リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

「即動必遂 東日本大震災 陸上幕僚長の全記録」

即動必遂

即動必遂

 

 本書は、書名の通り、東日本大震災の際に陸上幕僚長の地位にあった火箱もと

陸将が、当時を振り返って書いた著書です。興味深いのは、著者が陸上自衛隊のトップとして、隊員の口内炎を心配するほどの配慮をしながら、同時に隊員に「決死隊」や「特攻」のような危険極まりない命令をだす覚悟をしつつ、部下の命と市民の命をともに守ろうと奮闘している点です。

発災直後の判断

本書は発災の瞬間から始まります。まず驚くのは、著者の判断のものすごい速さです。発災し、エレベーターが動かないので、著者は階段を11階から4階まで駆け下ります。

何をなすべきか。頭の中もフル回転していた。

「生存確率が高い72時間以内に、被災地に大部隊を送り込む。」

「東北方面隊だけでは人数が足りない。五方面隊全てから部隊を集める」

「まずは、東北方面隊を出動させ、直ちに北部・東部・中部・西部方面隊から部隊をだす」

4〜5分後、4階の執務室に着いた時には、運用作戦の骨格は頭の中で完成していた。

(28p) 

 駆け下りる間に、災害派遣の基本的な構想が頭の中で完成させています。

 その後、著者は日本各地の方面隊の司令官に電話をかけて東北への増援指示を伝えるのですが、その際、真っ先に電話した先は、東北に近い北海道ではなく、九州・沖縄の西部方面隊です。「当たり前の話だが、被災地から遠いほど現地到達に時間がかかるから」とのことです。未曾有の震災があった直後、当たり前のように手際よく行動が取れるのはすごいものだと思いました。

こうして陸上自衛隊は全国から東北に駆けつける態勢を速やかにとりました。

被災者に自分の食事を差し出す隊員を注意

興味深く思ったのは、次に著者がすぐ「兵站」に手をつけていることです。

当初、被災地では乾パンのような災害非常食しかありませんでした。

「どうぞこれを食べてください」と、自分の食事を被災者に差し出す隊員も数多くいた。部隊の管理者としては「それはいかん。しっかり戦ってもらうためには、十分に栄養補給しなくてはならない。被災者へのそうした個別の行為は慎むように」と注意せざるを得なかったが(中略)

隊員たちの気持ちは痛いほどわかるが、こんな状態が続いていたら隊員の健康に問題が起きる。その結果、十分な救助活動ができなくなるかもしれないことを恐れた。(p68−69)

自衛隊員が自分は空腹を我慢して市民に食事を与える、というのは美談ですが、救助活動にはカロリーが必要です。「泥水をすすり、草をかみ」というほどの苦労をして戦った旧日本軍は、戦場でも兵士に牛肉を食べさせていたアメリカ軍に負けました。

経営者は、「頑張れ、一生懸命やれ」と部下を駆り立てることも時には必要ですが、そもそも継続的に頑張れるだけの環境や休養を整えてやることが先決問題です。

「缶詰ばかり食べて、口内炎になった隊員がいる」と言う報告を受けた著者は、ビタミン剤を配布するようにするなど、現場隊員の健康を案じて色々な対処を取っています。

やる気があり過ぎるのも問題

食事だけでなく、メンタル面のケアも必要です。本書にはこうあります。

多くの遺体を収容する作業によるPTSDも心配だった。・・・医師や臨床心理士など専門家の「陸幕メンタルヘルス巡回指導チーム」を現地に派遣して、PTSD等の予防と発症の恐れのある隊員の早期発見に努めさせた。

・・・しかし、対象とされた隊員はいずれも「何でもやります」「やらせてください」と極めて士気は高かった。逆にあまりに士気が高すぎるのも気がかり出会った。発災から約1週間がたったころ、文字通り不眠不休で人命救助に当たっており、明らかに過活動状態出会った。このままにしておくと、隊員がいつかポッキリ折れてしまうのではと懸念した。(p74)

 そこで、長期戦を戦えるように、隊員をローテーションで強制的に休ませる「戦力回復センター」を設置したそうです。

残念ながら、そのような処置があっても、災害派遣中に脳溢血などで急死された隊員が3人。災害派遣中は大丈夫でも、任務終了後に自殺してしまった方も何人もいるそうです。そういった被害をなくすためにはさらなる研究が必要でしょう。

とはいえ、こういった食事や休養へ配慮する視点があったことを見ると、陸上自衛隊は太平洋戦争中の日本軍と違い、兵站の重要性を強く感じているようです。

ただ、重要性を感じていたからといって、十分な人員を持っているかといえば、それはまた別の話のようで、本書中にも輸送力の不足の話が多く出てきます。

「使い捨てではない隊員の命」

原発の危機的な状況が判明すると、本書の記述はさらに緊迫の度を増していきます。

3号機の水素爆発で4人の隊員が被曝。ヘリや車両には、放射線を遮るタングステンの板を応急調達して備え付けましたが、問題となったのは被曝量の基準です。

当時の政府の対応はひどい者だった。事故前まで国際放射線防護委員会の勧告に基づいて日本が採用していた放射線量の限度は・・・緊急作業時の上限が年間100ミリシーベルトだった。事故直後には年間200ミリシーベルトに引き上げ、さらに政府からは「500ミリシーベルトでもいいのではないか」との打診があった。

私は即座に「やめていただきたい!」と大臣に申し上げた。限度を引き上げたばかりで、舌の根も乾かないうちにさらに引き上げるという。正直腹が立った。自衛隊員の命をあまりにも軽く見ているのではないか。(p77)

このように、著者は被曝量上限の引き上げに反対して、現場の隊員を守ろうとしています。

その時が来たら、空挺隊員を原子炉の屋上に降下させる。

しかし、部下に優しいだけではありません。無用の危険を避ける一方で、他に手段がない場合は悲壮な作戦をとることも準備しています。

原子炉内にホウ酸を直接投入して放射線を封じ込める作戦です。そのためにはヘリからの投下では不足です。

方法はただ一つ。ヘリからロープで建屋の屋上にたち降り、屋上から横壁に接近し、横壁に開いた穴からホウ酸を投入する。これしかない。決死隊だ。・・・2号機建屋屋上でこれだけの作業をしたら、致死量に近い放射能を浴びることは避けられない。直上で長時間滞留するヘリの操縦士も、ものすごい量の放射能を浴びるだろう。しかしー(p98)

著者は、この作戦に投入できるのは最精鋭の空挺隊員しかないと考え、準備をさせました。実際には地上からの放水で事態が落ち着いたため、隊員を建屋屋上に降下させるこの作戦は構想だけで終わりました。しかしその後も最悪の事態に備え、投入できる隊員の準備だけはなされていたそうです。

万一に備えて待機を続けた空挺隊員に、著者はこう指示したそうです。

「諸君が現在の任務に物足りなさを感じていることは十分理解している。・・・原発は現在小康状態だが、いつ何時最悪な事態になるとも限らない。・・・10km圏内に住民も残っている。職員、住民の救出、原子炉へのホウ酸投入などが必要になってくる場合もある。

私は、その時は諸君に最先頭に立って行動してもらうことを考えている。その時に備えて、個人の被曝線量が限度を超えないように待機していてもらいたい」

山ノ上第一空挺団長、赤羽第二大隊長は「最後は”特攻”もあるのか」「ならば、その時に備えなければ」と得心したようだった。(p141-2)

当時のテレビを思い出すと、原子炉直上をヘリで通過するのさえ、恐ろしく見えたものです。そこに、生身の人間を降下させるとなれば、それを命じる人も、命じられる人も、求められる覚悟は想像を絶するものがあります。

一方で隊員の被曝量や健康を案じながら、他方では最悪の時には隊員の命とほとんど引き換えにして原発を止める計画を準備する。最悪の事態では、そのような究極的な決断があり得たのが、あの時の日本だったのです。

本書には他にも、未曾有の事態に対して、色々な工夫を重ねて矢継ぎ早に対処していく自衛隊の姿が描かれています。色々な点で、非常に興味深く読めた本でした。

本物の古代史のまとめ本「古代史講義」ちくま新書

古代史講義 (ちくま新書)

古代史講義 (ちくま新書)

 

ずっと昔から、歴史はエンターテイメントとして消費されるものです。むかしむかしは歌物語や講談話、現代では歴史ドラマやゲーム、「なになにの謎!」だったり「歴史の真実!」的なお軽い歴史本が出回るのは、百年一日の景色です。

