リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

「君主論」 ニコロ・マキアヴェッリ 

 マキアヴェッリが「君主論」を書いたとき、彼の問題意識は「新しい君主はいかにあるべきか」ということでした。

 当時のイタリアは「油断をすればすぐにも崩壊しかねない脆弱な政治的支配関係」ばかりの不安定な政情にありました。そのために政治的に安定した近隣の大国であるフランスによっていいように振り回され、つまみ食いされても、ほとんど何もできない状況でした。

 慈悲深く、敬虔で善良な君主は、しかしそのためにかえって脆弱な支配力しか持てない恐れがあります。そのため狡猾さと力に満ちた君主の方が、それによって権力を保ち、そのため善良なだけの君主よりもはるかに偉大な事業を達成できる、というのです。

新しく権力を握った指導者について

 権力の維持がとくに難しいのは、旧制度を打倒し、それにとってかわった君主です。そういった君主は権力を安定させるため、新制度を設立せねばなりません。その際に注意すべきこととして、マキャベリはこう訓戒しています。

自ら先頭に立って新しい制度を導入することほど実行し難い、成功の覚つかない、実施にあたって危険を伴うものがないことは考えてみれば明らかである。


それというのも、この新制度の導入に対しては、旧制度の利益を享受していた人々がすべて敵にまわり、新制度の受益者と思われる人々は味方として頼むに足らないからである。

(「君主論」第六章 ニッコロ・マキアヴェッリ 講談社 p63)

 新制度の受益者たちは、受益を実感するまではそれを疑うので、必死になって新君主を守ろうとはしないのだ、とマキアヴェッリは説きます。したがって新君主が反対を押しのける強制力をもっていない限り、新制度の導入は頓挫しがちなのです。

当初の支持者たちの頼りなさについて

 とはいえ、この新しい支配体制が確立するにあたっては、多くの人々の支持があったはずです。すでに多数派の味方がいたからこそ、旧勢力を追放できたのです。新制度の受益者が、新しい制度を信じるようになるまで待たずとも、新君主はすでに多数の味方を手にしているのではないでしょうか? それなのに何故、容易に権力を安定化することができないのでしょう。


 それはケースバイケースですが、特に示唆に富むのはこういったケースです。

私としては君主にどうしても記憶に止めておいてもらいたいことがある。……彼の味方をした人々が何故に彼の味方になったのかを十分に考えることである。


彼に対する自然な行為でなく、彼らが単に支配者に満足していなかったからであったとすれば、非常な労苦や困難なしには彼らを味方にしておくことはできない。


実際、彼もまた、彼らを満足させることはできないからである。

(「君主論」第二十章 ニッコロ・マキアヴェッリ 講談社 p168-169)

 したがってマキアヴェッリは、新君主は彼の味方をした人々よりも、むしろ彼の敵であった人々の方を味方として用いるべきである、と説きます。

支持を失わないために軽蔑を避ける方法について

 現代の民主主義国において、新たに政治権力を握るものは、与党内の多数派、または民衆の多数派を味方につけることによってその地位につきます。与党内の多数派の支持は、彼または彼女ならば次回以降の選挙で民衆の支持が得られやすいであろう、という打算に裏書きされたものです。

 他方、マキャベッリは民衆の支持によって君主となった場合について「君主は民衆を味方にすることが必要であり、さもなければ逆境にあって施す術がない」とも論じています。となれば現代の民主主義国において、前の支配者への不満感情に乗っかって前の制度を打倒した者は、かつては敵であった勢力を味方として用いつつ、細心の注意をもって民衆の支持をつなぎとめねばならないでしょう。

 そのためマキアヴェッリは君主の持つべき美徳、避けるべき悪徳についてさまざまに論じています。悪徳については「憎悪」と「軽蔑」を避けるべきだと注意しています。このうち憎悪については、家臣や民衆の財産を奪わなければ良い、としています。

 問題なのは軽蔑をかわない方法です。

君主が軽蔑されるのは無節操、軽薄、軟弱、臆病、優柔不断と見られる場合である。君主はあたかも暗礁を警戒するように、このように見られないように用心しなければならない。


そのためには行動にあたって偉大さ、勇気、威厳、堅忍不抜さが見られるようにし、個々の臣民の取り扱いに際しては自らの決定が撤回不可能であることを知らしめるべきである。

(「君主論」第十九章 ニッコロ・マキアヴェッリ 講談社 p147-148)

このようにせず、無節操、軽薄、軟弱、臆病にして優柔不断であると見られれば、君主は軽蔑されます。軽蔑されれば権威がなくなり、権力は失われ、やがて破滅へとつながります。

君主が称賛され、あるいは非難される原因について

  ところでここにおいて注意すべきことは、無節操を避けることと、勇気を示すことの両方において「……と、見られる」のが重要だ、と論じている点です。実際にその君主が軟弱であるか、偉大であるかは、関係がないのです。実際には王らしい美徳からまるで無縁であったとしても、そのように見せかれられれば良く、逆に実際には偉大な人であっても優柔不断だと見られればお終いだということです。

 このことからマキアヴェッリは、有徳であるよりもズル賢い方がよく、誠実であるよりも他人を騙せる方がよく、善良であるよりも必要な悪行をためらわない方がよく、かつそうでありながら表面的には善良な人だと装うことが重要だと説いています。

 政治的リーダーは善人だと思われた方がよいが、しかし本当に善人だと務まらない、ということです。したがって指導者たるものは、仮にそれがまぎれもない美徳、正義や慈悲の心のあらわれであったとしても、そういった理想として「なされるべき事柄」にのみ執着してはならず、実際に「なされている事柄」に思いをいたさねばならない、といいます。

…なされるべき事柄を重視するあまり、なされている事柄を省みない人は、自らの存続よりも破滅を招くことを学んでいるようなものである。なぜならば自分の職務すべてにおいて良きことを実行しようとする人は、良からぬ人々の間にあって破滅することになるからである。


……すべてをよく考察してみるに、美徳と思われる行為も自らの破滅を招くことがあり、悪徳と思われる行為から自己の安全と繁栄とが生じる場合があるからである。

(「君主論」第十五章 ニッコロ・マキアヴェッリ 講談社 p127-129)

 ここまでを、いささか乱暴ではありますが、まとめてみましょう。

 新たに君主となった者は、くれぐれも軽蔑を買わないよう、行動にあたっては偉大さ、勇気、威厳や堅忍不抜さを見せて、無節操や優柔不断と見られることは避けるべきです。

かつまた、権力を得るまでの味方の支持が長く続くことには期待してはなりません。彼らは新君主への好意によって支持してくれていたのではなく、前の支配者への不満があっただけかもしれません。もしそうであれば、新君主もまたたやすく愛想を尽かされる恐れが大きいのです。

新君主が導入しようとしている新制度が完成し、その受益者たちが「これは本物だ」と確信して確固たる味方になってくれるまでは、あてにならない味方を頼んで軽率に動くべきではありません。かつての敵をうまく取り込みながら、慎重に振舞い、権力を維持し続けることが肝要です。

 「君主論」には他にも興味を惹く点が多々ありますので、折に触れて読み返したい本です。