている雑誌「Orbis」の2010年冬号に収録されているものです。最近一部で話題になっている論文「アメリカはいかにして2015年の海戦に敗北したか」(参考)が同じ巻に収録されています。そちらは2015年にアメリカ海軍が中国に空母を撃沈され、西太平洋の支配権を失う、という衝撃的な想定を提起した論文です。

 今回とりあげる「History Rhyme(歴史の韻)」も同様に、アメリカの海洋覇権に挑戦する中国の台頭について論じたものです。現代の中国をドイツ帝国と比べ、シーパワー論の観点から共通点と相違点を吟味しています。比較によって現代中国のシーパワーとしての特質を明らかにしようというわけです。

なぜ中国とドイツ帝国を比較するのか?

 ドイツと中国は、圧倒的な海洋覇権国に対する新興のチャレンジャーである、という点で似た構造が見受けられます。

 ドイツ帝国はドイツ統一によって誕生し、急激に大国化しました。急成長した経済力を軍事力に転化し、近代的な軍隊をそろえました。陸軍国でありながら、ティルピッツ提督の指導のもと、海軍を大拡張しました。

 当時、世界の海を支配していたのはイギリスです。イギリスが誇る王立海軍は、他国の海軍に対して圧倒的優勢を誇っていました。諸列強が工業化したことで、イギリス海軍がかつて持っていた絶対的な優勢は既に失われつつあったとはいえ、ヨーロッパの海では支配的でした。

 ドイツ帝国はイギリス海軍を打倒できるほどではないにしろ、対抗可能なだけの艦隊を建設しようとしました。その結果、英独建艦競争(Anglo-German arms race)がおこり、イギリスとドイツが競って戦艦を造る軍拡競争になりました。その後、第一次世界大戦が起こってドイツは敗北します。

 ひるがえって現在、海洋覇権は、イギリスからアメリカへと引き継がれました。アメリカは半世紀以上にわたって世界の海で支配的なパワーを維持しています。ところが近年、急速に発展した中国が、西太平洋でそれに挑戦しつつあります。中国は軍を近代化し、特に海軍を大いに増強しています。アメリカから世界レベルでの覇権を奪おうとしているわけではないけれど、一部地域での優勢をもぎ取ることを目指しています。

 このような似た状況にあるので、この論文では現代中国とドイツ帝国を比較しているわけです。ただし、ドイツと中国には様々な違いがあり、時代も違います。だから「歴史は繰り返す」と安易に考えることはできません。

 しかし「歴史は繰り返さない。ただしライム(韻)を踏む」(マーク・トウェイン)といいます。例えば歌の歌詞において、1番と2番の歌詞は違う言葉だけれども、韻を踏んでくり返されます。これに似て、国や時代を越えて、同じではないにしろ似た状況で似た現象が見られることはあります。中国とドイツ帝国について、この歴史のライムを検討しているのがこの論文「History Rhymes」です。

比較のポイント

 ドイツの海軍拡張の理論的背景は、アメリカ海軍のマハン大佐が提唱したシーパワー論でした。マハンは「海上権力史論」らを著して、国家の興隆には海軍力が極めて重要であることを論じました。この観点から「The Naval Strategy of the World War」を著したのが、ドイツ帝国海軍の理論家Wolfgang Wegener提督です。

 彼はシーパワーの構成要素として下記の3つを挙げています。

  1. 戦略的位置(戦略的要素) 
  2. 艦隊(戦術的要素) 
  3. 国家がもつ海への”戦略的意志”

 この論文「History Rhymes」ではこの3つの点において、ドイツ帝国と中国を比較しています。それによってドイツはシーパワーとしていかに失敗し、また中国がその後を追うのか否かへの洞察を得ようというわけです。

大事なのは広い外洋への出口があるかどうか

 ドイツとイギリスの競争をシーパワー論の観点からみるならば、ドイツは明らかに不利なポジションにありました。マハンはシーパワーの必要条件として、外洋にアクセスできる1つまたは2つの港を挙げています。

 そこへいくと、ドイツの外洋へのアクセスはイギリスによって遮断しやすい立地にあります。ドイツの主要な軍港はバルチック海または北海に面しています。イギリスはその南部の軍港からドーバー海峡をコントロールし、またスコットランド沖のスカパ・フロー軍港から北海を哨戒できます。ドイツがもつ外洋へのSLOCs(Sea lines of communications:海上交通路)を封鎖し易いのです。実際、第一次大戦においてイギリス海軍はドイツを遠方封鎖し、窒息させた、とHolmesとYoshiharaは論じています。