裾野が広がるのは良いことで、裾野は常に低く俗なものです。かといって、裾野がなくて、どうして頂きが高くなれましょうか。本が売れるのは良いことです。本屋も出版社も、ごくごく一部の売れる本で口に糊して、売れないけど良い本をたくさん出すのです。すれば、裾野から入った人も、次の道しるべを手に取れるというもの。

例えば本書のような、研究者たちによる「今、ここまできてるよ」というまとめ本です。

学術の世界は奥深くて、様々な分野をことごとく修めることは到底できません。でもありがたいことに、時折こういう本を研究者のみなさんが呻吟して書き、出版社が新書や文庫で出してくれます。本書には、遣唐使についてこういう記述があります。

『旧唐書』日本伝には、養老の遣唐使について、「皇帝から賜った品々を売り払い、その代金全てで書籍を購入し、それらを船に積み込んで帰っていく」との記事がある。なりふり構わず中国からの文化移入に努めた様子が窺えるが、ここで注目すべきは、不要な高級品を持ち帰るより、直接役立つ書籍を求める姿勢である。

遣唐使たちが宝飾品の代わりに買い求めた群書はさぞ高級だったでしょうが、本書はただの新書です。書いている研究者がその分野を修めるのに何年、何十年かけて辛苦したかを考えれば、タダ同然の値段ですよ。こういう本を庶民が買える値段で売れるなら、日本の文明も捨てたものではありません。

本書は「邪馬台国から平安時代まで」の書名の通り、各時代の研究者が今までどんな成果を積み上げてきたかを要領よくまとめてくれた本です。かつて教科書に載っていた説も今は覆され、どんどんと新しくなっている・・・最近の教科書は「聖徳太子」と書かず「厩戸王」らしいとか、聞いてはいても、なぜ説が改まったのか、説明できるでしょうか?

本書では、目覚ましい考古学の成果が、旧説を転換させていく過程が描かれます。まるで、探偵が意外な証拠を発見して、事件の真犯人を明らかにするようなスリルがあります。なるほど歴史学の営みというのは立派なものだと感心します。おすすめです。

 

読書記録「リンボウ先生の文章術教室」(林望)

教科書から消えた「最後の授業」(ドーデ著)

最後の授業 (ポプラポケット文庫)

最後の授業 (ポプラポケット文庫)

 

 アルザス・ロレーヌ地方は、ドイツとフランスの歴史的な係争地です。戦争があるたび終わるたび、ドイツになったりフランスになったり。国境線を引き直せばそれで済むのは地図屋だけで、実の土地にはそこに根付いた人間がいます。

ドイツ領となったアルザス・ロレーヌでは、学校の授業もフランス語が除かれます。フランス人教師アメルが、フランス語で行う最後の授業を、少年の目から描いたこの物語は、昔は国語の教科書にも載っていました。

一生懸命、聞いてください

アメル先生は、こう言います。

「みなさん、わたしが授業をするのは、きょうが最後です。ベルリンから命令がきて、アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語以外のことばを、おしえてはいけないことになりました……。あした、新しい先生がこられます。きょうは、みなさんにとって最後のフランス語の授業です。どうかいっしょうけんめいきいてください」

主人公の少年は不真面目な生徒でした。フランス語の文法がまだまだ未熟で、最後の授業だというのにうまくはできません。

「フランツ、先生はきみをおこりはしない。これで、きみはじゅうぶん、ばつをうけたはずだ。わたしたちは毎日こう思う。(ああ、まだ時間はたっぷりある。あす勉強しよう)とね。そのあげくが、ごらんのとおりだ……。

勉強できるときに勉強することの大事さをよく伝えていますね。

言葉は牢獄の鍵

先生はフランス語について、もう今日を限りに教えることはできずない言語について語ります。

アメル先生は、それからそれと、フランス語についての話をはじめた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりした言葉であること。だから、ぼくたちで、きちんとまもりつづけ、けっしてわすれてはならないこと。なぜなら、民族がどれいになったとき、国語さえしっかりまもっていれば、じぶんたちの牢獄のかぎをにぎっているようなものなのだから……。

この物語は、国語の教科書から除かれました。この話を読んだ後なら、千年前の詩や小説を現代人が読める有り難さを伝えることもできるでしょうに。

「ドイツ語は人殺しの言葉」

しかしこれは一方で、一つの言語、一つの文化を押し付ける同化政策を、美化した物語でもあります。

主人公の少年のフランス語が不十分なのは、母語ではないからです。

アルザスにはアルザス語という土着の言葉がちゃんとあって、日常アルザス語で暮らしていました。フランス語は学校で文法から習うべき一つの外国語だったのですが、物語ではそれがまるきり無視されています。

フランス語はもともとアルザスの国語だ、アルザスは昔からフランス領だ、という虚構を前提として置いた、これは美しい物語です。切なさと美しさの内に、同化政策とフランスの領有権を正当化しています。

だから教科書にはふさわしからぬ、という判断があったそうですが、その分、教育的な題材だとも言えるでしょう。

ドーデの他の作品だと、この点がさらにあからさまにです。最後の授業が終わり、ドイツ人の先生がやってきた後の話です。

登場する少年は、フランス語への愛ゆえに、ドイツ語の授業を嫌がります。

「二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんかーーどろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ。」(村の学校(実話)

著者ドーデは、アルザスの物語を、パリの民衆に向けて書きました。だからこのように露骨に表現しても「そうだ、ドイツ人は、我が国の領土を戦争で奪った泥棒だ、人殺しだ・・・」と共感を呼びやすかったことでしょう。

しかし時と場所を隔ててこれを読めば、この異様さがわかります。子どもがドイツ語をこのように言い、ドイツ人を泥棒で人殺しの民族だと激しく決めつけ、憎悪を燃やしているのです。「最後の授業」でアンリ先生が切なく説いたフランス語への愛は、確かに子どもに伝わりましたが、ドイツ語への憎悪となり果てました。

愛に共感した読者こそ、それが憎悪に転じる恐ろしさと容易さを身にしみて感じることもできるでしょう。

ナショナリズムを忌避するのは、それに陶酔するよりも賢明です。でも、ナショナリズムに通じるものを全て遠ざけ隠してしまえば、ナショナリズムへの批判的な見方を養う機会も、奪うことにならないでしょうか。

あらゆるバイ菌を遠ざけて、免疫のない子どもを育ててしまうように。健康には、衛生を保つだけでなく、予防接種が必要です。十分に批判されているこの物語は、ちゃんと解説をつけるなら、さしずめ無毒化したウイルスでしょう。

「最後の授業」は美しく、だからこそ恐ろしく、そこまで含めて面白い作品です。

今なお、教育の題材にももってこいだと思うのですが、教科書からは除かれたままですので、未読の方はお近くの図書館で探してみてはどうでしょうか?

 

最後の授業 (ポプラポケット文庫)

最後の授業 (ポプラポケット文庫)

 
村の学校(実話)

村の学校(実話)

 

 

「紛争地の看護婦」白川優子著

今年読んだ本の中で、もっとも感銘を受けた本を紹介します。

紛争地の看護師

紛争地の看護師

 

 本書は、「国境なき医師団」に参加している看護婦の著者の、紛争地での体験談や半生を綴ったものです。

国境なき医師団は、国際NGOの中でも特に危険な地域に乗り込み、戦争や内戦によって医療を受けられない人々へ人道支援を行なっている団体です。

著者は、日本国内の看護学校を卒業し、看護婦として活躍されていた方ですが、豪州に留学を経て国境なき医師団に所属され、多くの紛争地で活動されたそうです。

本書の目次を見ただけで、その体験の凄まじさが察せられます。

目次

第1章 「イスラム国」の現場から モスル&ラッカ編

第2章 看護婦になる 日本&オーストラリア編

第3章 病院は戦場だった シリア前編

第4章 医療では戦争を止められない シリア後編

第5章 15万人が難民となった瞬間 南スーダン

第6章 現場復帰と失恋と イエメン編

第7章 世界一巨大な監獄で考えたこと パレスチナイスラエル

最終章 戦争に生きる子供たち

ISが猛威を振るっていた時、シリア内戦の初期、ニュースで時折名前を耳にする紛争地に乗り込んでいた著者の体験には、想像を絶するものがあります。

紛争地での医療

各章で印象に残った部分を紹介します。

イラクでは、イラク政府軍とISの戦闘により、市民の犠牲者が続々と著者の病院に運ばれてきました。

この日運ばれてきたのは50代の女性だった。貧血と栄養失調は顔色から察知できた。彼女は空爆で片足を失った。手術を終え、まだ麻酔の眠りについている彼女を見つめる・・・彼女が目を覚まし、さめざめと泣き始めた。しばらく泣いた後、私の顔を見て言った。

