タイムラインにでてきたので読んでみました。私は何であれ歴史的な起源や経緯に迫るものを読むのが好きなのですが、本書は「自衛権」という概念が歴史の中でどのように意味と使われ方を変えてきたかを書いています。
なお、著者の博士論文をもとにした本であり、もとの論文の要旨はこちら。
現代の自衛権は「武力行使の禁止」の例外
現代では、自衛権は国連憲章に明文化されています。国連憲章は二度の世界大戦の反省から、国連加盟国の「武力の行使」を禁止しています。この例外は、国連による強制行動(いわゆる国連軍)のほか、自衛権を行使する場合のみです。
国連憲章の自衛権は、不戦条約以降の戦間期に固まってきたようです。戦争が禁止された世界で、しかし例外的に自衛の場合だけは戦ってもよい、という考えです。
なぜならすべての戦争を禁止してしまうと、世界の中のただ一国が条約をやぶって侵略戦争を開始したとき、他の国がそれに対抗して自分たちを守るために防衛戦争をやることもできなくなり、侵略者のやりたい放題だからです。
世界大戦を経て「武力の行使は禁止だ」という強力な規範ができました。その中で例外的に武力行使を正当化できるケースが、自衛権の行使。著者はこれを「防衛戦争型自衛権」と呼びます。
ここまではわかる話なのですが、私が本書の中で面白く感じたのはそれ以前、「戦争が禁止されていない時代の自衛権」が何を正当化するために用いられる権利だったのか、です。
第一次大戦以前の自衛権は「国境の不可侵」の例外
著者が「自衛権」を根拠として用いている判例や事例を仔細に検討した結果、不戦条約以前、すなわちその契機たる第一次世界大戦以前の自衛権は、国境を越えた警察行動を正当化するために用いられていました。
第一次世界大戦以前、無差別戦争観の時代には、開戦は国家の権利でした。戦争や武力の行使を禁止する規範はありません。そのかわり存在した強力な規範が国境の不可侵性です。ウェストファリア条約以降、国家はその域内に対して他の干渉をはばく権利、対外主権を有します。これは絶対的なものです。
(一方、現代に近づき、人道的介入だ保護する責任だと言い始めると、国家の主権よりも基本的人権や自由といった普遍的価値が重んじられ、虐げられたる人々を救うためなら国境を越えて介入することが認められてきています。国家の主権を盾にして、国家が人間の権利を踏みにじることが許されなくなりつつあるのです。)
不可侵のものである国境、それを軍事力で踏み越えるのは他国の主権の侵害であり、不当です。しかしその例外が、自衛権を行使して他国内の反自国武力グループを掃討する場合です。
国境線の向こうに、国軍ではない武力集団、現代でいえばISやアルカイダのようなものが居ついている。それが国境を越えて自国を攻撃している。かつ、他国の政府はその武力集団を鎮圧する能力を持っていない・・・というようなとき。攻撃を受けている国は、それでも国境は越えられないからと泣き寝入りをし、国民が殺されるままにならないといけないのでしょうか?
いいえ、そうではない、そういうときは国境を踏み越えて、他国領内でその限られた目的のためだけに軍隊を活動させてもよいのだ、という説明です。著者はこれを「治安回復型自衛権」と呼びます。
その自衛権は何を正当化しているのか
例外がないルールは無い、といいます。自衛権はルールに対する例外、「普通は禁止されているこの行為。でもこれは自衛のためだから良いのだ」という正当化装置です。
第一次世界大戦以前と国連憲章以降では、正当化装置が向けられる先、すなわちそれぞれの時期で国家を縛る国際社会の強力な規範が「国境の不可侵」と「武力行使の禁止」で異なります。前者は国境を越えた警察行動を正当化し、後者は国境を越えるか否かに関わらず防衛戦争を正当化するために、自衛権が用いられました。
しかし、いずれにせよ、例外的に何らかの行動を正当化する装置として自衛権の行使という主張が使われました。
これは必ずしも不当なことではありません。例外がないルールがないと言われるのは、本当に例外なくルールを徹底すると、多くの場合、どこかに無理が生じるからです。
だから「これは仕方ないな、この理由なら、ルールの本来の目的には反しないな」という場合には、ルールの字句ではなく目的に従って、例外を認めてやらないと不便です。例外を認めず、杓子定規にやると「そんな無茶なルールはいちいち守っていられない」と思われ、ルールの信頼性が失墜し、ついに誰も守らない形骸化したルールになってしてしまう恐れがあります。
その一方、例外を認めると「あのひとがOKなら私も」「Aというケースが例外と認められるなら、A+1も認められるはずだ。ということはA+2も」と、次々に例外が拡張され、ルール自体が有名無実化されかねません。
この点をよく考えるためにも、そのルールや規範の目的、そもそもの起源や経緯を探るのは非常に重要なことのように思われます。その上でこそ、果たしてその正当化装置の使い方が本当に例外として認められるべきものなのか、そうではないのかを考えることができるでしょう。