 他方、中国は「海はあるが、大洋は無い」(Ma Haoliang 2009)というポジションにあります。長大な海岸線に多数の港を持っているものの、太平洋へダイレクトに出られる港は持っていない、ということです。東部中国から黄海へ出ると、どうしても太平洋に出る前に第一列島線に阻まれます。第一列島線(the first island chain)とは九州、南西諸島(奄美群島、沖縄、先島諸島ら)、台湾、フィリピンへと至る線のことです。また南部中国から南シナ海にでると、今度はベトナムやマレーシアら東南アジア諸国に取り囲まれています。

 ただしYuFeng liuによれば、中国艦隊は沿岸基地からのカバーから独立して活動できるといい、またその行動には柔軟な選択肢がある、といいます。例えば第一列島線を突破すると見せかけて他に戦力を集中する、というような柔軟なオプションは、ドイツ帝国には無かったところです。

もし台湾を併合すれば、中国はさらに格段に有利になる

wiki画像より)

また、中国の大洋進出において重要になるのが台湾です。台湾は第一列島線の一部です。日本からみれば、台湾が存在することで中国と直接対峙せずに済んでいます。中国軍の脅威を、まずは台湾の軍事力が受け止めてくれているので、その分だけ日本に向けられる脅威が減っているわけです。中国からみればこれはまさに目の上のたんこぶ、玄関口に置かれたやっかいな障害物です。

 しかしもし台湾が中国に併合されるか、又は軍事的に従属した場合どういうことになるでしょう。台湾は中国にとって「出海口 走向世界的戦略通道」(Zhan Huayun 2007)、極めて重要な戦略的通路となります。「Taiwan's Ocean facing side on the east is the only direct sea entrance to the Pacific」(同上)であり、台湾島東岸に軍事基地を建設できれば、中国は有事の際、第一列島線の国々に邪魔されずに太平洋へ戦力を送り込めるようになるからです。

 中国海軍が労せずして第一列島線を越えられるようになれば、第二列島線(the second island chain)への直接攻撃が可能になります。第二列島線は日本の伊豆諸島にはじまり、小笠原を経て、グアム島、サイパン島を通ってパプアニューギニアへと至るルートです。もっとも重要なのはグアムへの攻撃です。

 第二列島線の中央に位置し、最も重要なのがグアムです。グアムはアメリカ軍が西太平洋で作戦をするとき、最も重要な中継地(ハブ)として機能します。グアムは第一列島線より大陸側の同盟国軍、および米軍基地と連携して機能します。岡元もと空将の解説によれば、この地域(たとえば台湾)で有事があった場合、グアムは次のように機能します。

本格的な投入部隊はグアム島に所在することとなる。  


しかし、こうした本格的投入部隊がグアム島から紛争地に機動展開するためには、約3〜4日を要する。そこで、紛争が発生すれば直ちに初動対応部隊として沖縄駐留の部隊が緊急展開し、橋頭堡を形成し、ほかの部隊との調整を実施し、約3日間の戦闘を維持する。  


そして、グアム島からの本格的対応部隊の来援を待つのである。

徳之島もグアムも論外、長崎と辺野古を提案する 迷走する普天間問題に元空将が緊急提言(3/6) | JBpress(日本ビジネスプレス)

 このように有事には第一列島線の部隊が初動にあたっているうちに、第二列島線のグアムから主力が上がってきます。ですがこのとき、第一列島線が既に突破されていたら、後方のハブとして機能すべきグアムが直に攻撃されてしまい、あるべき連携が邪魔されます。白炎林によれば「台湾問題の解決は、(第一列島線を破れるのみならず)第二列島線を突破(break through)するための我々の能力が根本的に変化することをも意味するのだ」ということです。

 もし台湾問題を解決―つまり、外交的手段と軍事的手段のいずれによるかは別として、台湾を併合できれば太平洋への直通出口が手に入り、中国はさらに有利な戦略的ポジションを手に入れることになるということです。