「死なせて」

夫と4人の子供を失い、彼女だけが生き残ったことに絶望していた。・・・仕事中は泣かないようにしているが、その日は彼女の手を握りながら泣いた。(第1章)

 一時は猛威を振るったISも、徐々に勢いを失い、「首都」を称したラッカをイラク政府軍に包囲されます。政府軍はラッカを攻撃しますが、市内には人間の盾とされた市民たちが残されていました。

市民を待ち受ける運命は二つに一つだった。空爆か地雷か。ラッカ市内にとどまる限り、ISからの奪還作戦による空爆や砲撃を受ける危険がある。その危険から逃れるには、ISが張り巡らせた地雷原を通らなくてはならない。

私はラッカ脱出に成功したある男性の話を聞き、背筋が凍った。25歳の彼は、妻と、生まれたばかりの子供を抱えていた。生後7日目だ。奪還作戦が始まり、彼の子供は空爆の音が聞こえる中で生まれた。彼は妻と、産まれた赤ん坊を守る道を模索した。そして地雷原を渡ってラッカを脱出しようと決断した。

・・・産後7日目の母親は赤ん坊を抱え、彼の後ろについた。彼が赤ん坊を抱いてはならなかった。彼がもし地雷を踏んでしまった場合、爆破を受け止めるのは、彼一人でなければならないからだ。(第1章)

紛争地での医療活動

 

著者は、豊かな医療経験から、看護婦長として各地に派遣されています。特に手術室での経験が豊かであることから、本書でも手術関係の描写が多く、印象に残ります。ジャーナリストではなく、医療従事者として、現地に関わっている人ならではの記述だと思います。

緊急の患者が来る時、私はまず「どっち?」と聞く。「どっち?」というのは「銃創」か「爆創」か、どちらかという問いだ。このシータ病院に運ばれて来る患者の怪我の原因は、とにかくこのどちらかでしかなかった。銃創と爆創では治療の方向性が変わってくる。(第3章)

そのような状況では、当然、多くの人の死を目にすることになります。特に南スーダン内戦での描写には言葉を無くします。

陽が照りつける劣悪な環境のもと、うめき声が次第に静かになり、やがて生き絶えていった。・・・簡単に奪われる命、見向きもされない死。私たちと同じ人間なのになぜだろう。遺体を入れるバッグに、性別と推定年齢を書き、処理方法も分からないまま国連敷地内の隅の砂利の上に遺体を並べていった。(第5章)

MSFの特殊性

本書は著者の体験に重点をおいているため、著者が属す国境なき医師団(MSF)についてはあまり深くは触れられません。人道支援をしているNGOは多数ありますが、MSFは、その中でも極めて大胆な、敢えて失礼な言い方をするなら、過激な団体です。

もともと、紛争地への人道支援赤十字国際委員会(ICRC)が古くから行なっていました。しかしICRCは紛争地での「中立」を保つため、当事国の同意がなければ、援助活動を行えませんでした。「そんなことを言っても、現地には助けを求めている人がいるじゃないか、国家主権など知るか」とばかり、国境という概念を乗り越えるべく設立されたのがMSFです。

MSFも、ICRCと同様に「中立」を理念の一つとして掲げています。しかし中立の解釈が異なります。ICRCは、紛争をしているどちらにも加担しないことを中立だとしています。

MSFは、中立とはそういうことではない、国家や紛争当事者とは無関係に、必要な医療行為を遂行することが中立だとしています。そのため、医療行為を邪魔する国を批判したり、無視して人道支援を強行したりします。

著者も、医療を提供するため、当事国の同意なしに、紛争地シリアに「潜入」しています。シリアの国家主権を無視し、国境を無視し、ただただ医療行為を遂行するのがMSFです。

MSFは中立の立場として早くからアサド政権に非政府組織(NGO)として国内での活動許可を申請していたが、受諾されなかった。そのため私たちは無許可で、反体制派の支配地域で活動するしかなかった。(第3章)

そこで著者は、様々なルートからシリア国境を超え、シリア国内の支援者の元へ潜入します。著者は何度かシリアに入国していますが、その度に違う潜入ルートを使うことで、ルートが露見して政府に妨害されることを避けています。

このような行為は、アサド政権からすれば「不法な団体が反体制派を支援している」と解釈され得るため、見つかれば攻撃を受けます。

ある日、シリア国内の別の場所で活動していたMSFは、拠点をネットニュースに報じられてしまい、その翌日、政府側の爆撃機から空爆された。情報はどこから漏れるか分からない。(第3章)

見つかれば攻撃される危険を承知で、隠れて病院を開設する。もちろんリスク管理はしているにしても、他のNGOが撤退する中でMSFだけが残って活動する描写があるなど、過酷な現場であっても、人道支援団体の中でも相対的に大きなのリスクを許容して活動していることがわかります。

MSFの憲章には「任務遂行にともなう危険および危難を引き受けることに同意する」と書かれています。

そのような国際人道支援の現場を垣間見られる本書は、とにかく感情を揺さぶれる本でした。Kindleでも読めますので、強くおすすめします。

紛争地の看護師

また、本書でMSFに興味を持たれた方には、MSFのウェブサイトの右上「寄付をする」ボタンから、クレジットカード等を使って寄付が可能です。定期的に寄付する場合の最低金額は、1ヶ月1000円からとなっています。

www.msf.or.jp

読んだ本「歴史と戦略」永井陽之助著

歴史と戦略 (中公文庫 な 68-2)

 

先の記事でも引用しましたが、名著の文庫版が出たので再読しました。超おすすめです。

冷戦時代、日本の安全保障に関する議論は、著しい貧困状態にありました。防衛を論ずること=軍国主義というようなイメージの強い時代にあって、かつ国内法に関する法理的な議論が多くを占める状況では、戦略を論じる以前に語るべきこと、語れないことが共に多すぎたのでしょう。

しかしそんな時代の制約にあって、永井陽之助を始め、戦略家と言い得る少数の人物を持てたことは、日本の知的な豊かさを示すものです。

本書は、タイトルのとおり、歴史を参照しながら、戦略を論じる本です。第二次世界大戦、日露戦争、そして現在の出来事であったベトナム戦争らの例をひきつつ、抑止、情報、攻勢と防御、そして目的と手段と均衡といったトピックを論じています。

もとは「現代と戦略」という本で、その後半部分を再編して文庫化したものです。さらに元は昭和59年に文藝春秋で書かれた連載です。そのため、いま読み返せば、用いられている戦例が日本の近現代史に偏っており普遍的な分析になっておらず、また原著発簡当時には広く信じられていたものの、その後の研究の進展によって誤りと分かった歴史的事実を用いているといった問題もあります。

とはいえ、考察の鋭さと論じているトピックの適切性には、時代を超え得るものがあります。

永井は特に「意図と結果のギャップ」「目的と手段のバランス」を重ねて論じています。特に後者、戦略における手段と目的の関係の重要性については、リデル・ハートや高坂正堯も論じているところで、戦略の本質に関わる極めて重要なトピックです。本書の中で、永井が戦略の本質は「自己のもつ手段の限界に見合った次元に、政策目標の水準を下げる政治的英知」だと論じるくだりには、何度読み返しても新しい知見を得られます。

このような議論が古くならないのは、世界史上の指導者たちが似たような戦略的失敗を繰り返し、多くの悲劇を生んで、倦むところがないからです。戦史は「愚者の葬列」であって、数知れない失敗を繰り返してきた記録です。そこから学ぶということで、誤ちを繰り返す確率を下げることができるでしょう。

以下、メモしたところ。

井上成美の「新軍備計画論」について論じたところ。

井上の戦略論が、作戦レベル以下でも妥当であったかには疑問があるが、現代にあてはめれば別の読み方ができると思う。例えば現代の米国の議論では、中国のA2AD戦略への対抗として、第一列島島上の同盟諸国の地勢を活用し、対空・対艦ミサイルの配備や光ケーブル網の抗たん化により、米同盟国側のA2AD能力を高めるべきだという議論があるので、その中での日本の位置取りを考える際に井上の議論は参照されるべきかもしれない。

