文章は誰にでも書けるものですが、どうせなら、自分が好ましいと思う文章を書きたいものです。
「良い文章」と言っても、良さの定義は人によって千差万別です。ハードボイルドでシンプルな文を良しと思うもいれば、やたら難しい言葉を並べて迂遠に書くのが深みがあって好もしい人もいるでしょう。「この人の文章は私の好みだ」という書き手を見つけて、その真似をする他ありません。
私は林望先生の文章が好みです。薫風のように柔らかなのに、批判や警句を発する時は容赦なく、豊かな語彙で書かれているのに平易で読みやすい文体です。例えばこんな風に…
この本の中で私が言いたいことはそれほど複雑なことではなくて、ともかく文章というものは「具体的であれ、客観的であれ」ということ、それから「よけいな事は書くな、字をケチれ」という事、というあたりに尽きている。しかし、言うは易く行うは難いのが世の常出会って、それらのことが簡単に十全にできれば世話はない。できないからこそ、みんな悩ましいところなのだ。そもそも、テレビというメディアが、日本語の低俗化に拍車をかけていることは隠れもない事実である。それはただ下卑たる言葉を垂れ流していると言うだけのことではなくて、たとえば食べ物を描叙するのに「こだわりの一品!」と言うような「ありきたり」の言葉で括って、それですべて済ませてしまおうというような志の低さ、語彙の貧弱さにも、より大きな問題が伏在しているのである。少なくとも読者諸賢は、そう言う俗体は言語世界に与してはいけない。いつも品格を、それもまた、文章術として非常に大切なところである。「造次顛沛」と言う言葉が『論語』にある。日常の暮らしの中にあっても、ちょっとした一瞬、ひょいとつまずいた刹那にさえも、道徳というものを忘れてはならぬという孔子の教えであるが、これを援用して言えば、文章を書くということもまた、造次顛沛も之を忘れずという心がけが大切である。(あとがきより)
本書が書かれた当時と異なり、現代では書いたものを誰でも発信できます。途方もなく面白く、恐ろしいことです。容易に発し得るものだからこそ、言葉を惜しみ、具体的に客観的に、そしてひょいと発する言葉で軽々に人を傷つけないようにしたいものです。