北海とシナ海の差

 続いてHolmesとYoshiharaが論じているのは、北海と比較して東・南シナ海ら第一列島線内の海は、性質が違うということです。

 イギリスにとっての北海はさして重要ではなく、またごく近接しています。従って能力的に可能であれば、遠慮なく北海封鎖を決断できました。またあまりに近接しているため、ドイツ海軍が北海で力を増せば、それは直ちにイギリス本土への脅威となります。よって北海のドイツ海軍に対処しない、という選択肢はイギリスにはありませんでした。

 それに比べ、第一列島線内の海はアメリカと日本ら同盟諸国にとって生命線です。極めて重要な貿易ルートです。また、これらの海はアメリカ本土から距離が離れています。そのためアメリカの指導者たちは、はるか遠方の事態をして死活的な脅威だと解釈せねばなりません。こういった事情があるので、北海を封鎖してみせたイギリスに比べると、アメリカが第一列島線内の海を封鎖するのはよりハードルが高いといえます。

 こういった違いがあるので、シーパワーとしての中国の戦略的位置はドイツ帝国よりも有利だとみなせます。

中国海軍はティルピッツを真似しない

 戦略的位置についての比較の次に、HolmesとYoshiharaは艦隊について比べています。ここで明らかになるのは、中国海軍の艦隊建設はあきらかにドイツ帝国海軍のそれとは違っている、ということです。

 ドイツ帝国海軍は、ティルピッツ提督の指導のもと、イギリスに対して対称な質の戦力をそろえました。イギリスの主力は戦艦隊なので、こちらも戦艦をそろえる、というわけです。そして北海でイギリス戦艦隊と「決戦」をやって勝つ、というつもりでした。しかし戦力の質が対称であれば、あとは量が多い、少ないが勝敗を決めます。ドイツの経済力ではイギリスと同量の戦艦をそろえることはできず、建艦競争をやっても最終的なイギリス有利は変わりませんでした。

 ドイツ海軍といえば何といっても「Uボート」、つまり潜水艦が有名です。しかしドイツ海軍が潜水艦をはじめて完成させたのは、ようやく1906年のこと。水中戦力に資源を割いて、戦艦がおざなりになることを恐れたのです。ティルピッツによってドグマ的に対称戦力を追い求めたドイツ海軍は、そのために潜水艦、機雷、魚雷艇といったものの発展を遅らせました。ドイツ海軍は非対称戦略を自ら放棄したのです。しかし結果的にイギリスを最も苦しめたのは潜水艦に代表される非対称戦力でした。

 このように対称戦にこだわったドイツに対し、中国は明確に非対称戦略をとって艦隊を建設しています。まずは潜水艦隊の充実に力をいれています。ティルピッツがしたような、支配的海軍と対称的な戦力――この場合は大型の航空母艦――の建造は後回しにしてきました。

中国の非対称戦略――A2AD

 中国はアメリカに対し非対称な艦隊をもって、正面決戦ではない非対称な戦いを想定している、と考えられます。これを「Anti-access strategy(接近阻止戦略)」と呼びます。アメリカ艦隊と正面から殴り合って勝つのではなく、足を引っぱる方式です。

 中国はこの戦略に従って、古典的な機雷から新鋭の潜水艦、さらには対艦弾道ミサイルなんていう珍しい兵器までもを投入します。例えばある海域に中国の潜水艦が潜んでいたり、あるいは対艦弾道ミサイルの射程内だったりすれば、アメリカの空母機動艦隊はその海域に入るのに慎重になります。あるいは弾道ミサイルや爆撃によってグアムや沖縄の基地が打撃をうければ、戦力展開に遅れが生じるかもしれません。

 その軍事的目的は、以下の3つです。

1:アジアの特定の作戦領域に、アメリカと同盟国の軍が到着するのを遅らせる 
2:アメリカの軍事作戦を支える地域の重要な基地の使用を妨害するか、中断させる
3:アメリカの戦力投射アセット(空母や揚陸艦)を中国沿岸からできるだけ遠くに留めておく

 こうしてアメリカ艦隊の接近を阻止するか、または遅らせることで、中国が戦争目的を達成するために十分な時間を稼ぎ出します。これに加え、作戦領域内までの接近を許した後も、アメリカ艦隊の行動を邪魔する「area-denial(領域拒否)」を行うと考えられます。接近措置と領域拒否をあわせ、略して「A2AD」戦略と呼びます。