他方、スタンドオフ兵器等により米空母の接近を阻止し、グアムに痛撃を与え、米国の戦力投射能力を一時的に後退させる中国側の戦略は、作戦面では有効ではあっても、戦略的には真珠湾奇襲と同質の「挑発的攻勢」となってしまう危険があるともいえる。

やむをえず、対米戦争不可避となれば、それは「能力」の点での非対称性の前提にたって、日本の脆弱性をできるかぎりとりのぞき、継戦能力と抗戦意志をつよめ、米国の脆弱性をつき、的の抗戦意志と継戦能力の低下を狙うほかない。つまり、日本を「不敗の地位に置き」、「持久戦に耐え得る丈の準備を為し置く事」につきる。いいかえれば、戦略防御に徹し、ベトナム戦争で、北ベトナムがやったように、米国の戦争目的と意図のレベルを平時にとどめおくために、決して敵の抗戦意志をつよめ、資源動員をフルに発揮させるような、挑発的攻勢にでることなく、まもりに徹し、持久と待忍で敵側の抗戦意志と継戦能力の脆弱化(戦意の喪失)をねらうほかない。

その戦略的目的にとって最適の手段は、戦略防御(戦術的防御にあらず)と持久に徹した、いわば海上ゲリラ戦ともいうべき戦術の展開である。さいわい、太平洋に散財する天与の宝ともいうべき島々を、陸上航空基地、つまり不沈空母として、その徹底的な非脆弱化(要塞化)を急速にはかり、この基地航空兵力を海軍航空力の主力とすべきである(空母は脆弱)。(p47)

 戦争の制度化について端的にまとめたところ。

ウエストファリア会議以降、徐々に近代の民族国家が成熟し、国内社会に散在する党派の武装集団から暴力手段をうばい、国家がそれを独占するようになっていく。かくて国家が、唯一の正統な暴力装置(警察と軍隊)の独占者としてあらわれる。ここから「国家を主役とする戦争」がしだいに制度化されていった。

こうして18世紀と19世紀には、ヨーロッパ公法上、いわゆる「形式をもった戦争」が、まるで第三者(中立国)の立会者のもとで、一定のルールにもとづいておこなわれる紳士間の決闘のような戦争(日露戦争を想起せよ)が、あらわれるようになった。…

このような「戦争の制度化」によって、はじめて、「宗教戦争と内戦の二つに対立して、あらたにヨーロッパ公法上、純粋に国家が主役になる戦争があらわれた(カール・シュミット)のである。その意味で18世紀と19世紀は多くの点で異例の時代であった。(p159-160)

 レーニンのプロパガンダについて。

ボルシェヴィキの政治体験からレーニンが学んだ最大の教訓は、人民戦線ストラテジーの有効性であった。いわゆる自由主義者、社会民主主義者、理想主義者、平和主義者、ヒューマニストなど、ボルシェヴィキ以外の左翼的知識人、シンパ文化人が、いかに政治的に素朴で、お人好しで、だましやすい存在であるかということであったといっていい。かれらは、ボルシェヴィキのかかげる、平和、反戦、民主、人道、正義のスローガンに、コロリとまいるセンチメンタルな、間抜け、腰抜けであることを骨のずいまで学び取った。…この政治的リアリズムはやがてナチのシニズムとなって、より悪魔的な様相を濃くしていった。(P166-167)

第一次世界大戦開戦時の見通しの甘さについて。将軍たちがどの程度の見通しをもっていたかを延々と紹介している。オチが気が利いている。

第一次世界大戦の開戦時、サー・ジョン・フレンチは、1914年11月、戦闘はこれで終わったと主張し、1915年1月には、かれは戦争それ自体が6月までに終了するであろうと意見を公表している。2月には、ジョフルが7月までに戦争はかたづくと発表し、ヘイグも3月、ドイツ軍は7月末までに和平を求めてくると確信をかたっている。7月にはドイツ軍は翌年1月後までに抵抗不能になると断じ、まもなく、9月攻勢まえに、その予想期間を短縮し、冬の到着前に休戦が実現するだとうと予言している。英軍のキッチナーのみは唯一の例外で、開戦当初から、戦争は3年間継続するであろうと、悲観的な展望をかたっていた。それでも、本当は4年3ヶ月つづいた。(p182)

本書のうち、最も傾聴、再読、味識すべきところ。

戦略の本質とはなにか、と訊かれたら、私は躊躇なく、「自己のもつ手段の限界に見あった次元に、政策目標の水準をさげる政治的英知である」と答えたい。

古来、多くの愚行は、このことを忘れた結果である。この英知をくもらせる要因はあまたある。力のおごり、愛他的モラリズム、希望的観測、敵の過小評価、官僚機構の惰性、国内世論の重圧、官僚の出世欲、自己顕示欲、数え上げればキリがない。現代の三十年戦争とよばれたベトナム戦争のプロセスは、アメリカにとって目的と手段のバランス感覚を見うしない、手段の限界に見あったレベルにまで、達成目標の水準を徐々にさげるのに長い長い時間がかかった歴史であった。(p212-213)

 これは見識に富んだ意見だが、永井自身の議論(原著の前半部分)を見ると、「高すぎる政策目標に合わせて自己のもつ手段の限界を無制限に伸張させること」への警戒から、手段の向上をほとんど認めない、という立場に終始してしまい、本質である目的と手段の対話をかえって失っているとも思える。このことは、歴史において特定の時代の特定の国から得られた教訓を、別の時代に当てはめる際の類推の難しさを教えているように思う。

1944年のポーランドで日本人であることー 「また、桜の国で」須賀しのぶ著

また、桜の国で

 

久しぶりに面白い歴史小説を読んだので、感想を書きます。

この小説の舞台は、ポーランドの首都ワルシャワ。主人公たちが生きる時代は1939年から1944年。それだけ聞いて「あ、これは・・・」と思った方は、この記事を最後まで読むまでもなく、本書を買うべきです。

1939年といえば、第二次世界大戦が始まった年。1944年はノルマンディー上陸作戦の年。この小説はWW2のどまんなかを書いています。

そして舞台はポーランド。よりによって。第二次世界大戦中のポーランド。開戦直後にドイツ軍に蹂躙され、独ソ両国により分割。終戦前にはソ連軍に引き潰され、そのまま東側陣営に組み込まれる悲運の国です。

中で最大の悲運に見舞われた場所を一つあげるなら、それが首都ワルシャワです。44年、ソ連軍がドイツ軍を破って近づいてくると、ワルシャワで市民たちが蜂起しました。内から蜂起軍が、外からソ連軍が呼応してドイツ軍を追い払おうという算段です。しかし頼みのソ連軍は、その猛進に急ブレーキをかけ、停止。市民たちはドイツ軍と血みどろの戦いの末に敗北し、街は廃墟となります。

そんな、どう足掻いてもハッピーエンドにはなりそうもない場所と時代の話です。

差別はどう起こるか

戦争、差別、人種といった難しいテーマを、著者は端的な筆致で描いていきます。その例をひとつ挙げるなら、差別です。ドイツに占領されたポーランドでは、ナチス式の人種政策が敷かれます。昨日までポーランド人であった人々が、人種により分断されます。

その中で主人公がユダヤ人女性を手助けしたとき、ポーランド人の女性がこう言います。

「信じて、私たちは反ユダヤ主義者なんかじゃない。あの人たちだってポーランド人だって思っているの。でも、彼女を見た時、まっさきに思ったのは、なぜここにいるのってことだった」(p191)

彼女はユダヤ人女性をほんのすこし助けることで、自分たちが巻き込まれることを恐れ、それをまっさきに考えてしまったことを恥じています。

差別は、差別者が多数を占めたから起こるのではありません。少数の差別者が、少数の被差別者を迫害し始めたときに、残った多数の者が自己保身に走ったから起こるのです。

本書はこのように、さまざまな時代の風景を端的に描写していきます。説教臭くはなく、過度に強調もせず、淡々と。奇をてらった小説的な表現が不要なのは、事実の方が異常だからです。

異邦人たちのアイデンティティ

ユダヤ人たちが国家を持たない少数者であったように、この物語の主な登場人物たちもみな少数者です。国家、人種、そして民族主義が最も台頭した時代に、自分が何者であるかに確信を持てない人々です。

なおこの設定、この舞台で、主人公は日本人です。

1944年のワルシャワで、日本人が何をするのでしょう? なぜそんな時、そんな場所に立っているのでしょう?