 支配的な海軍への非対称戦略は、ドイツ海軍が積極的に採らなかった、しかしやってみると実に効果的であったものです。もちろんUボートが効果的であったからといってキロ級も効果的であるとはいえないのですが、対称戦を避けている点が中国の独自性です。

中国はドイツよりも巧妙なチャレンジャー

 このような吟味を経て、この論文は「ドイツ帝国らかつてのランドパワーたちと同じように、中国もまた失敗するであろう、という楽観的な予言に安住していてはならない」と説きます。なぜならドイツ帝国と中国の比較から明らかなように、両国はともに支配的シーパワーに挑戦する立場ではあっても、その戦略的ポジションや艦隊、戦略らに明確な違いがあります。そしてそれらの違いは、ドイツ帝国よりも中国のほうがより困難な相手であることを示唆しています。

 ドイツにとっての北海と異なり、中国にとってのシナ海は、支配的海軍が容易に封鎖することを許しません。そこにはアメリカ、日本、韓国らにとって致命的な貿易ルートが通っています。また中国は艦隊建設にあたって非対称アプローチをとってきました。中国の艦隊増強と、アメリカ海軍の数的減少がこのまま続けば、中国は第一列島線の内側でならばアメリカを圧倒する力を蓄積するかもしれません。そこまではいかずとも、最低でもその政治目的を果たすのに十分な時間だけ抵抗できる程度には強大化するでしょう。そうなれば中国はアメリカとその同盟国から主導権をもぎ取ることもできるようになります。

 また、ドイツと異なって潜在的にはシーパワーの伝統を有しています。かつて中国中心の海洋秩序が存在しました。そして今、中国は確固たる戦略的意志(Strategic will)に基づいて、着実な海洋進出を行っています。

 中国はドイツの興亡から多くを学んでいます。その行動は英独建艦競争に突き進んだウィルヘルム二世のドイツ帝国よりも、鉄血宰相ビスマルク時代のドイツ帝国に似ています。ビスマルクがたくみな同盟戦略をとって、ドイツを台頭させながらも周辺諸国がそれを深刻な脅威として受け取らないようにしました。中国の外交には「平和的台頭」「平和的発展」そして「責任あるステークホルダー」といった穏健フレーズがちりばめられており、中国は信頼できる温和なパワーだというメッセージを伝えています。その一方で、大規模な軍拡を行っています。このような思慮深さもまた、中国がドイツと違うところです。

 これらを検討すると、周囲の環境と、リソースの急成長、思慮ぶかい外交、そして不屈の戦略的意志が結びつくところ、中国はドイツがかつてそうであったよりも恐るべき、確固とした競争者となるだろう、とこの論文は結論しています。

…というような感じの論文だったのですが、これをどう評価解釈すべきかについての私の考えは、今日はちょっと時間がないのでまた改めていつか書きたいと思います。

お勧め文献


日本語で中国の海洋進出をふくむ安全保障戦略について論じた本のなかでは、平松氏のものが詳細で勉強になります。例えばこれです。

戦車と装甲車はどう違うのか?  ヨムキプル戦争4

 十月戦争をとりあげるシリーズです。日本では第四次中東戦争と呼ばれているこの戦いは、エジプト・シリア軍がイスラエルを奇襲したことで始まりました(その1)。イスラエル自慢の戦車部隊はエジプトが大量にそろえた対戦車兵器によって敗退します(その2)。頼みの綱のイスラエル空軍(IAF)は、全体的には航空優勢をとっているのに、肝心の決戦場の空域では対空ミサイルに阻まれていました(その3)。

 そこでイスラエル陸軍は敵の対戦車兵器から虎の子の戦車部隊を守る対策をただちに編み出します。そこで今回はここをテーマにし、ついでに戦車と装甲車の違いについて解説します。軍隊の車はぜんぶ戦車だと思われていることがありますが、実際はいろいろあるのです。

いったいこの地獄はいつになったら終わるのか

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photo by <a href="https://www.flickr.com/photos/paulk/" target="_blank">Paul Keller</a>
 イスラエル陸軍は歩兵、砲兵、そして航空支援に不足して、敵の対戦車兵器にさんざん痛めつけられました。しかし悪戦苦闘してなんとかエジプト軍を押しとどめていました。その激戦のあいま、ふいに休息がとれた時、あるガビ旅団長が無線でこんなつぶやきを発しました。

不意にガビの声が飛びこんできた。大儀そうな声でブツブツ言っている。


”いつ戦争が始まったのか忘れちまった。もう何日戦っているのだ。何がどうなっているかさっぱり判らん。


一体戦況はどうなっているんだ。うちの北の隣接地域はどうなったか。南の方はどうか。エジプト軍はどこまで来てるんだ。一体どこにいるんだ。IDF(イスラエル国防軍)は大丈夫だろうか。ゴランの状況は。


情報はないのか。何がどうなっているか教えてくれる者はおらんのか、エ?”


……彼の言葉は私の心に深くつきささった。…ガビが感情を一挙に爆発させたのは、皆の気持ちでもあったのだ。


一体ここでは何がどうなっているのか、この地獄はいつになったら終るのかと(「砂漠の戦車戦」 アブラハム・アダン)

 多くの将兵が同じ気持ちであった、といいます。しかし彼らはそんな苦しい状況の中で、すばらしい柔軟性を示し、失敗から教訓を拾いだします。対戦車兵器に手痛くやられたので、その対抗手段を編み出そうとしたのです。

戦車と装甲車はどう違うのか?

 対戦車兵器の恐怖を終らせるために必要なのは、戦車に歩兵の支援をつけることです。さもなければ敵の対戦車兵器を掃討できないし、敵を撃破したとしても土地を占領できません。

 かといって、徒歩の歩兵では戦車のスピードについていけないので、一緒に陣地にこもっているのでもなければなかなか満足に支援ができません。特に戦車のスピードを生かした攻撃局面では、歩兵も戦車についていくために車両に乗せてやる必要があります。

 歩兵が乗って移動する車両はかつてはトラックだけでしたが、現在では装甲を施した車両が増えています。これを装甲兵員輸送車(略称APC)といいます。

 APCはいわゆる「装甲車」というやつです。これは歩兵を乗せて運ぶための車であり、一般的には10人近くの人数を乗せられます。そのため車体が大きくなりがちです。そのため重たくて分厚い装甲や大きな砲はもっていません。必要なところまで移動すると歩兵は車から降り、下車戦闘をおこないます。

 歩兵を乗せるAPCに対して、戦車に乗っているのは普通は戦車兵のみです。彼らはずっと戦車に乗って戦います。戦車は装甲車よりも遥かに頑丈な装甲と、巨大な戦車砲をもっています。そのため攻防に優れますが、視界が狭い、占領ができないといった欠点があります。

 戦車も装甲車(APC)も、「装甲車両」の一種であるし、どちらも軍隊が使う車ですが、中身はぜんぜん違うのですね。それ自体で戦う車なのが戦車、歩兵を乗せて運ぶのが装甲車です。

「歩兵が欲しい、歩兵はどうした!」

 装甲車に乗った歩兵の支援がなければ、戦車部隊だけで満足な戦果をあげることは多くの場合困難です。ナトケ旅団長とアダン師団長との通信はそれを象徴しています。

敵の戦車ならびに装甲車と激戦中との連絡が届いた。ナトケからである。……彼は報告を続けながら”歩兵が欲しい、歩兵はどうした!”と何度も怒鳴るのだった。


しかし私にどうしろというのだ。一体どこから歩兵を持ってこいというのか。我々には確かに歩兵はあった。しかし彼らはハーフトラックに乗っており、戦場投入には不安があった。(p45 アダン)

 ハーフトラックとは歩兵を載せる車両の一種です。何が”ハーフ(半分)”かといえば、前輪がタイヤ、後輪がキャタピラだからです。アダン師団長はハーフトラックに乗った歩兵をもっていましたが、戦闘中のナトケ旅団に送り出すには不安がありました。

ハーフトラックは無蓋車であるため砲撃に弱い。前部は装輪であることから、不整地特に砂丘での行動は極めてのろく、走行不可能の場合もある。(p52 アダン)

 
 このため戦車部隊が戦闘中のところへ送るにはためらわれました。ハーフトラックより速く、より防御力のある車両が必要でした。望ましいのは半分だけではなく、全部キャタピラの装軌APC(装甲兵員輸送車 / いわゆる装甲車)です。

キャタピラの方がタイヤよりも速い?