主人公に言わせれば、その答えの一端は、自分は日本人だから、というもの。なぜそれが答えになるのかは、読み進むうちに分かるでしょう。

どう足掻いても悲劇にしかならなそうな設定で始まる物語の週末は、涼やかなものでした。

今年、一番お勧めしたい物語です。

 

また、桜の国で

また、桜の国で

 

 

とりあえず、この1冊を読んでおけば。「安全保障入門」

安全保障入門 (星海社新書)

安全保障入門 (星海社新書)

 

 本書は安全保障に関するさまざまなトピック、概念をひとつひとつ丁寧に解説した入門書です。安全保障に関連する国際政治や防衛のトピックについて、専門書を買って勉強するほどではないけど、何となく興味はあるし、ちゃんと知りたい、という人に好適です。

本書の良いところ…手に入りやすい入門書で、類書がない

「安全保障」と呼ばれる領域について入門書を書くというのは、すごいことです。「安全保障」領域は「戦略学」や「平和学」などに比べ、とても幅の広いものだからです。だからその類の入門書は、分厚くて値段が高くなりがちです。

例えば「安全保障ってなんだろう」「新訂第4版 安全保障学入門」「安全保障のポイントがよくわかる本―“安全”と“脅威”のメカニズム」等はどれも良質な入門書で、「よし、勉強するぞ」という人には好適です。でも、別に専門的に勉強するほど興味はないけど、ニュースを見たりしてちょっと気になってる…という人には、重たすぎます。

その点、本書は新書で、手に入り易く、平易な言葉で丁寧に書かれています。その上、「安保法制が通れば明日にも戦争が起こる」とか「憲法を改正しないと直ちに中国が攻めてくる」とか、そういう著者の意見が先に立った本ではありません。著者の意見は抑えに抑えて、ひとつひとつのトピックを丁寧に解説した貴重な本です。

本書の物足りないところ

本書は、「安全保障の論理」「戦争の論理」「平和の論理」「世界の諸問題」「日本の安全保障問題」に分け、さまざまなトピックや用語を幅広く解説するスタイルです。

一方で、本全体を通じての流れは希薄です。これは今日の安全保障領域が拡散しているためでもあるのですが、一つのトピックから次、また次と移行する際の前後の関係が見えづらいように思われます。

また「それが何であるか」について丁寧に書かれているのですが、「なぜそうなったのか」についてはあまり触れられていません。もっとも、そこまで掘り下げていては紙幅の問題が生じるのかもしれません。

新書という分量の制限を踏まえた上でも「これは入れて欲しかった」と思うのが、いわば「国家の論理」の章です。

本書は、国際社会の最も基本的なアクターが主権国家であり、それぞれが武装していて、時に衝突する、世界とはそういうもんだ、ということを前提にしています。ここで「そもそも何で?」「おかしいじゃないか」と思う人は、その点がひっかかりになり、本書の筋道にうまく乗れないかもしれません。また、「国家主権」、「民族自決」といった話をしないままでは、「人道的介入」や「コソボ独立」「クリミア併合」といったトピックの衝撃性を伝えるのが難しいように思います。

そこで、現代の主権国家及び国際社会がどのようなものであるかを解説する章があれば、他の章がより生きたのではないかと思います。

とはいえ、それらは「欲を言えば」という話であり、本書の社会的な重要性を損ねるものではありません。

高まる安全保障の重要性

日本に暮らす人にとって、安全保障の重要性は日ごとに高まるばかりです。先年の安保法制論争を思い出すまでもなく、テレビをつければ尖閣諸島だ、弾道ミサイルだ、南シナ海だと、数ヶ月に1度くらいは安全保障の大きなニュースがでてきます。

 

だから、安全保障上の話題や用語・・・例えば「集団的自衛権」、「ミサイル防衛」「武器輸出」といった話題を何となく聞いたことがある人は少なくないでしょう。もう少し興味のある人は「勢力均衡」や「地政学」といったマニアック専門的な用語がでてくる解説記事や本を読んだことがあるかもしれません。

ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、「安全保障は酸素のようなものである。失ってみたときに、はじめてその意味がわかる」(Security is like oxygen. You do not notice it until you begin to lose it.)と言っています。最近の日本では安全保障のニュースを目にすることが増えているとすれば、「酸素」のようにあって当たり前、なくてはならない安全保障が、失われる恐れが高まっているのかもしれません。

リテラシー・レベルの安全保障理解が必要

安全保障については、テレビに呼ばれるような知識人や、新聞記者の方でも基本的なアイデアや歴史をよく理解していなかったりするなど、きちんとした議論をできる人が不足しています。

本書のような、基本的なアイデアや用語を一つ一つ丁寧に書いた本を読み終えた人は、巷間に出回っているやたら恐怖や怒りを煽るような議論を、冷静に眺めることができるようになるでしょう。

本書を読んでイキナリ詳しい人になれるわけではないけれど、「安全保障というのはこういうことを考えている分野なんだ」「ニュースにでてくるあの用語はこういう意味なんだ」ということがある程度は分かるように、分かった上で自分で考えることができるようになるでしょう。

そういった市民としての教養、リテラシーのレベルの安全保障理解を多くの人が持てば、日本の安全保障論議ももっと地に足がついた、建設的なものになっていくのではないでしょうか。

その意味で、本書は多くの人に読まれてほしい本だと思います。

 

安全保障入門 (星海社新書)

安全保障入門 (星海社新書)

 

 

読んだ本「英EU離脱 どう変わる日本と世界」

 

英EU離脱 どう変わる日本と世界 経済学が教えるほんとうの勝者と敗者

英EU離脱 どう変わる日本と世界 経済学が教えるほんとうの勝者と敗者

 

 欧州経済の近況まとめ本

安達誠司氏の新刊を読み終えました。書名では「英国のEU離脱」に焦点があたっていますが、本の内容はその他の諸点も含めた「最近の欧州経済に関するトピック全部載せ」です。最近話題になった各種の大ニュースを著者の明快な論理で解釈し、そこから今後の欧州経済のゆくえと日本への影響を予測しています。

書名から、英国のEU離脱問題の解説書だと思って買った人がいれば、論点が様々に移ることに戸惑うかもしれません。

また、編集と校閲が不十分であり、本としては生煮えな印象です。急いで作った本だからでしょう。

本としては生煮えな印象

編集が行き届いていない印象を受けます。様々なトピックに議論が拡散し、内容が散漫です。各章の論理的なつながりが不均一で、まとまりに欠けます。

本書と同じく欧州経済を取り上げた過去作「ユーロの正体 通貨がわかれば、世界が読める」が、多角的にユーロの抱える問題を明らかにしていました。そのため、古い新書でありながら、ユーロが存続する限りいつまでも古びない価値を持った本です。

比べて本書は、「最近のトピックと、そこから考えられるごく近い未来の予測」であり、賞味期限の短い本になってしまっています。

例えば円高の原因や為替の均衡点などへの言及を大部分割愛して別の本にし、英国とEU経済への議論に焦点を絞るなど、企画段階で内容を絞り込んだ方が良い本になったのではないかと思います。

論旨は明快だが、文が不明瞭

文章に推敲、校閲の手が入りきっておらず、全体的に読み辛い文章になっています。例えばドイツ経済に関する以下の段落です。

ドイツが国際貿易において高い競争力を有する産業は自動車や機械であるが 、この多くは日本企業と競合する分野である 。例えば自動車産業のプレゼンスをみると 、日本企業と比較して 、ドイツ企業 (フォルクスワ ーゲンや B M Wなど )のプレゼンスが圧倒的に高い 。これは日中関係が冷え込んでいることも影響しているが 、それよりも 、為替レ ートの要因が強いように思える 。すなわちドイツにとって 「ユ ーロ危機 」の影響は 、経済にとってはプラスに作用してきたのだ 。

青字部分は、「中国市場における」という限定が抜けています。この段落だけ見ると、世界市場でドイツ企業のプレゼンスが圧倒的なように読めます。

もちろん、この前段落からの流れ、青字部分の次の文で日中関係に言及していること及び青字部分の内容から「中国市場の話をしているのだろうな」ということは考えればすぐに分かります。

しかし、前後の文脈を酌まねば誤読しかねない文の作りであり、不親切です。このような作り込みの甘い文や段落が散見されるため、すらすらとは頭に入らない本になってしまっています。

著者の論理は極めて明快なのに、文のつくりの不明瞭なため、読み難い本になっています。

にも関わらず、買ってよかった理由は著者

私は安達誠司氏の本は「デフレは終わるのか」以降みな買っており、その議論と視点を努めてリアルタイムに追いかけたい識者の一人だと考えています。

その観点からすると、論点があちこちにいくのは著者の最近の思考に幅広く触れられるのはメリットになります。

また、欧州の国際関係には興味はないが、それが今後の経済に与える影響を手早く知りたい、という人には勧められます。

ただし、過去作を読んでいない人は、同じく欧州経済について論じた「ユーロの正体」と併せて読むことをお勧めします。

 

ユーロの正体 通貨がわかれば、世界が読める

ユーロの正体 通貨がわかれば、世界が読める

 

 

 

中学生から読める洋書「ガンジー物語」(ラダーブックス)

ガンジー・ストーリー The Gandhi Story (ラダーシリーズ Level 1)

ガンジー・ストーリー The Gandhi Story (ラダーシリーズ Level 1)

最近、英語を読むのが以前より億劫に感じるので、これはいかんと思ってごく簡単な英文を読む時間を作っています。
まずは、以前から気になっていたラダーシリーズを試してみました。各レベル1冊ずつ買ってみて、様子見をしています。
ラダーシリーズとは、語彙を段階的に制限して書かれた本のシリーズ。英語を英語の語順のまま理解できるようになるための、英文多読のスタートに適しています。
もっとも簡単なレベル1では、1000語のみ、つまりはgoとかworkとか、中学校で習う英単語のみで書かれています。

どうせなら、もともと興味がある内容の方が読み易いだろうと思い、歴史物を選びました。この本ではガンジーの伝記なのですが、だいたいのガンジーの努力はwork hardで済ませています。

本書を読んで思ったことは2つ。一つは、こう書けばこれだけ簡単に表現できるんだ、これでいいんだ、ということ。
もう一つは、簡単な言葉で書かれていても、面白いものは面白いのだ、ということ。

思い返せば、子供のころ、図書室や図書館にあった「偉人の伝記」やら「なんとかの歴史」の類は、ごく簡単に書かれてはいても、確かに面白かったものです。

本書を読んで、話の面白い、面白くないは語彙や表現の難しさには関係ないのだな、と思いました。難しい単語や表現を使わないとどうしても表せないものはあるにしても、だいたいのことは簡単に言っても内容はかわらないものです。簡単な言葉に置き換えると味気なくなるような話であれば、それはもともと中身が無いものを、もっともらしく装っているだけなのでしょう。

そんなことを思いながらさらさらと読みました。レベル2以降も試してみようと思います。

ガンジー・ストーリー The Gandhi Story (ラダーシリーズ Level 1)

ガンジー・ストーリー The Gandhi Story (ラダーシリーズ Level 1)



読んだ本「自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開」

自衛権の基層―国連憲章に至る歴史的展開

自衛権の基層―国連憲章に至る歴史的展開

 

タイムラインにでてきたので読んでみました。私は何であれ歴史的な起源や経緯に迫るものを読むのが好きなのですが、本書は「自衛権」という概念が歴史の中でどのように意味と使われ方を変えてきたかを書いています。

なお、著者の博士論文をもとにした本であり、もとの論文の要旨はこちら

現代の自衛権は「武力行使の禁止」の例外

現代では、自衛権は国連憲章に明文化されています。国連憲章は二度の世界大戦の反省から、国連加盟国の「武力の行使」を禁止しています。この例外は、国連による強制行動(いわゆる国連軍)のほか、自衛権を行使する場合のみです。

国連憲章の自衛権は、不戦条約以降の戦間期に固まってきたようです。戦争が禁止された世界で、しかし例外的に自衛の場合だけは戦ってもよい、という考えです。

なぜならすべての戦争を禁止してしまうと、世界の中のただ一国が条約をやぶって侵略戦争を開始したとき、他の国がそれに対抗して自分たちを守るために防衛戦争をやることもできなくなり、侵略者のやりたい放題だからです。

世界大戦を経て「武力の行使は禁止だ」という強力な規範ができました。その中で例外的に武力行使を正当化できるケースが、自衛権の行使。著者はこれを「防衛戦争型自衛権」と呼びます。

ここまではわかる話なのですが、私が本書の中で面白く感じたのはそれ以前、「戦争が禁止されていない時代の自衛権」が何を正当化するために用いられる権利だったのか、です。

第一次大戦以前の自衛権は「国境の不可侵」の例外

著者が「自衛権」を根拠として用いている判例や事例を仔細に検討した結果、不戦条約以前、すなわちその契機たる第一次世界大戦以前の自衛権は、国境を越えた警察行動を正当化するために用いられていました。

第一次世界大戦以前、無差別戦争観の時代には、開戦は国家の権利でした。戦争や武力の行使を禁止する規範はありません。そのかわり存在した強力な規範が国境の不可侵性です。ウェストファリア条約以降、国家はその域内に対して他の干渉をはばく権利、対外主権を有します。これは絶対的なものです。

(一方、現代に近づき、人道的介入だ保護する責任だと言い始めると、国家の主権よりも基本的人権や自由といった普遍的価値が重んじられ、虐げられたる人々を救うためなら国境を越えて介入することが認められてきています。国家の主権を盾にして、国家が人間の権利を踏みにじることが許されなくなりつつあるのです。)

不可侵のものである国境、それを軍事力で踏み越えるのは他国の主権の侵害であり、不当です。しかしその例外が、自衛権を行使して他国内の反自国武力グループを掃討する場合です。

国境線の向こうに、国軍ではない武力集団、現代でいえばISやアルカイダのようなものが居ついている。それが国境を越えて自国を攻撃している。かつ、他国の政府はその武力集団を鎮圧する能力を持っていない・・・というようなとき。攻撃を受けている国は、それでも国境は越えられないからと泣き寝入りをし、国民が殺されるままにならないといけないのでしょうか? 

いいえ、そうではない、そういうときは国境を踏み越えて、他国領内でその限られた目的のためだけに軍隊を活動させてもよいのだ、という説明です。著者はこれを「治安回復型自衛権」と呼びます。

その自衛権は何を正当化しているのか

例外がないルールは無い、といいます。自衛権はルールに対する例外、「普通は禁止されているこの行為。でもこれは自衛のためだから良いのだ」という正当化装置です。

第一次世界大戦以前と国連憲章以降では、正当化装置が向けられる先、すなわちそれぞれの時期で国家を縛る国際社会の強力な規範が「国境の不可侵」と「武力行使の禁止」で異なります。前者は国境を越えた警察行動を正当化し、後者は国境を越えるか否かに関わらず防衛戦争を正当化するために、自衛権が用いられました。

しかし、いずれにせよ、例外的に何らかの行動を正当化する装置として自衛権の行使という主張が使われました。

これは必ずしも不当なことではありません。例外がないルールがないと言われるのは、本当に例外なくルールを徹底すると、多くの場合、どこかに無理が生じるからです。

だから「これは仕方ないな、この理由なら、ルールの本来の目的には反しないな」という場合には、ルールの字句ではなく目的に従って、例外を認めてやらないと不便です。例外を認めず、杓子定規にやると「そんな無茶なルールはいちいち守っていられない」と思われ、ルールの信頼性が失墜し、ついに誰も守らない形骸化したルールになってしてしまう恐れがあります。

その一方、例外を認めると「あのひとがOKなら私も」「Aというケースが例外と認められるなら、A+1も認められるはずだ。ということはA+2も」と、次々に例外が拡張され、ルール自体が有名無実化されかねません。

この点をよく考えるためにも、そのルールや規範の目的、そもそもの起源や経緯を探るのは非常に重要なことのように思われます。その上でこそ、果たしてその正当化装置の使い方が本当に例外として認められるべきものなのか、そうではないのかを考えることができるでしょう。 

自衛権の基層―国連憲章に至る歴史的展開

自衛権の基層―国連憲章に至る歴史的展開

 

 

文庫化された「地球連邦の興亡 第1巻」は書下ろし短編付き(だが完結はしない)

地球連邦の興亡1 - オリオンに我らの旗を (中公文庫)

地球連邦の興亡1 - オリオンに我らの旗を (中公文庫)

 