 キャタピラでキュラキュラと進むよりも、タイヤ式の方が速度はでそうな気がします。しかしそれは何の障害物もなく、舗装された道路をドライブする時の話です。不整地、それも砲撃でデコボコになったのが戦場の地面です。タイヤでそんな不安定なところを走るとスピードがでず、無理に急ごうとすれば車が転倒してしまいます。砂丘や水田のように足元が悪ければ、途中で進めなくなる恐れもあります。

 そのため戦場についた後の「戦術機動」、および撃ち合いながらの「戦闘機動」では、装軌(キャタピラ)式の方がタイヤより速いのです。特に戦車(もちろんキャタピラ式)と協力して前進する場合、装軌装甲車に乗らなければ歩兵は戦車のスピードについていけません。

 また装甲車であっても装輪(タイヤ)式の場合、戦術以下の機動では戦車の速度に追いつくことができません。そのかわり装輪式より安価で、長距離を移動するのに適しています。日本の陸上自衛隊は予算が乏しく、少ない兵力で本土を守らねばならない、装甲兵員輸送車(APC)に力をいれています。

 一部には、日本は戦車を廃して装甲車だけでよい、という極端な意見もありますが、これは誤りです。十月戦争をはじめ多くの戦訓が示すように、装甲車に乗った歩兵と戦車は互いに補いあうものです。どちらか一方では著しく不利になります。(参考「日本は島国なのになぜ戦車が必要なのか?」)

要するに、戦車とAPCはそれぞれの用途において相手より優れているのであるから、双方を比較しても余り意味がない。重要なのは、戦場で互いが補完し合い協力することである。(p56 アダン)

 (主として装軌式の)装甲車に乗った乗車した歩兵のことを「機械化歩兵」といいます。イスラエル陸軍は機械化歩兵を戦車と組ませ、協同させることで、対戦車兵器対策を固めていきました。


対戦車兵器への対抗手段を編み出せ

 イスラエル軍は装軌APC「ゼルダ」に歩兵を乗せて、戦車を援護させました。それに加え、恐るべき対戦車ミサイル「サガー」で撃たれたとき、これを回避する方法を考えました。

旅団長たちはサガー恐怖症に陥っていたが、今やほぼそのショックから立ち直っていた。我々はすでに警戒の仕方を学び、対策もとれるようになっていた。…


…各隊には対戦車ミサイルの監視役がつくようになり、戦闘中彼らが”ミサイル左!”とか”右からミサイル!”などと叫び、それに応じて戦車は回避運動をやるのである。


戦車の前にゼルダを配置して進むと非常に良好な結果になる、と皆考えていた。…今や各大隊にゼルダに搭乗する機械化歩兵が付き、戦車の側面を守るのである。(p73 アダン)


 苦しい防御戦闘をやりながらも、イスラエル陸軍は現場の判断で戦術を改善していきました。その甲斐もあって、戦闘はだんだんと楽にこなせるようになっていきました。

「待ってろよ、すぐにお前たちの番になるんだぞ!」

 そうしてエジプトの攻撃を耐え忍ぶうち、状況が好転します。

 ゴラン高原の北部軍がシリア軍を破ったのです。イスラエル北部軍はシリア軍のゴラン高原侵入を許したものの、その進路をはさみこむ反斜面陣地を作り、稜線での防御戦闘で敵の侵攻を食い止めることに成功しました。(p299 ラビノビッチ)そして逆襲し、シリアの首都ダマスカスの近くにまで迫ります。

 この報告を受けたアダン師団長はさっそく味方部隊に、さらには敵軍にまでこの情報を伝えました。

通信系で旅団長たちを呼び出すと、こんな風にやりだした。


”全部隊に告ぐ。こちら師団長。シリア軍はねじ伏せられつつあり。北部正面の我軍、情け無用の前進中。すべて順調。ヤノシュ(第七機甲旅団長)はダマスカスの城門にあり”


と言ってから、自分でも一体どうしてあんなことをしたのか判らないのだが、私は突然エジプト軍へ向け放送をやり始めたのである。彼らが我々の通信系を傍受しているに違いない、とその時フト考えたのが原因かもしれない。


”オーイ、エジプト兵よ、聴いとるのなら注意して聴けよ、こん畜生めが、すぐにお前たちの番になるんだぞ!”


するとナトケ(旅団長)が無電にでて、味わいのある悪口を並べたてた。(p82 アダン)

 お偉い将軍たちが、テンションが上がって思わずこんなことをやらかし始めました。するとこの雰囲気が部下へ部隊へと伝染して、南部軍の士気は急激に高まります。

 反撃の時が近づいていました。