 ついに地球連邦の興亡1が文庫化再販されました。まさかこんな日が来るとは…。表紙は女学生の鈴音ですね。

以前から予約していたので、発売当日にアマゾンから届き、読破しました。次巻以降の波乱を予感させる「地球連邦は・・・・を欲している。」の後に続きがありました。

書下ろしの短編です。

最近の佐藤大輔は皇国の守護者の文庫化にあわせて短編を次々と書き下ろしてくれていますが、今回も。「地球連邦」世界の短編です。

もと首相 国場敏和

主人公は若き日の国場敏和。

本編では地球連邦のもと首相、すでに引退した老人です。すでに引退したとはいえ、歴代首相の中でも最も決断力に富み、悪辣な策謀に長けた底の知れない老人として描かれています。(なお、国場は旧新書版では国場義昭でしたが、ファーストネームが変更されたようです)

本編の要所要所に登場し、現首相の密命を受けて怪しげな任務に従事しています。これから発生しようとしている大波乱が、やがて拡大し、そして集束するその点を既に見据えて、布石を打っている(らしい)様が描かれています。

首相時代の策謀家ぶりを感じさせ、暗躍する老雄といった趣きで、作品世界に奥行きを添えています。

文民統制の逸脱、命令違反スレスレで、独走する軍人たち

国場もと首相はまた、本編の主人公たる南郷少佐の「先例」として登場します。政界入りする前、若き日の国場は連邦宇宙軍の軍人でした。そして、何かよほど果断な決断を下したようなのです。

本編において主人公・南郷は、「一般待機命令」を柔軟に解釈して、多くの市民を救うべく大胆な行動に出ます。「一般待機命令」とは要するに「何もするな。何かしろ、という命令を待て」ということ。武力の行使は禁止。武器の使用も、正当防衛の場合を除いて禁止。軍隊としての実力は何一つ発揮できない、はずでした。

ただし、待機命令下にあっても、宇宙軍の軍人としての義務まで「するな」というわけではないはずだ…ということから、南郷は状況にあわせて命令を「柔軟に解釈」していきます。一歩間違えれば軍隊の独走、文民統制からの逸脱、反乱行為です。

それを決断するため、一般待機命令の柔軟解釈について先例を調べます。3人の先例があり、そのうち2人は軍を追放されていました。

しかし最後の1人が若き日の国場大尉。その事件こそ、「ハイリゲンシュタット事件」だったのです。

謎のハイリゲンシュタット事件

第1巻の本編では、金持ちの父親をもつ若手の演出家が、シェークスピアの「オセロー」をこの事件に擬した(面白くない)芝居を上演しているさまが描かれています。

このことから、よほど有名かつ劇的な歴史上の事件らしい、ということが伺われます。

しかし、事件の詳細は明かされません。時に「ハイリゲンシュタットの虐殺」と意味深に呼ばれることもありますが・・・その内実は謎のままでした。

謎の事件の真相が明かされる(続巻以降で)

文庫版1巻の書下ろし短編では、フィールドワーク中に連絡を絶った大学教授を救うため、若き国場敏和大尉が救難任務に赴きます。その惑星の名は「ハイリゲンシュタット」、あの事件に違いありません。いったい、どんな事件だったのか、ついに真相が明らかになる、はずです。

はずというのは、この短編、第1巻だけでは完結しないから。どころか舞台と装備と登場人物紹介の導入編といった趣きです。惑星とパワードスーツ歩兵の細やかな描写に読みいることはできても、事件の細部にはまだ立ち入っていません。

ううむ、続きが気になる・・・。

佐藤大輔のことですから続きがでないのでは、という心配もありますが、短編ならば最近はコンスタントに発表しているので、たぶん大丈夫でしょう。短編が書き上がらないがために2巻以降の文庫化が遅延する、なんてことは・・・ないといいなぁと思います。

地球連邦の興亡1 - オリオンに我らの旗を (中公文庫)

地球連邦の興亡1 - オリオンに我らの旗を (中公文庫)

 

 

読んだ本 ビスマルク伝 1巻(エーリッヒ・アイク)

ビスマルク伝〈1〉

ビスマルク伝〈1〉

エーリッヒ・アイクのビスマルク伝は、原著て全三巻、邦訳では全8巻の大著です。

ビスマルクというと、巧みな軍事外交でプロイセンをドイツ統一に導いた大政治家です。

しかしその若き日の姿は、信じられないほど頭が古く、議会で喧嘩腰に吠えちらす田舎紳士です。19世紀というより、16世紀の封建騎士のように既得権益に執着し、改革派を目の敵にしています。頭が古く、血の気は多い田舎のおっちゃんという感じです。

そんなビスマルクですが、ただその議会での闘争能力が優れていたために、保守派の首魁ゲルラハらに重宝されます。

やがてドイツ連邦議会の公使となって、国外にも端倪すべからざる政治家と認められるまでが第1巻の内容です。

もし現代に若きビスマルクのような若手政治家がいたら、無茶苦茶な議論で審議をかき回し、やたら論敵に噛み付くばかりの小者に見え、識者からは評価されないかもしれません。

「戦争体験を聞く」という宿題を出しても戦争はなくならない

「戦争体験を聞く」ということについてのまとめが話題になっています。

「戦争体験を聞いてきなさい」と課題をだす教員は、戦争の悲惨さを生徒が学んできてくれればよい、と考えるのではないでしょうか。でも、戦争といっても太平洋戦争だけではないし、いろいろな戦争があります。また、特定の戦争の中でも、どのような立場でそれに参加したかによって、体験するものはまるで異なります。

戦争はいろいろな顔をもち、矛盾に満ちたものです。

ジョン・キーガンらの「戦いの世界史」は、このような序文から始まっています。

奇妙な存在、戦争。その流血と残虐、苦痛悲嘆と涙ゆえに、まっとうな人間なら、最大級、絶対的な嫌悪を覚えるはずだ。そうに決まっている。おおむね、そうだ。しかし、しかしである・・・。

今回は「戦いの世界史」の中で「戦争体験」の章から、人が戦場で出会う、戦争のさまざまな横顔を垣間見てみましょう。本書は戦争が「どのようであった」かを、各兵科や戦争のさまざまな要素別に記述した大著です。

尊敬すべきサディスト

太平洋戦争という特定の戦争についてさえ、体験した人の立場によって、経験したことはさまざまでしょう。いや、特定の個人においてさえ、矛盾した感情を抱いたりもします。本書では当時の日本兵についてこう述べられています。

第二次世界大戦中、日本人はサムライの倫理を近代軍隊と継ぎ合わせ、恐るべき結果をもたらした。…捕虜は虐待され、日本軍が進んだところでは、身の毛もよだつ蛮行が生起した。…

強姦や大量虐殺、拷問を生み出したその同じ価値規範により、日本軍を憎む理由に事欠かないような多くのひとびとにまで感銘を与えるヒロイズムが鼓吹された。

…マレーでオーストラリア軍の下士官として戦ったケン・ハリソンは、戦闘、そして捕虜収容所において、日本兵をよく知ることとなった。

「顔かたちや体格はさまざまだが、ほとんどの連中は野蛮でサディストだった…だが、良いか悪いか、優しいか嗜虐的かに関係なく、やつらは優れた美徳を持っていた。…あの時代、比類し得るものがない勇ましさだったと確信する。ほかの資質はさておき、やつらは、私にとっては、うらやむべき勇敢な日本兵だった」(p62)

  敵に対して、兵士は矛盾した感情をいだくようです。戦友を殺した敵を憎悪する者もいれば、健気に敢闘した敵兵の死骸に「大したやつだ」と賞賛の声をかける者もいます。

 時として有能な敵兵に尊敬を覚え、足手まといの味方を敵よりも憎む者もいます。そのどちらも、味方を多く殺すという点では何の違いもないはずなのですが。

 戦場における人の感情は、単純ではないようです。

人を殺す楽しさ。人を殺す恐怖。

前線の兵士は、敵と殺し合いをします。殺人を犯したときの罪の意識は、戦後までその人を苦しめる例がまま見られます。

あるイスラエルの空挺部隊員は、1967年のイェルサレム旧市街奪取に際して、ヨルダン人の大男と対し、それを味わった。

「一瞬、俺たちは互いに見つめ合っていた。やつを殺すかどうかは、俺に、俺だけにかかっている。ここには、他に誰もいないのだ。すべてが終わるのに、一秒ほどもかからなかったに違いない。

が、それは、スローモーション動画のように、俺の心に刷り込まれた。あわててウージー短機関銃を撃つと、やつの左1メートルほどの壁に銃弾がぶちまけられるのがわかった。のろのろと、そう、実にのろいぞと感じながら、ウージーを動かし、やつの身体に命中させた。

滑り落ち、膝をついた男は、頭をあげた。恐ろしい、苦痛と憎悪にゆがんだ顔だった。ああ、なんて憎しみだったろう。もう一度撃つと、何発かが頭に当たった。たくさんの血が流れ…俺は、残った仲間が来るまで吐き続けていた」(p348-349)

その一方で、殺人の歓びを感じていた人もいます。

「ちょうど鹿撃ちのように、ある人物、生きている何ものかを追うには達成感があるのだ」と、ヴェトナム戦争に従軍した、あるグリーンベレーは語る。

「射撃と殺しを楽しんだ」と、別のベトナム従軍者も断言する。「東洋人野郎が撃たれたのを見たときには、本当に興奮した」(p349-350)

 人は人を殺すことを楽しむことができます。同時に、人は殺人を嫌がる生き物です。この2つの性質は矛盾しているようですが、どちらも人間の備えた性質であるようです。

兵士は愛国心のために戦う?

バートランド・ラッセルは「愛国心とは、とるにたらない理由のために殺したり殺されたりする意志のことである(Patriotism is the willingness to kill and be killed for trivial reasons)」という警句を残しています。しかし、戦場で兵士たちを動かすのは、必ずしも愛国心やイデオロギーへの信奉といった思想信条ではないようです。

戦争が進むにつれ、愛国心やイデオロギーの重要性は薄れる。「愛国心は、塹壕においてはあまりに現実ばなれした情緒であり、民間人や捕虜にのみふさわしいものとして、すぐに拒絶された」と、ロバート・グレイヴス大尉はみなしている。

第二次世界大戦末期に捕虜になった、あるドイツ軍の軍曹は、尋問で部下たちの政治的信条について問われた際、笑い出して、こう言った。

「そんな質問をするようじゃ、なぜ兵隊が戦うのか、あんたはちっともわかってないというのがお見通しになっちまうぜ。兵隊は穴ぐらに這いつくばって、つぎの日も生き延びられれば、それで幸せ。考えているのは、戦争が終わって家に帰ることばかりだ」(p60)

 それでは、兵士は無事に生きて帰ることだけを考え、自分たちの命を惜しむものなのでしょうか? そうとも言えません。

兵士は生きて帰るために戦う?

古今の戦場は、自ら死にむかって突撃し、ついに勝利した兵たちの死骸と英雄譚に満ちています。

ダイ・ハード 新生アルティメット・コレクションBOX(「ダイ・ハード」スペシャル・ディスク付) [DVD]

「ダイハード」はブルース・ウィルス主演のハリウッド映画ですが、かつてイギリス軍中にも「die hard(なかなか死なない)」と呼ばれた部隊がありました。殺されても、殺されても、前進を続けた兵士たちの部隊。1811年、イベリア半島でナポレオン軍と戦ったイギリス軍の第57連隊です。

第57連隊のイングルズ大佐は、ブドウ弾に肺をつらぬかれ、地面に倒れ伏しながらも「くたばるな(die hard)、第57連隊、くたばってたまるか」と繰り返していた。さらに銃兵旅団が到着し、階級が少佐以上の将校すべてが命中弾を受けつつも着実に前進した結果、ついに戦勢は逆転し、フランス軍は退却をはじめた。

だが、不屈の戦いぶりを見せたイギリス軍歩兵の損害は甚大だった。…第57連隊のほうは、600名中160名が残るのみで、新しくついたニックネーム「ダイ・ハード連隊」にふさわしいありさまだった。

…フランス軍司令官スルート元帥は、自らの敗北の原因を、こうした将兵の死に物狂いの勇武に帰した。「これらの部隊に壊滅ということはない」と、元帥はぼやいている。「彼らは完全に壊滅しており、勝利は我が手にあった。だのに、あのものたちはそれを認めず、逃げ出そうともしなかったのだ」(p58)

兵士が生還を望んでいるだけだとすれば、このような部隊はあらわれないはずです。 「くたばるな」と言いつつ、味方が次々と殺されて、次は自分も死ぬに違いないと思えても、人は前進することができます。死にたくないはずなのに、死にむかって突撃していくのです。

人と戦争のパラドクス

戦争は、それ自体、矛盾に満ちた営みです。なにせたいていの戦争は、生存のために行われる殺し合いなのですから。馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたことはないでしょう。ですが人の戦争への感情は、それ以上に複雑かもしれません。

 人は戦争を嫌がりながら、自らその中に進んで行くことができます。人を殺すことを嫌がりながら、虐殺を楽しむことができます。戦いを嫌悪しながら、戦いの中に美徳を見出します。

人は、個人としてはともかく、社会や種族としてみたとき、人類は戦争を憎みながら愛し、嫌がりながら楽しむことができるのです。人が戦争を単に嫌がるだけの生き物であれば、戦争などとっくに根絶されているでしょう。

あるアメリカ人は、この人間の戦争体験にまつわる二律背反を総括して、このように述べた。「狂気じみているかもしれない。けれども、たまにヴェトナムのことを考えると、ほんの一時間だけ、あそこに戻れたらと願ってしまう。たぶん、そこに連れて行かれたら、今度は帰してくれと望むのだろうが」(p360)  

冒頭に紹介した「戦争体験を聞いてきなさい」というような課題を平和学習のために出すとすれば、おそらく「戦争はいけない、平和は大事だと思った」という「模範感想」が暗に期待されているのかもしれません。

でも、そのような感想を引き出しても、戦争はなくならないでしょう。第二次世界大戦を引き起こした人々は、この上なく悲惨だった第一次世界大戦の戦争体験を持っていました。聞きかじりではなく、実体験として。それでも、戦争への道を歩んだのです。

戦争体験を聞いたり、読んだりするならば「戦争は悲惨だ」「平和は尊い」という点を学ぶのはもちろんですが、もう一歩踏み込んで「戦争がそんなに嫌なものならば、なぜ人は時に戦争に熱狂したり、戦場に美徳を見出したりするのか?」と疑問をもち、戦争と人間の複雑さを考えることが必要なのではないでしょうか。

そうではなく、仮に暗に期待される「模範感想」をなぞらせるだけの教育で終わってしまったら、国策に反対できない「空気」の力で反対意見を封殺した社会の意思決定と、あまり違わないように思えます。

戦いの世界史: 一万年の軍人たち

戦いの世界史: 一万年の軍人たち

  • 作者: ジョンキーガン,ジョンガウ,リチャードホームズ,John Keegan,John Gau,Richard Holmes,大木毅
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2014/07/04
  • メディア: 単行本
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読んだ本「安全保障の国際政治学 焦りと傲り(初版)」

 

安全保障の国際政治学―焦りと傲り

本書は安全保障研究の諸理論に関する本です。抑止、同盟、危機管理といった主要なトピックについて、どのような理論研究がなされているかが分かりやすく学べます。

国際政治学の網羅的な教科書というと、
国際政治学をつかむ (つかむシリーズ)

国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史

国際政治 (放送大学大学院教材)

 

などがあります。安全保障はこれらの中でもちろん触れられており、特に「国際紛争」では突っ込んで書かれていますが、それでも紙幅と主題の関係から、あまり安全保障だけを掘り下げるわけにはいきません。
 
一方、安全保障研究の中でも軍事力の使い方にフォーカスした戦略研究の本であれば、

戦略論

戦略原論

などがあります。ここでは戦争や軍事戦略レベルの考察が主になります。

国際政治学ー安全保障研究ー戦略研究

という構造の中で、中間の安全保障研究について、主要なトピックの理論を網羅しているのが本書です。

目次は以下の通り。

第1章 はじめにツキディデスありき
第2章アナーキーという秩序
第3章 安全保障 このとらえがたきもの
第4章 セキュリティ・ディレンマ 安全と不安の悪循環
第5章 失う恐怖の理論 プロスペクト理論
第6章 抑止のディレンマと抑止失敗
第7章 核戦略と現代の苦悩 
第8章 国際危機と危機管理
第9章 同時のディレンマと同盟外交 
第10章 同盟終焉の理論
終章 セキュリティ・パラドックスの陥穽
非常に勉強になりました。座右に置いてよく読み返さないといけない本です。
初版を買ってから読み終えるまでに第二版が出たので、直ちに第二版を買って、そちらをまた通読しようと思います。
安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版

安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版